ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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村上春樹とともに、村上春樹を超えて/「マイ」カーとともに「マイ」カーを超えて
この作品の出来は、
「村上春樹」の名前を生かしつつも消すことができるかどうかということにかかっていたのだと思う。
しかし、それは濱口が雑誌『文学界』9月号で語っていたように、まさにテキストに忠実に、そしてテキストを超えていく作業でもある。
わずか60頁程度の短編の作品を179分という長編に翻訳し直す作業は「村上春樹とともに、村上春樹を超えて」いかなければならない。正直に言えば、それは、なかばうまくいき、なかばうなくいかなかったということになるだろうか。
多くの映画評の記事にあったように、クレジットまではタイトルテキストとは別の「春樹」以前の物語だし(もちろんそれが「シェエラザード」や「木野」であることは踏まえてのことだが)、また北海道以降も「春樹」抜きだ。
「春樹」の作品に(広い意味でも、この短編集という狭い意味でも)、そしてそれをテキストとしたこの映画の通奏低音に「流れている」のは「無音」だろう。
「春樹」流のセックス描写はそれなしにはあり得ないし、そこからノイズが生じ、そしてさらに意味が与えられる。
家福の「妻」である音との「物語」は、二人の「心の」沈黙(これがこの物語の主題)から一方的に生じ、それを家福は受け止めること(彼のセックスは無音でしかあり得ない)でしか、彼女の彼女らしさに気づいてはいない。
だから、彼にとって自分の無音を受け止める目の前にいる女性は、「妻」ではなく、セックスの相手である女性でしかない。全てを削ぎ落とした後に残る女性が語る「物語」。それが家福の前にいる女性の役割だった。それ以上でも、それ以下でもなかったはずだ。
そしてまた台本の「イタリア式本読み」もこの通奏低音に通じるものだ。この読みは、「春樹」のセックス観に通じるし、エモーショナルものを抑えた乾いた交わりを描写している。
しかしこのような家福ではあるものの、それとは異なったテキストに意味を見出してもいた。
「私たちはロボットじゃありません」というジャニスのエレーナの言葉は、家福の「正しいセックス」からは離れているにもかかわらず、彼が求めたのは、音が語り出した延長にある物語であり、またその演出描写を実はそこに求めたのかもしれない。自分の言葉ではなく、他者の言葉を借りて。
だから、そのような家福だからこそ、イ・ユナのソーニャとジャニスのエレーナには、その「声」を聞きとろうとしているし、いや実際に聞こえているのだと思う。
このような家福の姿を通して、この作品は、「無音(沈黙)ーノイズー有意味化」を何度も繰り返し私たちに問い返し続け(だから手話を含めた他言語劇があるし)、そして、最後にはソーニャの言葉なき手話としての沈黙のセリフにつながってくる。
翻訳の可能性と不可能性。
一人ひとりの言葉の伝達可能性と不可能性、存在の共有性と独立性。
劇中劇は、本編に重層決定するイメージを刻印している。
言葉が通じると思っていた、あるいはそう思っているはずの者とは誰も結局はまじりえず(そう、音ばかりか、結局は高槻とも、或いはみさきとも)、そうではない、言葉を尽くさない、尽くすことのできない人と交わり得ることができることの予感を教えてくれる。
それを考えれば、この映画の冒頭シーンは、表情が見えぬ者の「影」の語りから始まった。影でしかない声を反復する男のシーンというのは極めて象徴的だろう。
そしてまた、これを十分に理解していればのことだが、「唐突な」ラストシーンも理解できる。
みさきは、吐露を経て・・・(その前段には招かれた夕食会がある)、彼女が選んだのは、通じ得ぬ誰か(犬は言葉なき通じ得るものの象徴)と共有し得る世界を初めて掴んだ姿だったのかもしれない。
場面としてはかなりの違和感があるものの、上十二滝町(中頓別町)でのみさきの言葉。
「母が本当に精神の病だったのか、私を繋ぎ止めておくために演じていたのかはわかりません。仮に演じていたとしても、それは心の底からのものでした。サチになることは、母にとって地獄みたいな現実を生き抜く術でした」。
これが「影」を共有できる彼女と家福との、ただそれだけの同じものも持つことのできる言葉だったのだ。
しかし実はすでにこの声を家福はすでに気づいていたのかもしれない。
「でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」
家福からすれば、おそらくは存在としては耐えきれないほどの軽さを持っていた高槻という人間のこの言葉は、家福の高槻に対する優位性を砕き、自分からすれば関わりうる他者に対するエゴセントリックな状況に気づかせ、それがこの後のみさきの言葉の伏線にもなってくるのだろう。
それも「マイ」カーのなかで。
「ドライブ・マイ・カー」
