ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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2時間59分の字面ほど長くは感じないが…
濱口監督の舞台挨拶があると知り、気になっていた本作を観に映画館へ。しかしその道中で2時間59分の超大作と聞いて気が重い。作品どうこうの前に、腰が痛い、喉が渇く、眠い、結局何が言いたいの?という印象が強いのだ、ずるずると長い映画には。こいつは苦行だぜ。
しかし正直言って3時間席に座っていた感じはしなかった。それぐらいの充実度がある作品なのは間違いないだろう。村上春樹作品はノーベル文学賞を獲ったら読もうと思っているぐらいに興味ないし、西島秀俊は相変わらず西島秀俊でしかなく、それでいて許容範囲内。つまりだから純粋によい作品なのだ。
三浦透子も良かったけれど、韓国手話で表現し切ったパク・ユリムがもの凄い。最後の舞台シーンも含めて、演技は言語ではなくて(寧ろ言葉すら発しない)魂なのだと恐れ入るしかなかった。彼女の演技だけでも観る価値があるだろう。
だからこそ、やはり全体的に冗長だと言いたい。家福による、好きだけど本気で向かえなかった。好きだからこそ逃げてしまった。会いたい。面と向かって文句を言いたい。これだけで音に対する気持ちは十分だ。自分のせいで死んだなんていうクラシカルな設定と、「そうやって生きていくしかない」的に陳腐な回答は排除してしまえば、2時間23分ぐらいに収まっただろうに。こういう冗長さが村上春樹的なら仕方ないのかもだけど、多分そういうこともないのでしょう。多分。
早く村上春樹作品読みたいな。そしたら感想も変わるかしらね。また来年に期待しましょう。
愛する人ほど心を傷つけあうことってあるよね
印象的な3つのシーンについて
まず印象に残ったのが、夫婦が4歳で亡くなった娘の四回忌の帰宅後のセックスシーンである。
あれは抱いてはいけなかったのではないか、と思うのである。
女性はただ話を聞いて抱きしめて欲しい時もあるらしいのである(彼女に言われたことがある)。
女性にハグするべきなのにキスをすると大怪我をすることがある。
彼らはハグするべき時にセックスしてしまい関係が完全に崩壊したのではないか、と思うのである。見ていてほんとに痛々しい。
最後のセックスの翌朝音は昨日の話は覚えてるか?と聞く。家福は覚えていないという(もちろん嘘だ。内容が自分が不倫現場を覗き見たことと重なってしまったのだ)。覚えているというべきだった。音はセックスの途中に意識を回復したように見え、彼女は話したことを覚えていた。もしくは、覚えていてほしかった。"覚えてないということは大したものじゃなかったということだから"というセリフが怖い。別れ際に女の子から言われた既視感のある発言。
二つ目。音が倒れてるところを家福が見つけるシーン。
音がコートを持って倒れているのがわかる。
私は"音は家福の帰りが遅いから心配して外に見に行こうとしたのでは?"
彼女"音は大事な話があると伝えたのに帰らない家福にあきれ頭を冷やすか浮気相手に会うために外出しようとしていた"
男はロマンチスト、女はリアリストだと思い知らされる
三つ目は高槻が車の中で家福に語る音の真実の物語。
この物語は最後、好きな男の子の家に空き巣に入った女子高生が本物の空き巣の左目を鉛筆で突き刺す。そしていろんなところを刺して殺してしまう。が、家に監視カメラがつけられたが、それ以外に世界が変わった様子がない。
彼女はカメラに繰り返す。"わたしがころした"と。
このシーンはとても重要だと思う。
まず監視カメラに音声は記録されない。
①口の動きと目線だけでメッセージを伝えるというコミュニケーションの意味(高槻の再現が面白い)演じる、メッセージを伝達するという個から切り離された表現の意味を考える
②わたしがころした はわたしが娘を殺したという罪の告白である。家福は音を殺し、みさきは母を殺し、音は娘を殺した…と思っている。そして
③ 左目に鉛筆を突き刺す、というのは家福の左目の緑内障に関係している。重層的な世界観。音は家福を殺そうとしていると自覚している。そして家福の心の一部を殺してしまった。その罪の意識から最後まで逃れられなかった。
なぜ現代に生きる我々はここまで罪を抱えないと人を愛せないのだろう、と思わざるを得ない。
この作品は村上春樹の作品の本質を的確に捉え、なおかつわかりやすく提示することに成功している。村上春樹の作品は世界中に読まれ、"これ俺じゃん"という読者をたくさん増やしている。この作品を観て"あ、これ俺じゃん"ってなる人はかなりいると思われる。それはおそらく村上の原作よりもはるかに強い訴求力だ。身につまされる。
結論。彼女や奥さんを大切にしましょう。
追記
劇中劇で監督自身の映画制作技法をそのまま作中で見せてしまうところはトリュフォーの"アメリカの夜"を思わせる。
村上春樹の"女のいない男たち"の中の"独立器官"ではトリュフォーの"夜霧と恋人たち"が引用されている。
韓国手話のユナの日本での境遇(誰ともコミュニケーションがとれないが愛する家族とは親密な関係)は、五体満足にも関わらず人知れず孤独な闇を抱える音と対比されているように思う。だからこそ、ラストのワーニャ伯父さんでソーニャを演じるユナから辛くても生きて行きましょうと"韓国手話で"伝えるシーン(しかもオーディションでの演技と全然違い眼差しが優しい)が泣けるのです。
再追記
2回目を観て時系列が明確にわかりました
家福が運転中に事故を起こし
左目に緑内障があることが判明する
家福が音と浮気相手(誰かは顔が見えず不明)のセックスを目撃する
娘の祝儀後
音"私あなたで良かったと思ってる"
"子供もう1人欲しかったんじゃない?"
