「じこべんご」ボクたちはみんな大人になれなかった 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
じこべんご
個人的な雑感だが、日本のYouTubeは気の滅入るのが多い。
修羅場と愁嘆場。喧嘩や衝突。なにかの謝罪じたいが人気コンテンツでもある。生活感と瀬戸際感とギラつきのある日常性。身につまされる現実。
わたしはYouTubeを見ることで現実・日常をわすれたい。逃避をもくてきとしている。日本のYouTubeはそのもくてきを果たせない番組が多い。(知りうる限りにおける、個人的見解です。)
理想は(たとえば)Didac Ribot。日本ならパパラピーズ。現実を想起させない、たのしいユーチューバーを好んで見る。
これは日本映画にもあてはまる。日本のYouTube同様、日本映画は修羅場と愁嘆場、挫折や哀感、不仕合わせや不遇、性的な搾取──といったシーナリーや主題が多い。
外国映画には内省を吐露している映画は少ないが、日本はそんな映画ばかり──といえる。
それは、あたかもクリエイターが自我をさらけだすために、映画という手段をもちいているか、のようだ。が、映画はきほんてきに庶民向けの娯楽である。
庶民向けの娯楽映画をつくろう──というスタンスがあるなら、クリエイターはじぶんの心象なんか吐露しない。そんなものは、不特定多数の人々を感興させるのに、役にたたないから。
畢竟クリエイターが自己主張したくて映画をつくっても、映画は技術によって伝えるものなので(技術がなければ)監督の主張は伝わらない。
なぜ(海外の)映画監督がホラー映画からキャリアスタートするのか──といえば、ホラーは観衆に伝わりやすい仕組みだから──に他ならない。
すなわち監督が観衆に伝えたい自我(あるいは自我を投影した原作)があるなら、その自我を観衆にわかるコンポジションに書き換えるひつようがある──わけである。
これらは言うまでもないことだが、日本で映画をつくっている人・つくろうとする人だけが知らない。
挫折というか平和すぎて挫折らしい挫折もできなかった。という話。
深刻ぶってみるけれど、かれらが乗り越えなければならなかった壁は足下にあって、ひょいとまたげた。まして今とちがってバブルを生きた人たち。コロナもコンプライアンスもなかった。恋愛や失恋や仕事や生活、んな、ご大層なもんじゃなかっただろうが。なんの変哲もない団塊の息子・娘世代の青春を、エモ感&吐息感たっぷりに描いちゃって(←ほめことばです)るけれど、この国最高の好景気を満喫した君らに、いったいどんな哀歌があるっての?と(個人的には)思った。
とはいえ、森山未來も伊藤沙莉もほかの俳優もみな巧いので、まるでノストラダムスの1999が当たりで、地球の最後を嘆きつつ日々を生きる、みたいな雰囲気の映画になっていて、でなければ超絶に平和な国の首都で、いったいその意味不明の哀感=「深い悲しみを背負ってます」感はなんなの?という感じだった。
ボクたちはみんな大人になれなかった──とは言うけれど、みんな食べて寝てすくすく大人になったじゃねえか。なんにもなかった青春をむりむりにエクスキューズ(=他人様の同情を買える姿形)してしまった力業の原作。(←ほめことばです。)の映画化。
で、ほんとふつうだわ。と言うのがオチ。モテキと俺はまだ本気だしてないだけにひたすら気が滅入るリアリティを付け加えて、ねちねちと平和に不満をならべたいつものザ日本映画。(だと思いました。)
迫害されてもいなかった、飢えてもいなかった、雨風をしのげなかったわけでも、権利を剥奪されていたわけでも、亡命をきぼうしていたわけでもない。恵まれた世界の世迷い言が映像化されていたので、たんじゅんに「これをネットフリックスで出したら、せかいにはもっと過酷なげんじつがいっぱいあるから恥ずかしいのでは?」と思いました。
監督がホラー映画からキャリアスタートする──そのりゆうは、ホラーが観衆につたわりやすい仕組みだから、と言ったけれど、それもあるけれど、そもそも世のクリエイターがフィクションにするのは、基本的に自分自身には何にもないからです。
未熟な日本映画見るたび「日本人てホントなんにも言いたいことないんだなあ」と思います。なお推奨の倍速スピードを評点としました。