SAAB900turboは、家福からすれば、他者と共有しうるテキストだった。
と同時に、家福にとっては、音であれ、高槻であれ、みさきであれ、彼らとの共有性はそこでしか見出せず、また、自分の思いが剥ぎ取られていく場面でもあった。
彼の運転への固執は、自分のテキストに収まりきれなかった彼らを「所有化」しようとするものでしかなく、それが徐々にではあるにせよ、否応なく助手席にしか居場所を見出すことができない自らの位置を確認すること、そう変更せざるを得ないこと、そしてようやく彼らとの共有テキスト性から乖離していたことに気づき、その問いを自分の中に埋め合わせようとした。
それが、このSAAB900turboには詰まっていた。
テキストとしてのSAAB900turbo。ドライブ・「マイ」・カーの「マイ」のテキスト共有性。
これが、本作品の骨子である。
ただ、ひとこと言っておこう。
やはり、広島からみさきの出身地北海道への場面の転換だけは、あらゆる解釈の彼岸にある。
『文学界』9月号の「提灯」エッセイでは「素晴らしい転換」などと評する言葉を吐いていた者がいたが、僕はそう思わない。ここは本当であれば広島で完結すべき内容で、最後になり「春樹」の語らなかった言葉を超えて語りすぎたのだと思う。家福にせよみさきにせよ(高槻がそうであったように)、音の言葉が潰えた「広島」でどの者の語りも終わらせるべきだったであろう。
語られず残されているままのオマージュを容易な場面転換で回収すべきではなかったと、自分は思う。
世の「忙しい」男性に見てほしい映画
なぜドライブマイカーが響くのか?それは家福の現実をすり抜ける様子が、自分自身と重なるから。彼は一見、現実をありのままに受け入れているかのように見える。ただ実は、「受け止め」ているわけではなく、受け止めることを恐れ、すり抜け、受け流していることが伝わってくる(批判的な表現ではなく、「すり抜け」るしかない様子が共感的に示される)。さらに、この物語で象徴的なのが、事実や物理的な事象と同じように、テキスト(虚構の現実や感情)をそのままに受け止めることの大切さだ。その後にしか本物の演技(演技と言えるかは?)ができないと。「テキストに飲み込まれる」と彼は言った。現実を受け止めきれず、すり抜けている彼だから、防御本能的にワーニャを演じられないと感じたのだろう。テキストをそのままに受け止めた後に表現されるモノは、言語や手話の壁を越えて、現実として表現されるモノになる(それはジャニスとユナの芝居で示された)。家福が演劇で表現したいものはそういうことなのだろう。家福も、それはわかってはいたが、できなかったからワーニャを演じされなかった。
高槻が言っていたのも一方で事実。「自分と徹底的に向き合うことでしか他人が見えてこない」と。高槻は、家福と同じように現実を受け止められない男性として描かれている。向き合っても空っぽ、暴力性、衝動的。社会一般の男性性の、家福とは違う側面での表象だと思われる。(悲しいのは、高槻と家福の会話は常に同じ地平に無いことだ。男性同士での会話の救いにならなさを感じてしまう。)
音の話の中で、空き巣は左目を刺される。空き巣は家福だ。主人公の女子高生は音だ。だから、最後に防犯カメラ(これも大きな隠喩)の前で「私が殺した」と叫ぶことで救われようとしている。しかも、家福にはヤツメウナギが「高貴」にも、石(日々の現実)にへばりついて死んでいくことまでしか話していない。娘の死というあまりに重い現実を、二人ですり抜けていることを自覚しているからだろう。(ただ、そのような重い現実をすり抜けることの是非は私にはわからない。一方で、「生きていく」ことの大切さもこの物語で通底している。受け止めることが困難なほど大きな現実を、受け止め、立ち向かうことばかりが正であるとは思えない。)
最後にみさきの故郷に旅する二人は、それぞれの過去の自分と向き合い、それを分かち合う。この物語を通して唯一、救われる方法として、このプロセスが描かれているように感じる。
少なくとも、家福の「すり抜け」るような現実の受け止め方は、現実の重さの軽重はあれど、私は実感する。現実やテキスト(他者にとっての事実)を、「そのまま」に受け止め、救われる(または、向き合う)ことの大切さを身にしみて感じる。
多くの「忙しい」男性に見てほしい。
霧島れいかの冷ややかな視線と赤いサーブが夢に出てきそう
寝ても覚めてもの濱口監督作品
得体の知れない人間の闇を見つめて撮ってくれる監督です
絵は確かに濱口監督らしい絵なんだけど、今回は2時間ドラマの崖の上のように、ベラベラとセリフによる説明が…いらん!映画やぞ
と思いましたが…
所詮他者のことなんか決してわからない
妻であっても親であっても
ましてやいくら自分を覗き込んでみても
他国の言語で聞いても自国の言語で聞いても同じこと、不自由な舞台劇のように、生きているうちに言葉で他人との間の霧が晴れることなんてない
でも手話の人よかった
手話でソーニャをやるって誰のアイデアなんだろう?