家福"君の考えを支持するよ"
"あの子は1人しかいないんだから"
音"でもあの子と同じくらい愛せたかも"
家福"…"
帰宅後セックスする
ヤツメウナギの話と好きな男の子の家に空き巣に入る女子高生の話で女子高生が好きな男の子のベットの上で自慰をしている最中に誰かが階段を上がってくるところで音がオーガズムに達し話が途中で終わってしまう
翌朝
音"昨日の話覚えてる?"
家福"ごめん、昨日の話は覚えてないんだ"
音"そう。
でもいいわ。覚えてないということは大したことじゃないってことだから(怖い)"
音"今日話せる?"
家福"なに...改まって"
音"早く帰ってきてね..."
別れを切り出されるとおもった家福は恐ろしくなり用事はないのに車でドライブし遅くに帰宅
外出し
高槻に会う音。
セックスしたあと空き巣の女子高生の続きの話をする。
階段を上がってきたのは本当の空き巣で、女子高生をレイプしようとしたため女子高生はその場にあった鉛筆を
空き巣の"左目に"突き刺す
その場にあったもので滅多刺しにして空き巣を殺してしまう
しかしとくに世界に変化は無く、監視カメラが男の子の家の玄関に設置されただけだった。
彼女はカメラに向かっていう。
"私が殺した、私が殺した、私が殺した"
家に帰宅したところで突然倒れる音
コートを持って
倒れている音を家福が発見する
この流れだろうな
すごい作り込まれてる上に、この時系列だと
音は家福を殺したという想いがあることが明確にわかる。
ヘミングウェイメソッドを思わせる脚本
最高
あとで気づいたこと
・家福とみさきが車内で喫煙しルーフから手を出して煙を流すシーンは線香を思わせ、日本ではすでに形骸化した葬式を暗喩しており音をあの場面で弔っているのではないか
・最後の演劇のシーンで家福の演技を観ているジャニスチャンの顔がクローズアップされ驚いた顔(嬉しそうに見える)をしているのは家福にも"なにかが起きた"ことに気づいたからなのかもとか。その時点で以前は彼女は家福の仕事のやり方に不満を持っていた様子だったが彼のやりたかったことを明確に理解したのかもしれない。
・村上春樹の好きなスタンゲッツやビリーホリデイの悲惨な人生はよく言われる話ですが、村上は"彼らの美しい音楽の背景には彼らの人生があること(主に麻薬です)忘れてはならないと何かで言っていた。なんかこの映画には共通する部分があるように感じる。
・最後の韓国にいるみさきは韓国語を普通に話しており、手慣れている感じから定住していると思われる。たくさんの食糧を買っているが、いずれも賞味期限が長そうなものばかりでありコロナ禍で長期間家にいなければならないためなのか、誰かのために買ったものなのかはわからない。ただ家福が不在の画面から考えると彼らは別離したと考えるのが自然かと思う。
Drive My Carというタイトルが明確に画面に現れるラストの画面からしても"私の車を運転する"というタイトルに準えた演出かと思われる(見事です)。
総論としては
①芸術は現実の反映であること(トリュフォーと同様)
②村上の原作では男と女の対称性、主に女性の言動の不可解さが強調されていたが(インディーワイヤーでも同様の指摘がありました)濱口監督は男女の性差ではなく現代人の心の闇、人知れず抱えている解決不可能な悩みについて描くことに腐心していること(そしてそれに成功している)。
③相手と分かり合えない時は自分の心を内省的に見つめ直す必要があるという考え方は村上と濱口監督で共通していること。
④日本の俳優の潜在能力の高さを思い知らされる。濱口監督は即興的な演出を好み、俳優の直感をかなり信頼している。西島秀俊や岡田将生を私はただのテレビドラマ用のトレンディ俳優としか考えていなかったが大きな間違いだった。
ミステリーとしての謎と決して解けない謎が混在している感じが村上春樹作品を思わせる。
こういう作品の観方が未だに分からない
オープニングで霧島れいかが語る話を「どこかで聞いたことあるな」と思ってたら、つい最近、原作読んでた。でも内容はほとんど忘れてたな。
三浦透子の運転手も出てきて「そういえば、そんな短編もあったな」と思ったの。
原作・村上春樹にしてるけど、そこをベースに、新しい話を作ってるよね。違うかな。原作を読めてる自信は全くないので、違うかも知れないな。
