ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
全201件中、121~140件目を表示
ネガティブはいいの?
原作や『叔父さん』読んでないので、映画観ただけの感想です。
まあ、長すぎた。北海道に向かうまでは、まあなんとか。2時間前後に出来るよ。日本の監督は切れないのばかり。
しかし、前半は謎ありそうで観入ってました。呉の宿やホテル場面などはフランス映画を思わせ、広島のことも勉強になり、この監督さん、やってるねー。
そしてなにより、シーンが比較的短くセリフも絞られおり、外国映画なみにいい映画を観てると感じてました。それと、多言語舞台劇面白そう。
韓国夫婦の自宅で食事以降あれっ?と思い始めたのは、福家女房の死という冒頭からのミステリーに収束しないのでは、と感じてから。だって広島や韓国人や運転手がそのミステリーにからみ、またはヒント、もっと言えば原因となってたら、つくりとして一本筋がとおってるじゃないですか。監督の意図とは違うてしても。
幾つかの短編をミックスし、他にも足したとのことで、3時間がバラバラにならざるをえなかったのか。エピソード毎は切れ味あっても、トータルで観ると‥。
韓国夫婦ねエピソードは別の映画にしたらよさそうだな。福家夫婦に(浮気無くても)ほんとの愛情無かっただろうし、そのぶん韓国夫婦には深く感じるものあったろうな。運転手もね。あの家での場面だけカラーが違うように感じた。
期待していたミステリーだめだめだし、なんか幾つかの短編観た気分で、期待していただけに評価低いす。もしかしてそれが監督の思惑?
運転手がサーブと犬引き継いだ必然性分からないが、何かクリントの『グラントリノ』みたいだなーはサプライズ。
ネガティブな感想は少ないと思い投稿しましたが、私の見当違いあるかもしりれず、どうか意見して下さい。
とにかく観てちょうだい、的な?
----- 2022/3/12 追記 -----
日本アカデミー賞受賞を知って。つぶやき。
作品賞、監督賞、新人俳優賞、脚本賞、撮影賞、照明賞の受賞、おめでとうございます。ただ、主演男優賞だけは自分にはピンときませんでした。この映画に西島さんがピッタリだったことは、自分も全く違和感ありません。それは見事なものでした。
ただ、それは西島さんのいつものあえて言えばワンパターンな演技にこの映画の雰囲気がピッタリだったと自分は感じる。いわば「配役の妙」だと。だから、もしこの賞が、俳優の力を評価する賞であるなら違和感あるなぁと思った次第。俺の勝手な感想です。
まあ、(俺が大好きな)ありのままの演技の黒島さんも、「カツベン」で新人賞もらってるし、俳優賞は、俺が考えるような基準じゃないのかもしれないなあ。
----- 2022/2/21 追記 -----
これから観る方へ
本作を観る上で、劇中劇である「ワーニャ伯父さん」のあらすじを知っておくと、そこはかとなくお得です。
劇中劇という言葉がピッタリ。本編と重なりあってます。主人公とドライバーが最後にたどり着く気持ちと、劇中劇の主人公ワーニャと姪のソーニャがたどり着く気持ちは、重層しあってます。ぜひあらすじを知っておいて得した気になってみてください。
<登場人物>
ワーニャ:"教授" の前妻の兄。ソーニャの伯父さん。妹の結婚相手の "教授" の才能を認め、妹が亡くなった後も、"教授" の財産である領地を維持管理することで、彼の才能を支える一端を担ってきたと自負している中年男性。"教授" の若き後妻エレーナに心惹かれている。
"教授" 年老いた大学教授。ワーニャの妹の夫だが妻と死別した後、若き後妻エレーナと再婚している。
エレーナ:教授の若き後妻。
ソーニャ:教授の娘(前妻との子)。伯父のワーニャと一緒に教授の領地家屋を守っている。
アーストロフ:エレーナに心惹かれている医者。
<あらすじ>