この映画の中で唯一真実味のあるシーンに見えました
でも幸せに見える手話の妻とその旦那さんの間にも、きっと闇はあるよね
ラストで、韓国の街を犬を乗せて我がもの顔であの赤いサーブを運転している女…車と犬を略奪したのだろうか?
この映画の中でも、誰かによって言葉で語られることは所詮空虚でしかない、ということかしら?
たとえそれが抱擁であったとしても…抱き合った時に相手の顔は見えない
なんだか村上春樹みたいやん
ひきこまれる
原作を知らない状態で観に行きました。
音の魅力にひきこまれながら、淡々と吐く台詞が心地良く
耳に残りました。
そりゃそうなんですけど、愛の形は様々です。
何が正解なんてないですからね
自分が選択した事が全て何だと思います。
家福は音を失いなくないから現実から目を反らしていた。
音は家福を愛しながらも他の男性とも関係があった
きっと音は何かに満たされてなかったのかも……。
家福はみさきと出会い、徐々に吐き出し
お互い吐き出し、これから生きて行かなきゃいけないんだと……。
ラストはハッピーエンドなのかなと勝手に解釈してます。
きっと韓国公演の真っ只中なんですよね♡
今日も素晴らしい作品に出会えた事に感謝致します。
ドライブした道のりをハショッても3時間…。
冒頭から、オナ○○…ネタで始まり、あらら、村上春樹だ…と思っていたら、アレヤコレヤと事があり、中盤にさしかかるところで、ドライブ・マイ・カーと表題が出てきて、オイオイ、今からかよ…と思いつつ、また、アレヤコレヤとあり、終盤に事件があり、舞台を中止にするか、主人公の家福悠介が事件を起こした俳優の代わりに舞台に出るか、決断を迫られ、猶予は2日という段になり、悠介が、ドライバー“みさき“の故郷を見たいと言い出し、広島から青森へ車を走らせ、フェリーで北海道へ渡り、みさきの故郷を訪ねる。
これは、どんな距離感と、何を言いたいストーリーなのだろう?
広島の平和公園から、一時間で行ける瀬戸内海の島に、悠介の宿を取ったということだったが、これも距離感は大丈夫なのだろうか?
村上春樹の原作は知らない。元は短編なので、かなり原作から変わっているところはあるのだろう。
最後に、みさきは韓国で赤いSAABに乗っていた。輸出したのだろうか?
メッセージ不明…、これは村上春樹と同じ方向性と言えるかもしれない。
カンヌの脚本賞、おめでとうございます。
静かで不思議な作品だった
いかにも村上春樹さんらしい「喪失と再生」の物語だった。
役者の配役上手いなと思う。
明るい作品ではないけど、映し出される風景に目を奪われ癒された。
都内のなんとなく見覚えのあるような風景、広島の紅葉の頃の広い街の様子、北海道の真っ白な綺麗な雪景色、北海道に行くまでに通るひたすらの田園風景。新潟なのか、福島なのか、どこかの東北なのか。懐かしい郷愁を感じる染み入る風景に癒された。
受賞に納得
あっと言う間の3時間でした。
この映画を良いねと言う人と、友達で居たいと思わせる、余韻の深い作品でした。
岡田将生は、高槻を見事に演じていた。しかしどうしても、「本当の岡田君はあんな社会人失格者じゃない」感が邪魔もしました。
もし、高槻が伊藤健太郎だったら、ピタリとハマったのに。何も考えてなくて空っぽで、学も無くて行動が軽率で、でも演劇に必要な感性はある。
自分を律する事が難しく、衝動的な行動が元でキャリアを崩し、それでも自分を変えられなくて遂に逮捕されて主役降板。
伊藤健太郎だったらリアリティーあったな。
一緒に車に乗っているかのような映画
受賞されている映画なので鑑賞✨
内容が実にシンプルで
淡々としている
裏があるのかと思いきや
そうゆう展開でもない
奥さんを亡くした夫が、喪失をどう癒すか、生きていくか
そんな映画でした。
奥さん亡くした夫、映画なら、永い言い訳の方が好きかなぁ
以下ネタバレ
家福さんと渡利さんが韓国人夫妻のところで料理をご馳走され、渡利さんが褒められるシーンで、犬を可愛がりながら、照れている表情が良かった😊
吉田大八監督が出てた笑
警察役で本当に少し笑
なんで最後、ドライバー渡利さん韓国にいるのー?