西島秀俊の演技が淡々としてて《2/デュオ》っぽいなあと思ったの。
みんな淡々と演技するよね。劇中劇の読みあわせでも『感情を入れずに読め』って言われてて。
『ロボットのように』みたいな台詞も出てきて、「これ、モデルは平田オリザなのかな」と思った。青年団の松田弘子さんも出てるしね。
劇中劇の多国語で上演されるチェーホフは面白そうだけど、これ観るのしんどそうだな。舞台の俳優の演技に注力したいけど、後ろの字幕みたいと訳が分からないよね。チェーホフのテキストを完全に頭に入れてから観るのか。
終盤で、西島秀俊と三浦透子が、三浦透子が生まれた街へ行って、そこで再生を果たすんだよね。車中の会話で『君のせいじゃないと言ってあげたいが、言えない。君は母さんを殺し、僕は妻を殺した』が良かったなあ。
きっかけになるのが岡田将生の傷害致死だけど、岡田将生の役は必要なのかな。良く分からなかった。オーディション合格の時点で「この役、最後は西島秀俊がやることになるんだな」と思うしね。
車も主演の一人だね。滑るように走る画が全部良かった。
画は綺麗で良かったね。清掃工場の海辺で話すところとか「計算されてるなあ」って構図だったし。
観てて、面白いし、それだけで良いんだろうと思うんだけど、この手の作品は未だに「解った」って感じがないな。面白いと思ったから、それでいいか。
ラ王を食い損ねた男
いつもの映画館で
水曜日のメンズデーで祝日前日の好条件 2時間早退
3時間の上映時間には尻込みしていたが一睡もせず完走
チェーホフだとか戯曲だとか全く知らないので
どうなることかと思ったが何とかついていけた
テキストから何かを受けとるとか 面白かった
「寝ても覚めても」を観て嫌いな作風ではないだろうと信頼していた
アルコールが入っていなかったことも勝因かも知れない
ラ王を食い損ねた男が体当たりの演技
脱いだ女優に使う慣用句だな
妻役霧島れいかよかった 知らない人だが
ベッドシーンは苦手なのだが必然性があった
このシーンは省けない
いろいろあるけど折り合いをつけて生きていく
くどくどと説明した挙句
結局そういう内容の映画が好きなんだな この頃
「泣く子はいねぇが」とか「茜色に焼かれる」とか
「BLUE/ブルー」とか
いろいろと想像できるのが嬉しい
・自動車事故の場面はクラッシュへのオマージュか
・若い役者を起用した理由
・ラストシーンの車とか食品スーパーに至った経緯
他の人のレビューが楽しみだ
村上春樹の原作がどの程度反映されているもんだか
確認したいとも思った ブックオフにはなかった
終了後はこれまたいつもの公園のベンチで缶ビール
雨の予報だったが大丈夫だった 感謝
駅までの帰り道では新コロにもめげずに開いている居酒屋
外で待つ客 この間名前を公表されていた店
警察になるつもりはない
店も客もしたたかで賢い頼もしい とただ思う
自宅に着く直前に雨が降りだした
今日はつくづくついていた
エロかった、長かった、わからなかった
エロかった。
前半のもやもや感が、後半には解消されるのかなと思いながらも、私にとっては、
結局は、ほとんど何も解消されず、長かったという感じ。
原作は読んでません。
東京、韓国、広島、北海道
村上春樹原作。「女のいない男たち」の中の一編「ドライブ・マイ・カー」を深く掘り下げて映画化。山本晃久プロデューサーの企画で、最初は韓国釜山ロケを予定したらしい。しかしコロナ禍で中止。広島にロケ地変更。そのため、広島の国際演劇祭なのに韓国人主催者がいたのである。ラストも韓国になっていた。
原作に出てきた修理工場の大場さんが、みさきとカフクを引き合わせる韓国人のコン・ユンスになっているのだと思うと、この映画の膨らませ方は原作の二倍以上だと思った。
映画を見る前、「ドライブマイカー」しか読んでいなかった自分にはわからなかったが、「女のいない男たち」から「シェエラザード」「木野」の要素をそれぞれ前半部と後半部に取り入れているそうだ。
原作から変わっていることですぐ気づくこと。主人公のクルマ(サーブ900)の色がまず、異なります。原作では黄色だったのが、映画では赤。そして最初は後部座席に座るところとか。
ほかに原作にはなかった要素、国際演劇祭のだしものとしての「ワーニャおじさん」。多言語演劇という実験的手法。
日本語、中国語、韓国手話、タガログ語、ドイツ語。インドネシア、マレーシアも?