ソーニャ、アーストロフ、人妻エレーナの三角関係に年齢が離れているワーニャまで絡んで、恋愛感情を中心に話が進む。
ただし、ワーニャが、「"教授" には才能があると信じたからこそ自分の人生を捧げてきた」と思い続けてきた "教授" に不信感を抱いた結果、起きる最後の事件が中心。
街に住んでいた "教授" 夫妻が、教授の退職で戻ってきた領地の家が舞台。
ワーニャがエレーナにつれなくされ部屋を出て行ったり、ソーニャがエレーナを通じてアーストロフ医師への思いを打ち明けてふられたり、アーストロフがエレーナに「ずるい」と詰めよってキスをしたり、そこへワーニャが現れたりしている。
そんな中で、"教授" はこの領地を売り払いうことを提案する。ワーニャは長い間汗水垂らして "教授" を支えてきた自分とソーニャを蔑ろにするものと激昂し、怒りを募らせて部屋を出ていく。教授はワーニャと和解するべく彼の後を追う。部屋に残ったソーニャにピストルの銃声が聞こえる。教授を追ってきたワーニャはピストルを撃つが、弾は当たらない。絶望したワーニャはピストルを床に投げ捨てて椅子にへたり込む。
最終幕では、教授とワーニャが和解の言葉を語り、教授夫妻は新たな移住先に旅立ち、みなもそれぞれ帰る。残ったワーニャとソーニャはたまっていた仕事に取り掛かる。つらい胸のうちを訴えるワーニャにソーニャが優しく語りかける。「仕方ないわ。生きていかなくちゃ。長い長い昼と夜を。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ」
(Wikipedia から抜粋引用)
----- ここまで、2022/2/21 追記 -----
俳優で演出家の主人公が、幸せに暮らしていた妻が急死した喪失感とある疑念を抱えたまま、広島での演劇で演出を担当する。そこで出会った、厳しい過去を抱えた女性運転手と少しずつ交流していく話。
なんとも不思議な感じ。179分ある本作を観終わると、ほんとうに心に残っている。それなのに、どこがどう、と言うのをうまく言えない。主人公と妻の関係、主人公と運転手の関係、それをじっと観ていく映画って言えばいいのかな。それが、とにかく心に残る。
妻の表面的な事象は主人公が考えていたとおり。しかし、妻が語った奇妙な、空き巣の話。そして、主人公が演出するチェーホフの劇の主演男優から聞いた、空き巣の話のその後。それを聞いて、主人公は妻の内面、考えていたことを感じ取る。それを観ている自分たちも感じる。不思議な雰囲気の中で、主人公といっしょに気づいていく。
少なくとも言えることがひとつある。演劇の演出家で俳優でもある主人公が作る演劇は、すべての出演者が台本通りに話すことを徹底的に強要する。本読みの時間を長々と続け、ある段階までいかないと立ち稽古に入らない。なんて偏屈なスタイルなんだと、最初は感じた。しかし、進むうちに登場人物の俳優たちと同じ感覚で、このスタイルの価値について気づいていく。それはまさに疑似体験だった。
運転手と少しずつ交流していく、と書いたが恋愛ではない。ストーリーの中心に妻の浮気疑惑が置かれているのに、観終わった感じは、なんとも透明感があるものだ。たしかに、みんなに観てほしい。
この映画の凄いところは、上記のように、観ているこちらが本当に映画の中に入り込むところじゃないか。「観た」というだけでなく「体験した」という感じが強かった。その中で、愛する人との関係はどうあるべきか、どう生きるべきか、みたいなことを深いところで伝えてくれた気がする。
う~む。やはりうまく書けないけれど、自分はこの映画にずいぶん心酔しているのだ。
おまけ
時間的にちょうど真ん中位に入ってくる、キャスト・スタッフの紹介ロール。これは新鮮だった。劇場の中には「え、これで終わり?」と勘違いした人もひとりくらいいたんじゃないかな。振り返ってみれば、あそこが第1部、第2部のちょうど境目といったところだったんだなあ。