と思ったけど、西を目指して広島に来たと言っているのを思い出した。
日本を超えて西へ行ったのかな?
あの車貰ったのかなぁー
そして犬可愛い🐕💕
人との出逢い、交わり、変容
「スパイの妻」濱口竜介監督の作品であり、ロケ地が広島なので鑑賞。「人との出逢い、交わり」がテーマだと思う、人は出逢い、交わり、変容してゆくのだ。「家福悠介:西島秀俊、家福音:霧島れいか」夫婦、「家福悠介:西島秀俊、高槻耕史:岡田将生」演出家と役者、「家福悠介:西島秀俊、渡利みさき:三浦透子」演出家と担当ドライバー、家福悠介の愛車SAAB900(この映画での存在感が凄い)に同乗した二人の関係が変容する様は見どころ。「家福悠介と渡利みさき」が渡利の故郷を訪ねるシーンは胸を打つ。「パク・ユリム:イ・ユナ(聾啞者)、ジン・デヨン:コン・ユンス」夫婦の暖かさが胸に沁みる。オーディションや稽古シーンには舞台芸術の凄みを感じた。ロケ地では、しまなみ海道【来島海峡大橋(今治からレンタルサイクリングした)、御手洗(高校時代の親友と訪れた)】に想い出が蘇った。約3時間の長編映画だが、そんなことを感じさせない秀作。
戸惑い・・・
まずこの映画の中で演じられる劇中劇だが、複数の言語やコミュニケーション手段を持つものがその言語のまま一つの劇を演じるというのをこの映画で初めて知ったのだが、実際に演劇の世界ではポピュラーな演出なのだろうか?それともこの映画におけるオリジナルなアイデアなのか?それとも原作に既にこう言った内容で表現されているのだろうか?
もし村上の原作に既にこういった内容でテーマ化されているのであればそこには2007年公開の映画『バベル』の影響を感じずには居れなかった。勿論異なるコミュニケーション手段をとった劇を映像の中に埋め込むという手法はとても高いオリジナリティを感じたが、後半のロードムービーが急にリアリティをなくす設定なのが前半かなりドキュメンタリックなのに対して逆説的に目立って気になった。正直2日間しか猶予がない中で、思い付きであの中古のサーブで冬の北海道へ1日でしかも北陸道経由で行くことのリアリティの無さは塗油距離運転したことのある人間えはあり得ない設定である。ロードムービーは現実の風景の中を現実の時間を掛けて移動するからこそリアリティがあり詩情が生まれる。ここは見終わってからじわじわと不満に感じてくるので正直評価をその分落とさざる得ない。この後に『グリーン・ブック』と言うアメリカのロードムービーを見るとそういった破綻がないのが素晴らしい。とは言え、この作品の持つ総合的な高い芸術性はそれで損なわれるものではない。各演者の迫力がスクリーンを突き破って胸に突き刺さる。
いつまでも心に残る
手話をふくむ多言語の演劇ってこう観せるのか。
田舎住まいなのであまり舞台を鑑賞することもなく興味もなかったのですが、機会があれば観てみたいと思いました。
西島秀俊、岡田将生の他は知らない俳優さんばかりで、村上春樹原作の三時間の長編。体調も万全でなかったので途中で寝てしまわないか、心配でしたが杞憂でした。
途中で時計見て、あ、もうこんなに経ってるって思ったくらい見入ってしまいました。
どなたかが書かれていましたが、この映画の持つ吸引力。台詞のひとつひとつが大事に作られて発せられている。走行するサーブ。広島市内をはじめ、瀬戸内と北海道の風景。亡くした妻と亡くなった母への想い、罪悪感。助けられなかった、助けなかった後悔。
見終わって何日か経っているが、ラストのドライバーの明るい表情、終盤の舞台のシーン、手話、主人公の涙、いろんなシーンが蘇り、胸を打つ、心が震える。
いつまでもいつまでも心に残る作品。
原作長編をダイジェスト化するより、短編小説を膨らませた方が面白いって、書いてたの和田誠さんだったかな。
「静寂」と言う表現の美学、的な。
正直なところ、濱口竜介監督は苦手。村上春樹も殆ど興味無し。3時間もある映画も最近苦手(ポンポ症発症中)。韓国嫌い(ただし政治的なとこだけ)。SAABも嫌い(カッコ悪いです)。最近「カンヌ」と聞くとジンマシン(ベルリンよりマシです)。もうね。ネガティブ要素が列なしてます。
が。
西島秀俊と三浦透子は好き。撮影地は地元広島。あとですねー....ポジティブ要素って、そんだけ?