監督によるとリハーサルシーンのレッスンでは、日本語→韓国手話、韓国手話→韓国語というような通訳をしていたらしいです。ソーニャ役のイ・ユナを演じたパク・ユリムは、一言も発していないが、手話も演技らしい。通訳や手話通訳が何人もいてスクリプターは大変だったと思います。
奥さんの名前。女優から脚本家になったという経歴。情事後の興奮状態で話す空想の女子中学生の話。子供の亡くなった年齢。高槻のキャラクターがやや若いこと。
運転手みさきの育った家庭環境もかなり掘り下げられていました。広島に来てゴミの回収車に乗っていたとか。
霧島れいかさんも「24JAPAN」のきつい上司とは一味違った役でしたが、「ノルウェイの森」(10)にも出ていたとは覚えてませんでした。一回しか見てないので。あと西島秀俊は「トニー滝谷」の語りもやっているそうです。
岡田将生くんが、「大豆田とわ子」とはまたひと味違った軽めの男を演じてハマっていました。
多分、カフクにはめられたんだけどね。
あまり物事をよく考えもせず、軽はずみな行動をとってしまうことで他人に迷惑をかけていることの無自覚さをカフクは高槻につきつけた。そしてタカツキは、その報いを受ける。
けして岡田くんがそういう人ではないのだろうけれども。演技が上手いというだけだ。
「ワーニャ伯父さん」「シェエラザード」「木野」を読み、監督の「寝ても覚めても」と山本プロデューサーの「彼女が名前を知らない鳥たち」も見てみたい。その上で本作品を見直すとどうなるか確かめてみたい気もする。
村上春樹ファンでも評価が分かれそう
ハードな性表現が多くて正直疲弊した。棒読み調のセリフが続くのは、村上春樹の世界観通りとはいえ、映像化するとやはり違和感がある。かといって、ものすごく感情移入して演じられると、もっと違和感があったかもしれない。
メッセージ性というか、テーマとなっている喪失感は、ワーニャ伯父さんのセリフと相まって原作にはない伝わりやすさが出ていたと思う。
でも、村上春樹独特の飄々とした感じは、本作ではあまり出て来ず、むしろ登場人物の行動の突飛さが際立つように見えてしまったのは少し残念だった。
全体を夫婦と恋愛という、人間の感情の中でもかなりシビアで、人によって千差万別の関係を基調にしているので、受け取られ方もかなり幅があるものになっているのではないか。
とはいえ、万人受けを目指さず、村上春樹作品をここまで別物に昇華させたのはあっぱれである。
原作をモチーフに再構成した作品
原作の短編集を読んでからの鑑賞
カンヌの脚本賞も納得の作品
原作では、みさきが音の心情を語ったところで
さらっと終わっているのだけど
本作では家福とみさきが悲しみや苦しみと向き合い
乗り越えられたところまでを
しっかりと観せてくれた
ラスト、ワーニヤ伯父さん劇中の
手話が心に響いた
私も死んだら
苦しんだこと、泣いたこと、つらかったこと…たくさんたくさん
神様に聞いてもらいたい
わからないけど分かる韓国手話
脚本にかなり手を加えているのに、村上春樹らしさを保ちながら映画として成り立っていると思う。
原作では舞台俳優の主人公とドライバーの話・妻の不倫相手の話くらいだったが、
映画では
①舞台俳優の妻との暮らし
②演劇祭への参加とドライバーとの出会い
③コミュニケーション手段が入り交じる『ワーニャ伯父さん』の下読み・稽古風景
④ロードムービー
などがかなり重層的に描かれている。3時間という長尺の中で、
韓国手話で何言っているのか分かるようになってきたりという謎の
「今なんでわかったんだ?」感を感じながら見ることができる。
この「?」が嫌味ではない形でかなり多い作品なのだが、なんで嫌味ではないのかよくわからない。
劇中の③下読み風景はそのヒントになるのか、
演技がゾーンに入る瞬間を、完全な形でお客さんに見せるということを
劇中劇で実践しているのが面白い。この劇中劇がまさに映画の稽古でも行われたはずで、
不思議なシンクロ感を感じながら見られた。