----------- ここから後は振り返りと印象に残ったセリフなのでネタバレです。ご注意ください。 -----------
妻の音が話そうと決意した言葉を聞こうとしなかった(聞くのが怖くて帰れなかった)主人公。一方、地滑りで潰れた家から自分だけ這い出し、母を救わなかったドライバーみさき。
「音さんはすべてあなたに見せている。それを(気づかなかったフリをせずに)そのまま受け入れられませんか」と問うみさき。音の行為を知って激しく傷ついたためにありのままを受け入れられなかった自分だったことに気づく主人公。
それは主人公にとってのエンディングであり、かつ再び歩き出すスタートでもあった。
ワーニャ役を演じることを、「チェーホフ(が書いた戯曲)は怖い。それを演じることは自分をテキスト(=脚本に)差し出すこと。僕は自分を差し出すことができなくなったから、もう演じられない」と頑なに断っていたそれを受け入れ、代役として演じることが、再び歩き出した主人公の第一歩だった…
ドライブマイカー。自分の人生を運転していく。自分だけの人生を大切に生きていく。自分に正直になるということを、さりげなく語る映画。
「沈黙は金です。官女の言葉を知りたくて手話を学びました。私以外、誰も彼女を支えられないと思いました」
「伝わらないのは普通のこと。でも、見ることも聞くこともできます。この稽古で大切なことは、そっちでは?チェーホフのテキスト(脚本)が私の中に入ってきて、私を動かしてくれる」
「本当に他人を見たいと思っている?自分自身をまっすぐに俯瞰し、見つめることしかないんです」
「帰れなかった、帰ったらもう前の俺たちに戻れないと思った。(しかし)もしもう少し早く帰っていたら、とそう考えない日はない」
「君は母を殺し、僕は妻を殺した。でも君のせいじゃない、君は何も悪くない」
「僕は正しく気づくべきだった。本当をやりすごしてしまった。だからぼくは妻を失ってしまった、永遠に。いま、それがわかった。(妻に)謝りたい、僕が耳を傾けなかったことを。もう一度だけ話がしたい」
「生き残った者は辛いんだ。死んだ者のことを考え続ける」
「生きていくしかないの。生きていきましょう」
「僕や君は、そうやって、長い長い日々を生きていかなくちゃいけない」
「真実はそれほど恐ろしくない。一番恐ろしいのは、それをしないでいること」
ショーペンハウアー 夏目漱石・・・・違うか?
主人公の家福を観て最初に思い出したのは、夏目漱石の「こころ」でした。「こころ」の「先生」はどこか厭世的であり、その生き様を家福の出す雰囲気とか家福の夫婦関係に重ねていました。厭世的だから悪いとかは全くなく、むしろ何だか励まされました。ところで、劇中劇の台詞で”ショーペンハウアー”が出てきて、はたまた思い出したのは、確かこの哲学者さんは、厭世主義だったはずなので、この映画で厭世観を感じ取れたのは、大きな間違いでないと信じています。
もっとも印象に残ったシーンはやはり高槻の長台詞でした。趣旨は「他人は覗けないが、自分を見つめる努力は出来る。それを放棄していけない。」だったかな?表面的には自分の運転している人生でも、他人が運転してくれて意識化されるチャンスがある。仕事や結婚はあくまで自覚できる意識であり、自動車が無意識を暗喩しているんだと勝手に想像していました。
今年ワースト
鑑賞後に、劇団員をパワハラして不当解雇した上、スラップ訴訟まで起こしてる「地点」が取材協力としてクレジットされてたこと、それを指摘されてもスルーし続けてることを知って、今年観た・観る映画でワースト確定。
以下、それを知る前の感想やけど、私は作品と作り手は別みたいな寝ぼけたこと考えてないから、製作陣から何かしらまともな発信ない限り、評価以前の話やからワーストは変わらず。
同じ監督なら寝ても覚めてもの方が好きやった。
西島秀俊演じる舞台役者?が演劇指導してたけど、この映画の出演陣の演技はこれでいいのかな。西島秀俊含め。