撮影地が広島だって知らなかったら、確実にスルーしてたと思うんですが。久しぶりに見た「文学作品」でした。「文芸」じゃなくて「文学」。これは良かったです。
台詞は少なめ。演技の抑揚はリアルで過剰演出無し。音楽は有りません。この、文章を噛み締めながら読み進めている様な感覚になる「情報密度の疎」の心地良さですよ。
劇中劇は家福の内心暴露。故に、おざなりに描く事無く、雑に流さず、丁寧な描写が続きます。ユナと家福の舞台のラストには、ハート打ち抜かれましたがな。このシーンは俺的映画史に残る場面になりました。
喪失の怖からの逃避。抑圧への恐怖からの脱出。行動せず、黙り込み、結果として見殺しにしてしまったのは「己のココロ」。別に、立ち向かえだの闘えだのと、勇ましいことは言わず、「それでも生きて行くしかない」と言う流れから、明るい未来がちょっとだけ見えると言うのが好き。
良かった。とっても。
それでも原作は読まないけどw
撮影地の件。広島FCの紹介によると、家福と渡利の2人がユナ夫妻に招かれた家は「クアハウス湯の山」って事になってますが、違います。クアハウスに、あんなログハウスはありません。タレコミによると、湯来の、とある有名な場所近辺の、個人のお宅の模様。Google Mapで確認しましたが、かなり風景が変わっているものの特定は可能でした。ここは、野次馬気分で見物に来られても迷惑なんで、そっとしておこうと言う配慮からでしょうね。
ちょろっと追記。前田多美さんを発見した話。
ホテル(宇品の広島プリンスと言う事になってる)のバーのカウンターで西島秀俊さんと岡田将生さんが話している場面。カウンターの端に座っているカップルの男が、岡田将生さんの写真を撮り、岡田将生さんがクレームを付けに迫ります。そのカップルの女性役が、前田多美さんだったと思います。露出が地味で一瞬だったので見落としそうになりましたが。また、何かの作品で、もっとたっぷり拝見したいです。
人生を歩む〜それぞれの想い
永く連れ添った夫婦らしからぬよそよそしさを冒頭から感じつつ鑑賞。二人には埋められない悲しい記憶が…。
脚本家の妻音(霧島れいかさん)を深く愛しているが故に動揺を隠せない舞台俳優で演出家の家福(西島秀俊さん)と、挑むような眼差しで想いを語る俳優高槻(岡田将生さん)との車内でのシーンが強く印象に残る。
ミステリアスな物語を紡いだ音の想いとは。
家福に頼まれ雪に埋もれた地を訪れたドライバーのみさき(三浦透子さん)が、ラストに見せた表情に救われた。
映画館での鑑賞
冒頭から意味不明だった
酷評になる。最近見た映画の中では面白くない順位の上位に入れてしまった。
とにかく冒頭の奥さんのひとり物語りが意味不明過ぎてすでに見る気が失せていき…
テンポが遅く3時間は長すぎる。飽きてしまってしょうがない。
原作が村上春樹と知ったのは最後のテロップでだが、なるほどどうりで。何を考えてるかわからないミステリアスな女性が出るはずだ。
コンペティションを目指して作ったのだろう一般鑑賞者にやさしくない(意味不明、長い、展開遅い、話に深みがない)内容と表現。
久しぶりに映画館で見たがもしネット配信だったらすぐ見るのをやめてしまったかもしれない。
直ぐに映画館に駆けつけろ!