『ハナレイ・ベイ』を彷彿とさせる描き方もあり、
大事な人を失った人間が、それを引き受けるというテーマ性なのかもしれない。
村上春樹原作と知ってたら観てなかったはず
小説が非常に人気があるので、何度も読もうとしてみたけれど、長編は全部挫折。短編のものはなんとか読み通したけど、どれも受け入れられなかった。かえるくんとかパン屋とかTVピープルなど、そのうちに面白くなるんじゃないかと我慢して読んだんだけどね。どこに人気の秘密があるんだ?結論、私には村上春樹の小説はその良さが理解できない、少しも面白くない。で、この映画も原作が村上だと知ってたら、観てなかったと思う。観たかった脱力系コメディ映画の終了時間とこの映画の開始時間がたまたま合ってたので、それを知らずに鑑賞。これでやっと、すべての今月末期限の映画ポイントを消化できるわと思って。
しかし、この映画は非常に面白い、でも途中からね。広島に行くところで出演者名がテロップで出てきてからあと。それ以前の音とのやり取りは面倒くさいだけで、何の面白さも感じず。必要な場面だったことは後半でわかってくるけど、本当に退屈だった。執筆中の本の筋の、セックス後にやる二人でのオウム返しのやり取りが理解できず、また、浮気に対して黙って引き下がったのも納得できなくて、モヤモヤ爆発。で、車の疾走をバックにしたあの演者名出現の時には、エっ、これで終わり?何という映画だと物を投げそうになったけど、映画は続いてた。なんとかそのまま観てると、これがどんどん映画に引き込まれていく。ワケのありそうな運転手、おかしなオーディション、外国語で演じる役者、手話でコミニュケーションをとらなきゃならない役者まで。ワーニャ役は唯一まともそうだったのに、オウム返しで確認しあって本の筋を知っていた、音の浮気相手の一人じゃないか。しかも、先の筋を知っていたということは、家福よりもずっとあとまで音とやってたのかぁ。どういう話の運びになるのか全く見当がつかなかったけれど、徐々に映画館の椅子から前のめりになるほど。
面白い、本当に面白い。ただ、運転手の故郷へ行くのは良いけど、でもそこで抱き合ってしまったのは、擬制親子として?もしくは互いへの同情?それともこれら以外の感情?わからないままで、私には消化不良。んで、突然の韓国シーンになって、家福はどこに?買い物を済ませた運転手の向かう先で待っているのか?じゃあ、あれは愛情で抱き合っていたのか?でも、その理解不能な最後もなんとなく受け入れられたし、何の結論も出てないけど、オチもないけど、不思議と納得。その後、エンドロールで村上春樹原作というのが出て、ああなるほど、最後のわけわからないところが村上春樹の小説の映画化らしいところだわと納得。たぶん、私以外は彼の小説の映画化だと知って観ていたのだろうけど。
観てよかった。本当にそう思う。小説はダメだが、映画は相性が合うのかしらん。ところで、劇中劇の「ゴドーを待ちながら」は私でも聞いたことのある有名らしい不条理劇だけど、「ワーニャ伯父さん」も不条理劇なのだろうか?だから、実際の舞台ででもあんなバラエティに富んだ配役でやるのかな。
もののあはれを感じた
妻の名前が音というのが(映画オリジナル)、変わっているなと思いましたが、もちろんちゃんと意味があるんですね。
車の中に流れる音のセリフの声はまるで呪縛のようです。
妻の話とは何だったのか。
それにしても家福と高槻は対照的ですね。高槻は白黒はっきりさせる性格。それに対して家福は音の浮気現場を見ても何も言わない。おそらく子どもを亡くした時も二人はつっこんだ話をしなかったのではないでしょうか。
音がセックスのあとにしていた、空巣にはいる女子高生の話。その続きを高槻から聞かされるシーンが圧巻です。これは夫に対する音の思いを代弁するものだからです。なぜ何もなかったふりをするのかと音は訴えたかったのでしょう。高槻はそんな夫婦関係を察していたのでは。
その話のあと、家福は初めてみさきの隣にすわります。