あと、カンヌで脚本賞獲ったみたいやけど、そんなにいいんかな。
小説のセリフっぽくてしんどかった。
セリフ多いからこの上映時間な気もするし。
日本語話者じゃなければ気にならんのかな。
三浦透子の存在感がよかった。
妻の霧島れいかもよかったし、演劇祭の運営側の阿部聡子も変な感じでおもしろかったし、韓国語手話のパク・ユリムもソニア・ユアンもよくて、女性陣の演技が総じてよかった。
私が…
枯れなかった涙も
一人では居られない辛さも
償いきれない罪悪感も
ずっとずっと深い奥底に漂うようになっていったのに
生涯そのことから逃れられはしないのだ
勇気の無さが間違った結末へと進めてしまった
変えようのない過去は受け止めるしかない
逃げてはいけない
乗り越えるのでもない
共に生きて生きて生き続けなければ申し訳ない
進む勇気を少しだけ、ほんの少しだけ
また明日が来ますように
演劇的
話題になっていたので鑑賞
わかってはいたけど長いなぁ、、、
序章でガッツリ1時間、そこからの展開は静かにただ確実に進んでいく感覚。
ほぼ出ずっぱりの西島さんの演技すごいなぁ
個人的には無音の使い方がめっちゃ好きだった、
北海道の無音と、ラストの手話で一言も発さず終わるところ。
手話を西島さんが目で追ってるビジュアルがめちゃくちゃ好きだった。
あとは、タバコを車の上の窓から掲げるシーンとかね
なんか、ワンシーンワンシーン感じることが多くてめちゃくちゃカロリー消費した感覚、、、
正直馬鹿だから内容の半分も理解できてないと思うし、集中切れた部分もあったけど、なんか喰らうものはあった感覚。
72/100
長くないかも
始まって小一時間たって、クレジットが出てくる。そこから話が展開しだすので、長さを感じさせないように、うまく作っているなと思う。舞台場面も車の中も劇中劇で、棒読みのようなセリフが逆に一言一句、心に響いてくる。特に車の中でのセリフ練習の場面は映画でならではの面白いシーンだと思う。ドライブマイカーという題名はこのセリフ練習のシーンのためにあると思った。小説が原作だが、映画ならではの面白さが際立つ。ただし、多言語劇をやるのであれば、車の中でも多言語のセリフに答える形で練習してほしかった。そうでなければ、多言語でなくてもよかったのではないか。手話は印象的だったが。
語るための装置・儀式
先日アッバス・キアロスタミの『桜桃の味』を鑑賞して、改めてイラン映画のナラティブの力強さに驚いた。誰もが語るべき何かを持っているし、それを誰かに語ることを厭わない。
こういう傾向は私の好きなラテンアメリカ文学の中にも往々にみられる。ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』なんかはまるで親戚のオッサンが酒の席で披露する長い長い昔話みたいで、素気なく聞き流そうとしていたはずがいつの間にか聞き入っている。ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』なんかもよかったな。
『ドライブ・マイ・カー』を観て思ったのは、日本人はナラティブに強い躊躇があるということだ。語るべきことはたくさんあるのに、それを語る術を持たない。それゆえ他者とのすれ違い、断絶、そして死。
だから語るための装置や儀式が要る。それらを介してナラティブを始動する。本作では車や演劇がそれに該当するのだと思う。そして紡ぎ出されたナラティブは人と人を繋いでいく。
この構造は村上春樹の小説の中でも頻出する。超現実的な媒体を経由した関係性の接続。井戸、入り口の石、祠。
私も人に何かを直接語ることが苦手だ。フォーマルな自己紹介から始まった人間関係が持続した試しがない。それより飲み会の方が好き。飲み会は本当のことを語ることを強要されないから、どうでもいい話を介して本当のことを語ることができる。今いる友達なんかだいたいよくわからん飲み会で出会ったなそういえば。
