「映像化に向かないマスカレード(原作未読)」マスカレード・ナイト nobu0612さんの映画レビュー(感想・評価)
映像化に向かないマスカレード(原作未読)
【構造上の不満】
今作は前作のマスカレードホテルに比べ、客の多くが事件に関与している。
これによって警察と観客は真犯人の描いたシナリオに踊らされるわけだが、これは伏線というよりミスリードである。犯人に関する情報がほとんど提示されず、後半まで語られない人物が黒幕となると、それまでの話は最後のどんでん返しのためだけの展開になってしまう。(日下部は「怪しい客」というより、理不尽な頭のおかしい客のため事件に関与しているように思えない。)
なので、後出しジャンケンにならないように、ミステリーとして盛り上げる工夫が必要ではないだろうか。
例えば「男性」としての幼い森沢とロリータにつながるもの(お姫様の人形など)を身につけた妹が2人で写っている写真を提示するなど視覚的に犯人の人物像を想像させるとか。
冒頭に踊らせるなら相手を現実世界の中村アンとではなく、非現実的に仮面を被った「男性」と踊らせ、警察が犯人に踊らされる展開を暗示するとか。(新田が中村アンを口説くと最後の山岸との約束のノイズにもなる)
【「森沢」という人物】
原作では生物学的には男性であり、幼少期から女装をしている設定になっている。これを生物学的には女性で、男性として生きている人物に改変したため物語に大きな歪みが生じているように感じた。
そもそも原作では犯行までの経緯として妹を汚した「男性」のいない世界を実現するために、男性恐怖症の女性を洗脳する場面が描かれている。それゆえ、女性達が他の「男性」と関係を持つことが許せないため殺害してしまう。この部分をなくし、森沢の過去についても新田の口頭での説明しかないため、なぜ連続殺人を犯したのかがよくわからない。そもそも日常的には「男性」として生活しているのならば、犯行動機の整合性が取れなくなってしまう。
これはそもそも犯人が「別人の仮面」をかぶるマスカレードシリーズが映像化に向かないことが原因だと思う。
男性俳優に女装をさせ、中根緑を演じさせたとしたら観客は必ず「怪しい客」以上の違和感を持つ。かといって原作通りに麻生久美子が本来は男性であると言われたら理屈として納得はするが、そうは見えにくい。ならば動機の部分をぼかして、設定を変えようという意図があったのではないだろうか。
前作のマスカレードホテルも、松たか子の老婆は変装感が強く、何より顔の雰囲気で誰が演じているか分かってしまう。そもそも老婆を違和感なく演じられる若い女性は稀だと思う。(樹木希林くらいか)
つまり、小説では騙せる設定であっても、映像化したときに説得力を生むことが難しいシリーズなのである。
【「山岸」という人物】
山岸は今作でも犯人の標的となってしまうわけだが、回避できた理由が前作と噛み合っていないように感じた。
まず、前作では不在の部屋なのに文鎮の向きが違うことで、新田が違和感を持ったため助かる。これは山岸が向きを直すシーンが描かれ、きめ細やかなサービスを提供しているからこその展開である。
だが、今作は山岸の時計がずれているために命が助かる。この手の展開は狡猾な犯人を騙すためによく用いられるが、ずれている理由として、形見の時計であること、支配人から時計を見るなと教育されていることが語られる。しかし、文鎮の向きすら気にするホテルマンがお客様の前でずれた時計をつけ続けるだろうか。
「時計を見ないように接客すること」と「ずれた時計をそのままにしていること」は同じようで明らかに違うと思う。
山岸のような人物であれば形見の時計は懐やバッグに忍ばせておくだろうし、ずれていることを指摘されているにも関わらず直さないのは尚更らしくない行動に感じる。ならば、純粋に余裕を持ってサービスを提供するために5分ずらすことがホテルとしての共通ルールになっている方が納得度が高いのではないか。