掛け値なしの名作。直ぐに映画館に駆けつけろ。
3時間を超える作品だから、上映前に必ずトイレに行って用を足すこと。
上映初日に鑑賞したかったが、村上春樹の原作をまだ読んでおらず後回しにした。原作を読んで、それほどの作品と思わなかった。これでカンヌ国際映画祭で脚本・脚色賞を取れるものかなと考えていた。
見終わって、66歳になる私が涙目になった。
映画は原作を超えて、素晴らしい名作になっているのだ。原作をにくいほどに脚色を与えて、素晴らしい作品になっている。主人公を俳優から俳優兼演出家に変更している。その妻も脚本家に変えている。その他脚色が全てに当たっている。おまけに、チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」を絡ませて、見事と言うしかない。これで作品賞を獲得できなかったのは、その作劇法が欧米人に合わなかったからではないか。丁寧に作られたのが、受けなかったのか。でも、日本人らしくて良い。
ちょっと残念に思ったのは、地滑り後の現場での西島秀俊の演技。感情が籠もっていないように見えた。寒さのせいかなと思った。欠点はこれぐらいか。北海道へのドライブ中、無音になる場面があった。これも効果的だった。時間が止まったのように感じた。
コトバに頼りすぎていないか??トラウマ物語は昨今流行りなのか?
主人公の妻は現実には居ないような女。
セックス中の朗読が棒すぎて引いた。
これは別の短編も引用している。
全てにおいてこんな奥さんいないよねえ。なんか暗いし。
どうも村上ワールドにいかにもでてくる妻っぽ過ぎて、映画では逆にリアリティーに欠けるしその分説得力が薄くなる。
20年も連れ添っていて、しょっちゅうセックスやらディープキスやら、行ってきますのキスやら、よくそんな情熱があるなあと、半ば感心して観てしまった。
何故こんなにベタベタしてるのか?ふたりとも『何を』四六時中確かめていたいのか?
西島秀俊もいつも演技がかってて、小説の台詞を映画用に変換せずそのまま話してるみたいに聴こえる。脚本にかなり無理がある。どうも人間(生身の役者)が演じてるように観えない。
チェーホフの戯曲を劇中劇とし妻のテープを使い、主人公の人生とリンクさせていた、まあよくある手法だけど、どうせ使うなら……。
村上小説に出てくる主人公や周りの人たちは、台詞がかなり独特で、普段こんな言葉遣いしないよなあ〜みたいなところが多々あるから、違和感を感じるのだと思う。
棒と云えば、劇場の管理者?のおばさんが酷い棒で、彼女が喋る度に失笑してしまった。
アジア人で、日本語がつたない人な役なのか?
韓国のコーディネーターの男性は台詞上手かったし、一番演技が自然だった。始めから彼の人柄に親近感がわいた。
良かったのは韓国人夫婦の素朴で温かい家庭。唯一ありそうだなあって感じた。特にふたりの表情がいい。
劇中劇の中の中国人女優と韓国人女優の公園での演技がとても自然で良かった。2人ともそれぞれに魅力があり、美しい。
ドライバーは不幸な生い立ちのてんこ盛り。帰郷した時の、母には別人格がいたとか、まだ盛りますか?もうお腹いっぱいですよぉ。みたいな。。
原作より10歳は若い設定でしょうか?
私は最初原作読んだとき、ドライバーはアラサーくらいかなとイメージしていた。
無口だか、どこかドッシリしていて、少しふくよかな身体を想像していた。この女性なりの人生もありそう。
マイカーも、お金持ちが乗るようなもっと大きな車を想像していたのでコンパクトでビックリした。
車には詳しくないです。
岡田将生は、自らをカラッポだと言いつつ、その後の熱を帯びた話し方を見ていると、全くカラッポな人には見えない。
主人公と妻がセックス後、神がかった何か?が降りてきて脚本が出来たとか、ジョークか??
文字表現ならばこの不思議な設定アリだけど。台詞にすると安っぽくなっちゃうんですね。
安っぽいと言えば、ドライバーが主人公のマイカーを運転した時の感想も、台詞にすると重みがなくなる。小説のように印象に残らなくなる。コトバが留まらず、流れてしまう。
そして作り手側はコトバに頼りすぎていませんかね?
岡田の傷害致死も突飛。いくらカッとなりやすい性格だからといって、ケガだけでなく亡くなるだなんて。
作り手側が少し乱暴すぎやしないか。
ラストは、せめて映画の中だけはこんなご時世を忘れたいのに、何の意図でドライバーはマスクをしているのか?