日本人は奥ゆかしいとか大人しいとか言われがちだけど、それは語るべきものを持っていないということではない。ただ、どう語ればいいのかわからないだけ。
他者を大切に思う気持ちと、適切な媒体さえあれば、誰もが何かを語り出すことができるに違いない。イラン人だろうが、コロンビア人だろうが、日本人だろうが。
ちなみに、本作を観に行くために何か予習をしておきたいとしたら、村上春樹の原作よりもチェーホフ『ワーニャ叔父さん』を読んでおいたほうがいいと思う。かなりダイレクトに関わってくるので。
村上春樹さん作品にはよくある 本編には関係ない”こだわり”=ザ・ビートルズ
原作は読んでいないし、劇中劇である戯曲「ワーニャ伯父さん」も知らないが、
本作は村上春樹さんの小説を1字1句残さず、セリフの間さえも的確に描写している"ザ・村上文芸作品"の匂いがした。
キャスティングもイメージどおり。
2時間程度の短絡的な作品が多い現代映画界である甲子園にプロのピッチャーが投げてしまった映画。
原作・脚本力はピカ一だ。
人と人は「言葉に関係なく、うまくコミュニケーション=和をもつことができる」という表現目的である多言語演劇の
劇中劇では舞台頭上に長々と字幕が出る。
これは形だけの説明であり、こんな長文をいちいち読んでいては 劇を真剣にみることはできない。
あくまで多言語演劇を観るには予習が必要で、
その予習を確認しながら この劇を観る事を 演出家は期待している。
同じように、変化を嫌い 繰り返しを好む主人公は 車の中で元妻のカセットを何度も繰り返して聞く事で、いつも安堵する。
舞台練習に対しても、机に座った本読みばかりを行い、セリフを繰り返し繰り返す事で、言葉を体に沁み込ませる手法をとる。
これは予測されている事を確実にこなす事を重視するのであって、予期しない変化は断じて認めない事でもある。
だから主人公は妻の不貞=変化も観て見ぬふりをし続け、役者として気づかない演技をし続けてしまった。
この映画は長い。重要なのは 時間だけではない
これを理解できないと この映画は苦痛になってしまうかもしれない。
途中であきたのか? 隣のおじさんが 途中「あーーー、うーーーー」と煩かった。
情熱的な色をした車は主人公の妻=音(おと)であり、
それは主人公だけのもの
主人公 家福(かふく)は自分でその車を運転する事にこだわるが、
演劇主催者により、運転席の座は強引に取り上げられてしまった。
最初は車と主人公の間に入ってきた運転手である"みさき"との間に壁を作っていた主人公も、
ある日、心を落ち着かせる為に、いつもより長くカセットを聞きたかっただけのドライブをとおして、副産物として、みさき を理解出来るようになり、同化さえしていく みさき に車を託して、共有する気になる。
それは2年という単なる時間の消費だけでは解決できなかった想いを
ただ時間をかけるだけでなく、
相手を理解する事の大切さを知る事。
故に車で座る席も、傍観者的であった後部座席から、助手席に代わり、主人を待つ間にもその席に座る事を許す事になる。
自分の車は自分だけが、運転するものではなく、「他の誰かにも運転させる」 そう言うもの そう理解する。
同時に舞台では、自分の立場に近かった役を演じられないとしていたが、
妻との間に入ってきた男を理解することで、
同じように妻を理解でき、その役も演じる事ができるようになった。
そして妻の象徴でもあった車さえ、最後は みさき に完全に託す事ができるようになる。
呪縛から解放されたのである
なぜ みさき の故郷が北海道なのか、監督に聞いてみたい。
広島ならば、距離的には新潟あたりがよいのではないだろうか?
それ以上に 家福さんが住んでいた 東京の手前で高速を曲がるような場所である 山梨とかの方が、主人公の心の整理と葛藤を裏表現できて、的確なのではないだろうか?