二人が車で北海道をめざすシーンでしばし音がなくなるのが印象的でした。
みさき役の三浦透子さんは車の免許を持っていなくてキャスティングが決まってから取得されたとか。濱口監督も車の運転をしないと聞いて驚きました。
韓国手話で話す夫婦もいいですね。
チェーホフの舞台の最後の手話のシーンでは思わず涙がこぼれました。手話だからそこには音がない。家福が喪失を乗り越えていく希望を感じさせます。
字幕を見ないと「ワーニャ伯父さん」の最後の台詞の意味はわからないのですが、それでも表情と手の動きで伝わってきます。
考えてみたら理解しあうのに言葉は大事だけどそれだけじゃないんだと思いました。犬とだって気持ちは通じることだしね。
三時間の映画なので迷いましたが、見てよかったです。
次から次へと ようやく目的地に辿り着くドライブ
先に原作を読んだらどんな感想になるだろうという好奇心による原作既読。
30分で読める短篇がここまで、3時間の尺に発展させられるとは、一つの驚き。
村上の作った線画が、濱口の手によって色と背景を付けられ、具現化されたという喜びの発見だった。そしてその長い脚本に、無駄な力入れは一つもなかった。
映画は、小説と違って時間線に沿って物語を伸ばしていき、家福の視点から問題を投げ出し、またそれを解くドライブに観客を誘った。
後の工程は玉葱の皮剥きのように、芯までどんどん深まっていく。その鍵となる人物は、高槻とみさきだった。
家福と高槻の違いは、観客には分かりやすかった。高槻はたしかに自分のコントロールができなく、現実上、芝居と同様に人の深いところまで突き止める。家福はその反対。
高槻が車で言ったことは正直で、胸に響いた。小説で村上が書いたまんまだ。そして最後に警察に連れられたときまでも、彼の言ったように空っぽかもしれないけど偽りなかった。
そんな高槻の逮捕によって課題は家福に残された、家福は自分の問題に直面しなければならなかった。そしてオリジナルの北海道の旅は更なる救いで、もっと直接の答えになった。本当の自分と向き合えるのだ。そんな自分を持って人と向き合うのだ。演劇祭の人たちのように、言語がちがっていても。
最後の手話のシーンが良かった。声がでなくても、ちゃんと強く伝わったことがあるんだ、と思わせた、全編を収束した力強いシーンだった!
最後に言及しなければならない二つのメタファーは観客の助けにもなった。音のミツメウナギの話と劇中劇...前者は音にまつわる伏線、後者はストーリーを貫通する家福の心理劇....どっちも表現が素晴らしかった。
芸術性を追求する一方の分かりにくい映画より、このような誰にとっても大事な心得を誰でも分かるようで、また吟味させられて考えさせられるような面白い表現で伝えた方がずっとテクニカルだと思う。振り返って見ると、ちょっとの遠回りかもしれないが、いい景色だった。
傷ついた魂の再生物語
長さは感じなかった。テンポよく場面が展開していく。
亡くなった妻の裏切りをきちんと受け止めなかったために前に進めなくなった男、家福と虐待された親を見殺しにしてそこから逃げた女、みさき。そして裏切り相手が目の前に現れたことで、物語が大きく展開していく。
家福は自分の分身のような車に長く乗り続け、その中で聞く妻の声のテープでセリフを言うという習慣を変えることなく、過去に縛られ続けていた。そしてそこに初めて他人のみさきがドライバーとして加わったのだ。
この時、すでに物語は動き始めていたのだろう。
裏切り相手に妻のことを語られ、深く傷つく。この男は何のために家福の前に現れたのか。同じ相手を愛したことで思い出を語りにきたのか。
過去の痛みを抱えた2人がたどり着いた場所で、自分の気持ちに向き合う。そこで出た結論は2人の再生への予感となって、映画のラストを明るくしてくれた。
とてもいい話だったしインパクトも感動もあった。
ただ、村上春樹ファンとしては、ここまで全てを語らせる必要があったのかとちょっと引いてしまった。もう少し、余韻というか、観客に委ねる部分があってもいいかなぁと思った。