『男のいない女たち』
正に主人公は男たちなはず。
なのに、ラスト女が締めくくる。女の出直し映画みたいになっちゃいました。
原作ではドライバーが、
『奥さんは、男と寝ただけですよ。ただそれだけですよ。』
だから、意味なんてないんだ。
それで主人公も読み手も救われる。
そして、絡まりあった糸がどうしても解けないと、もがき苦しんでいたと主人公がその台詞で立ち直る。
実はもっとシンプルだったんだと。
そう、原作は重くも暗くもなくもっとアッサリしてて軽やか。
村上春樹の短編はあんまり読んでなく、スルーしてるものが多い中、この短編は割と好きで印象に残っていた。
今作と、大阪弁を話す男の話、バーのマスター木樽の話。
中でも今作はワタシの中では『沈黙』『眠り』と並ぶくらい傑作と思う。何というかカラッとしてるんです。
まあ、好みですが…。
映画はストーリーがブレブレで、短編小説の良さが全くなくなってしまった。
村上春樹ファンが創ったファンによるオマージュ作品みたいな出来になっちゃったなあ。
村上作品を映画化するには、そのままの文体・コトバに頼って表現するのはやはり難しいのでは?と感じた。
この作家さんがよく仰る『リズム』です。リズムが正直、チグハグしているように観える。
ドライバーの帰郷と、韓国への移住の尺は必要だったろうか?
劇中劇のラスト、聾唖者の女優が素晴らしい演技をした。そこには彼女の発声するコトバは勿論なかった。
手話と、時折パシッと手を打つ音だけ。
これ以上、足すものがあるかな。
ここで映画の幕引きしても良いくらい。多少の余韻を残して…。
韓国ユニットがやたら多かったのは日韓合作なの?と思いきや…日本映画でした。
同じ韓国ならば圧倒的に韓国映画、『バーニング』の方が脚本もよく練られていて、暗喩が効いてて、かなり出来が良いと思った。暗喩は村上作品の鉄板。
あくまで原作読んだことある人間の個人的な感想です。(村上作品を低評価にすると、たまに怒る人いるけど怒んないでね)
3時間って長い
自分が何とかできたかもしれない状況で大事な人を失った後の遺された者の悲しさ辛さ、それでも生きていくのだと決意する強さ。
そういったことはわかるけど、なんか余計な要素が多い。演じる俳優がバラバラの言語を話す演劇ってほんとに面白いの?なんで広島に韓国人しかも妻は鴦の夫婦がいるの?説明してたけど説得力なし。多様性はわかるが。緑内障のくだりとか、高槻がする左目をペンで突く話と繋げているのだとしても大して意味はなく、そういった一つ一つがメインテーマに繋がるわけでも特にない。なんでこんなに長くしたのか、私にはわからなかった。
ファンってのもあるのかもしれないけど、車の後部座席で向かい合ってアップで岡田将生が延々と話すシーンが良かった。岡田将生が出てなかったらもっとつまんなく感じたかも。
しかし数分間の顔面殴打で数日後に死ぬってことあるのかな。
福井の映画好きは映画館で観なかったことを後悔する
DVDとかで良い映画に出会うと、映画館で観たかった、と悔しくなる。そういう作品。
すごく新鮮な映画体験だった。
他の方も書いているように重奏的。
オムニバスじゃなくて、並行して進んで行く感じ。
目の前の映像とは別に観客の想像力をうまく使っているんじゃないだろうか、
それは始まりから巧妙に仕掛けられていたんじゃないだろうか、
観客の想像力によって成り立つのは、まさに演劇の世界だよなぁ、
等々、後になって思ったけど。
でも、重奏的な物語を観賞中けっして複雑に感じない自然な構成。
今でも目に浮かぶ、すばらしい映像。
間違いなく、今年のベスト。
上映中もう一度観に行きたい。
昨年の私的ベスト「はちどり」を上映したのが、福井県ではテアトルサンクだけだったのですが、今作も今のところテアトルサンクだけ。
本当にありがたい映画館です。
舞台の俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)。 彼が創り出す舞台作品は...