答えを求めていた恋敵である高槻は現実と似た役柄である"妹の元旦那”を求めていたのに、
主人公は現実には自分と似た立場である"妹の兄(叔父)"をやらせたのだろうか? 脚本家に聞いて確認してみたい。
帰り際によく見ると、隣の席ははおばさんだった。
この映画を観たら「ノルウェイの森」を やはり観る冪なのだろう。
また、文芸作品としては何度も映画化されている「伊豆の踊子(1974年他)」もそれぞれ比べてみると良いと思う。
なんのこっちゃ
脚本家夫婦のおしゃべりセッ○ス、奥さんは旦那さんいないときも若いの連れ込んでまたセッ○スそれを目撃する旦那さん、浮気みても旦那さんは盛んに奥さんとセッ○ス、空き巣はしてもオ○ニーはしないお話しながら奥さん昇天、夫婦仲は良さそうだけど娘が死んだよう、ある朝なにか話があると言い残して奥さんは死んじゃう、ここまでがプロローグ
2年後、旦那さんは公演監督で広島へ、主催者から女の子ドライバーをあてがわれる、キャスティングも決まり稽古の毎日、奥さんと浮気相手だった主役が無断で写真を撮る奴をなぐり殺して公演を中止するか旦那さんが主役を務めるか考えるためにドライバーの生まれ故郷の北海道までロングドライブ、旦那さんは自分が妻を殺したと悔やみドライバー女子は母親の多重人格と災害で見殺したことを悔んでて2人は仲良しに、公演は旦那さんが主役やって拍手喝采、ドライバーちゃんはなぜか韓国で同じ赤いサーブに乗ってて、おしまい。なんのこっちゃ
今年初の残念映画
後半明かされる事実に、あれ?そうなの?と。
私の読解力不足かもしれないけれど、たまたま偶然妻の不倫現場を見てしまった夫。そのように理解して物語を追っていた。
実は複数の男と関係を持っていた妻、その事実を知りながら問い詰められなかった夫だったということ?
でも、そんな描き方してないよね?
後出しジャンケン感が半端ない。そこでガクッとズッコケた。
一歩引いてフラットに見ると、要は男漁りをやめられない妻に、それを知っていて責めることもできない夫と、その後の話。
それを勿体ぶって語られてもなぁと。
村上春樹原作らしいけど、どこまで原作に忠実なんだろう?男女のドロドロを意味ありげに描かれても。例えるなら温いカフェオレにはミルク、砂糖を大量にぶちこんだべとつく感覚.(語彙力不足)。
演劇と重ねて描いたり、個々のシーンはとても好きだったので少し残念。
言葉、芝居、嘘の中にある真実 分かり合えない者たちの生き様
嘘の中にある真実の言葉、感情のないセリフ読みの演技から染み出す本当の感情に向き合う役者たち。
多言語で分かり合えないはずの役者たちが舞台の上で相手を受け入れ、分かり合い作品を作り上げる様と、真実を受け入れられず演じられなくなった主人公が、全てを許し、自分を受け入れて生きる覚悟を決め、言葉の本質に向き合うまでの物語。とても詩的で村上ワールドそのものだった。
淡々としたセリフ運びの絶望感、ややセリフ過多ではあるが、それが村上春樹的だった。
一点、岡田将生の役柄はもう少し感性の鋭い野性味のある役者の方がよりよかったのではないか。車中独白の場面は前後の芝居から浮いてしまった印象を受けた。
本好きの人が見る映画
賞をとったというニュースを見て観に行きました。3時間という長さでしたが、途中眠くなることは全くありませんでした。
本は読みながら頭の中でイメージをつくって楽しむもので、映画はイメージそのものを楽しむものです。しかし、この映画は映像を見せながら、セリフを通じて別の映像を観客に想像させるという仕掛けでつくられていて、珍しい趣向だなあと関心しました。
なので、セリフ(テキスト)から映像をイメージできる人は、この映画を面白いと感じ、想像力が乏しい人にとっては、退屈でつまらない映画に思えるでしょう。つまり普段から本を読まず、映像作品しか観ない人は、この映画は観ない方がよいです。
ただし、100%良かったわけではなく、セックス重視の脚本(原作の村上氏がいい年してセックスのことばかり書くから仕方がないとはいえ)には、多少うんざりしましたし、役者が起こす殺人事件、北海道へ行く、母親の幼児退行等、原作にない話の流れは、安易な物語展開に思えて白けてしまいました。
しかし、そういうマイナス面は、役者さんの演技や、撮影のこだわりや編集によってじゅうぶんカバーされていて、全体としてはとても良い映画になっているのは間違いありません。わたしにとって、鑑賞料金以上の価値がありました。いい映画をつくって感動を与えてくれた制作チームと役者さん達に感謝したいくらいです。いい映画をありがとう。
ラストシーンについての想像… ネタバレです!!