劇中劇がよい
様々な言語が飛び交う「ワーニャ伯父さん」は、普段われわれが同じ言語で言葉を交わしながらも、相手の真意が理解できていなかったり、会話が成立しているようで齟齬していることを象徴しているのだろう。この舞台に参加している俳優たち、それぞれがとても良いので見入ってしまう。
夫婦、親子でも意思疎通することの難しさ、それでも言葉を重ねることでしか歩み寄れないのが人というもの。
それを怠り、暴力という手段に訴えて破滅するのが岡田将生演じる若手俳優なのだろう。
三浦透子はこの先どんな演技を見せてくれるのか非常に楽しみな女優だ。この作品のために運転免許を取得したというのは驚き。
居心地の良い違和感
観に行くタイミングがなく、公開から3週経ってようやく鑑賞。
序盤の主人公・家福の奥さんの不倫や夫婦としてのセックスで創作を生み出している様子を見ると、刺激が欲しくてたまらないんだろうなと思い、生々しくもリアリティがあって感心しました。奥さんの突然のくも膜下出血での死も悲しい出来事だけに終わらず、後半に活かしてくるのでまた驚きました。
タイトル通り、今作は車に乗っているシーンが多めですが、その車に乗っている時間が観ている側からしてもとても居心地の良いもので、最初はドライバー・渡利がつくことを敬遠していた家福が、彼女の運転スキルを認めて、話の輪を広げたり、オススメの場所を教えて貰ったり、助手席に座ったり、車内タバコを許したりと、信頼していく描写を車内で表している魅せ方はグイグイと引き込まれるものがあり、凄いなと思いました。
役者陣の演技もとっても見応えがあり、西島さんの物語のテンポにビシッとハマる舞台上での演技や、カセットテープに合わせての語り、物語上殆ど激昂する場面はありませんが、様々な感情が飛び交っていました。三浦透子さんの淡々とした喋りもとっても心地が良くて、高槻演じる岡田将生さんの別人が憑依したかのような狂気的な部分も見ることができて良かったです。手話での会話で育んだ愛とメインストーリーではないものにもスポットが当たっており、バランス良く観ることができました。
高槻が喧嘩でボッコボコにした相手が死んでしまい、高槻が逮捕され、舞台が一度滞ってしまいますが、ここで何を思ったか家福が終盤で広島から北海道へドライブするというぶっ飛んだ流れを平然とやってのけるので笑ってしまいました。汚点という訳ではありませんが、急に現実味消えたなと思いました笑。北海道で語られる2人の過去の話は、殺しと同様に残されたものがずっと背負っていくものという描写には震えました。決して自分は悪くないのに、目に焼きつけた光景を背負っていくという生々しさが垣間見えました。
なんとか舞台も成功に導き、最後は家福の車を渡利が引き受けて終わりました。原作を読んでいないので最後はよく分かりませんでしたが、前向きに進んでいるんだろうなという感じに自分は捉えました。
179分という短い映画なら2本観れる長さですが、そんな長さを感じさせないくらいあっという間に終わりました。上映時間の長さで敬遠されている方がいたら、そんなこと気にせずに観に行って欲しいなと思いました。
鑑賞日 9/9
鑑賞時間 12:40〜15:50
座席 H-1
原作とは別もの
村上春樹が大好きです。好きな作品の映像化を楽しみにしていました。賞もとったし。
しかし、これは原作とは全くの別ものです。
原作の静かな物語をぶち壊しにするようなセンセーショナルなエピソードが盛り込まれまくります。
せめて綺麗なシーンあればいいのに、それも全くありません。大きなスクリーンで見るってこと考えているのかなぁ。
“ヤツメウナギ”だの“空き巣に入ってマスターベーション”だの、意味ありげなキーワードは何なのでしょうか。これが文学的と思っているのかな。
岡田さんのかっこ良さと西島さんの胸板だけが素敵でした。
異なる3つの短編小説と一つの戯曲を原作の持つ雰囲気を損なずに上手に...