舞台の俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)。
彼が創り出す舞台作品は、著名な戯曲をもとにしているが、世界各国の言語が入り混じる独特のもの。
私生活では20年以上連れ添った妻の音(霧島れいか)と穏やかながらも満ち足りた日々を送っていた。
しかし、ふたりの間に障壁がなかったわけではない。
十数年前に幼い娘を病気で亡くし、落ち込んでいた妻は悠介に隠れて、複数の男と関係を持っていた。
さらに、現在、テレビドラマの脚本家をしている音は、悠介との行為のあと無意識に物語を語りだすという奇妙な性癖があり、それがテレビドラマのもとになっているのだった。
そんなある日、出かける直前の悠介に音は思いつめた様子で「今晩話がしたい」と言い、その夜、遅く帰宅した悠介はくも膜下出血で倒れている音を発見、音はそのまま帰らぬ人となってしまう。
それから2年・・・
といったところからはじまる物語で、ここまでがかなり長いプロローグ。
この後、広島の国際演劇祭でライフワークともいうべき『ワーニャ伯父さん』の演出を任された悠介は愛用の赤い自動車で広島へ向かい、演劇祭の実行委員会から専属ドライバーとして寡黙な女性みさき(三浦透子)が提供されることとなる。
悠介は愛車の中で『ワーニャ伯父さん』の台詞を復唱することを常とし、ワーニャの台詞以外は音が読み上げるテープがその相棒であり、それは音が死んでからもなお続けられている・・・
このどことなく奇妙な物語がどこへ行きつくのか? 個人的には「怪談」だと感じました。
2年前に死んだ妻に囚われてしまった男の物語。
憑りつかれている、といってもいいかもしれません。
悠介に憑りついて離れないのは、「今晩話がしたい」といった音の話。
いつもならば、寝物語として聞いた音の話は、翌日、悠介が改めて語ってみせるのだが、音が死ぬ直前、最後に語った「ヤツメウナギの物語」は、不倫現場を見て見ぬふりをした悠介には語りなおすことが出来なかった。
「今晩話がしたい」と言った音の「話」とは、不倫をしている、という告白話ではなく、悠介が語りなおさなかった「ヤツメウナギの物語」であり、それは映画後半、音の不倫相手のひとりであった若い男優・高槻(岡田将生)の口から語られることになる。
そして、その「ヤツメウナギの物語」には続きがあり、幾重にも重なった死の物語が語られる・・・
このシーン、高槻の口を借りて音がよみがえったようであり、心底ゾッとさせられました。
映画は、音の存在を、彼女の声・言葉というモチーフを使い表現し、悠介の心に呪を掛けています。
その呪を解くのが、みさきとのロングドライブで、北海道のみさきの生家跡にたどり着いたのち、みさきの口から語られる母の死にまつわる物語であり、それをさらにダメ押しするのが最後の『ワーニャ伯父さん』の舞台です。
舞台のエンディングは、娘ソーニャがワーニャに語るセリフで終わるのですが、今回の舞台では、ソーニャを演じる女優は口が利けず、ワーニャに手話で語り掛けるという演出が採られています。
すなわち、ワーニャ演じる悠介に憑りついていた亡妻・音の声は聞こえなくなり、悠介もワーニャ同様に心の平安を得るというダブルミーニング手法。
驚くべき映画の構成、これはすごい。
カンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いたのも納得です。
前作『寝ても覚めても』で死神のような恋愛に憑りつかれた女性を描いた濱口監督、今回は、自分自身の疑念と亡き妻の妄念に憑りつかれた男を描くとは!
いやぁ、もう一度、鑑賞したいですね。
難しい!たぶん素直に難しいと受け取るべき!
ハッキリ言って、演劇的な難しい台詞回しを全部は理解できませんでした。演芸をさっぱり観ないからかもしれません。慣れている人が見たらセリフも理解できて、直喩隠喩も理解できて、また全然違う感想になるのでしょうか。
けど結局私は良くわからなかったので、そのまま受け取ることにしました。製作者の意図が前提にある導かれるストーリーではなく、偶然が前提でそのストーリーの中で登場人物が想いを巡らし語った、と。ただその中でも広島在住の韓国人夫妻についてはちょっと考察を巡らしてしまう存在です。幸福の象徴でしょうか。そう言いたくなってしまうほど光輝いて見えました。奥さんが最後の舞台上で非常に聖書的なセリフを語るのもそれを印象付けます。
冷静に考えるとストーリーは全然リアルではなく、むしろ荒唐無稽です。しかし演技と演出のリアルさで押し切っている感じですか?演技も、公演に関わる部分はとてもリアルに感じましたが、逆にそれ以外のシーンではむしろ演劇的な観客を意識したかのようなちょっとリアルさを欠いた演技に感じました。
もうけどごちゃごちゃ考えても正しい監督の解釈など理解できるわけないし、とにかく素晴らしかったです。素晴らしい映画でした。ただ続く人生へ向ける眼差し。複雑すぎて素直に捉えるしかない、素晴らしい映画です。もう本当に面白かったです。
(当然ながら)このレビューは個人的な記録を主たる目的に記しているもので、この映画は全然私の手に負えるものではありません。しばらくは、ちゃんとした批評、キチンとした評論を探すことになります。早くそういう文章を読みたいです。
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