異なる3つの短編小説と一つの戯曲を原作の持つ雰囲気を損なずに上手に組み合わせ、一つの作品として仕上げており、素晴らしいなと思いました。特に、最後の現実と劇の対比は非常に感動的でした。
もう一度見たいとは思わないし、誰にも薦めない
カンヌで賞もらったのは快挙ですが、そのバイアスを抜きにしたら、大した作品だとは思えなかったです
開始から1時間ぐらい、妻が死ぬ直前までは過去だから全部無くていいシーンです
監督もちょうどそこでスタッフクレジット入れたように、ただのプロローグでしかないと分かってるはず
プロローグに60分は長すぎます
最低限必要な情報だけは、あとで必要なタイミングで回想かセリフで挟めばよいだけ
西島がドライバーや岡田にセリフで長々と説明するんだから、説明がだぶついてるんですよ
セリフも抑え目なのかと思ったらやけに不自然な長ゼリフもたくさんある
ラスト付近のドライバーの生家前とか、カタルシスが氷解する一番良いシーンにしなきゃいけないはずなのに、二人して交互に長セリフで何を心情説明してるんだ?と呆れました
古典演劇をモチーフにしてるからか、村上原作だからか不明ですが、不自然なセリフ回しも多い
それに、セリフが無くても西島の内面、感情は読み取れているのに、カセットテープの声で西島の心情を説明するようなセリフを流す演出も不要
これが3,4回ありましたけど、マジかと思いました
これ、本当に脚本賞だったのか疑わしいです
それぐらい脚本クオリティが良くない
反対に邦画のダメなところはよく学んでる脚本でしたが
グランプリはあげられないけど、忖度で何かあげなきゃと思われた結果が一応主要賞の中で脚本賞だったような気がしてなりません
あと、冒頭の出資者、製作団体たちのクレジットや、途中にあったスタッフクレジットが目障りでした
カンヌ獲ったから誇らしくて、後から編集で足したクレジットだと思いますが、始まってすぐに出資者や製作団体の名前はストーリーを知る上で全く必要ない情報だし、スタッフクレジットも通常なら助監督とか衣装とか、そこまで末端のスタッフを単独表記しないものです
自分たちが関わったことを誇りたい気持ちは分かるがマジで邪魔でした
ドライブシーンの画とか、ほとんど無くても話は分かるし、本当は90分ぐらいに収まる話です
ぽんぽさんの言葉を借りると、脂肪だらけで感動させよう感が前面で出ていて良くない部類の映画です
1つだけ、必ずしも必要ではありませんが、日本人以外の人種や障害者が出ていたのはポリコレやマイノリティに配慮すべき時代に即していて良かったと思います
余白の使い方が美しい
この映画は3時間という長丁場ではあるが、語られないことが多い。
音の大事な話の内容、最後の韓国での描写の意味、等々。
実際僕はラストシーンについて、家福とみさきがともに暮らしている(結婚しているとかそういうことではない)と解釈した。
が、しかしこのレビュー欄では他の意見も多数あってそのどれもが納得いくものだった。
僕は残念ながら1人でこの映画を見たので感想を言い合える仲間はいなかったが、複数人で見に行っていたらきっと盛り上がったのだろうなぁなんて思ったり。
この映画は家福を中心に主に3つの場面があると思う。
すなわち①演劇の稽古の場面②高槻との場面③みさきとの場面、これらが入り乱れながら物語が進んでいく。
それらにちょっとした出来事を起こしつつ物語を進めて観客に3時間という長丁場を飽きさせなかったのは見事。
特にみさきとの距離感の変わり方が非常に面白かった。
2人が車の中でタバコを吸うシーンなんか最初の濡れ場よりエロチズムに溢れてる気がした。
見終わった後、急いでドライブマイカーの原作とワーニャ伯父さんがどういうあらすじなのかをとりあえずWikipediaで調べた。
結果この作品にワーニャ伯父さんを絡ませた監督の辣腕さに舌を巻いた。
周りの人に先立たれた人物が苦しくても、それでも生きていかなくてはいけない事を語るラストの劇中劇のシーンは胸が震えた。
手話だからこそ、言葉を発さないからこそ伝わってくる想いもあるのだなと感じれた。
そのせいかこの長丁場の映画を見終わった後には一抹の爽快感を覚えていた。
3時間という時間にも関わらずまた見たくなる。
ゆったり鑑賞できた3時間
地方公演に赴いた「舞台演出家」と現地より手配された「若き女性運転手」の2人の主人公。
妻に先立たれ、喪失感を引きずる「演出家」
過去の境遇からか自分を表現することに不得手な「女性運転手」
妻との思い出を象徴する「演出家」の愛車に対して持ち主に大事にされてきたことを感じ取り、丁寧に扱いながら稽古場へ送迎する「運転手」
そんな日々の中物語はゆったりと進行する。
劇中終盤「正しく傷付けばよかった」と後悔を吐露する様ははとても共感できるものがあり、男が誰しももっている弱さである。
そして、この2人の邂逅は必然だったとも受け取れ、それぞれが互いに境遇や心情を吐露しあうことで、2人が前進する契機となった。
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