1番語りたいのがラストシーンについてです… 赤い車、北海道の女の子、ワンちゃん…
このシーンの舞台が韓国なので… 私が妄想したのは、韓国人夫婦(ワンちゃんとセット)と家福(赤い車とセット)たちと仲良く幸せに暮らせてたんだなと…
親を見殺しにしてしまった女の子と妻を失った男(家福)が互いを支え合って幸せだから… 赤い車内で女の子が笑顔を見せてたんだなと…
つまり、二人は結婚して、あの韓国人夫妻とワンちゃんと仲良く暮らしてるのだと感じました。
ちなみに私の母は、家福が女の子に赤い車をプレゼントしたのだと予想… 家福は、日本で頑張っているのだ…と それなら、あんな幸せな笑顔になれるかな!?
しかも愛車と離れ離れで寂しいでしょ!?と私は感じました。 それでも想像を楽しむところに映画の持つ素晴らしさが隠れているわけで、それで良いと思います。
最後に音さんの美しさや女らしさ魅力、そして家福を舞台上で癒やした韓国女性俳優の見事な演技、また西島秀俊さんの素晴らしい名演技と美しくたくましい身体に心から拍手を贈ります。
この映画は10回観ないと理解はできないくらい奥が深いです。 ありがとう御座いました(感謝)
ぐっとくるけど、説明過多では
原作未読。
とにかく車の走る風景が美しい。台詞より俳優の姿で画面で語る絵作りも映画的で好ましい。
繰り返し流れるカセットテープの妻の声も、棒読みがだんだん心地よくなる。また、芝居の稽古の場面も、あえて棒読みを強要していて、感情押さえ気味の俳優たちや外国語のせりふとあいまって独特の世界を作り出している。音楽もよかった。
コミュニケーションができそうでできないもどかしさと、つながりを感じたときの喜びと開放感と。それを直接的に体現しているのが韓国人で手話のユナ。通じないのが当たり前のところから見える世界に、心を閉ざした家福とミサキも触発されていく様がクライマックスへとつながる。
が、そのミサキ。過去があり無口で自分のことはなにも話さないのだが、彼女の母親と家福の妻のこととリンクさせる為なのか、最期の告白的なシーンでばーっと明かされる母親の説明は設定盛りすぎでは?急にそんなのぶち込まれてもなあ。なくてもストーリーは全然問題ないのになあ。
ラストがミサキが韓国で家福の車をマイカーとして犬までつれて乗ってるという、説明はないけどいい余韻があったので、終盤もやもやさせられたのが残念
もう一度観たい
私は村上春樹さんの作品が好きなのですが、自分が本当に理解しているのか不安になる事が多々ありました。
この映画は、その謎の部分を炙り出してくれてように、私に入ってきてくれた様に感じました。
(あくまで私の解釈です)
主人公の彼は、相手の行動を冷静に受け止め、それを理解し、受け入れる事には長けています。
でも、それは側にいるものにとっては、距離を感じ、寂しさを感じさせてしまいます。
音は、もっと向き合って欲しかった、叱って欲しかった
主人公は村上春樹さんの作品の主人公の特徴そのもので、今回、西島さんの特に声のトーンが合っているとなと感じました。
音が思い付いた物語を聞かせ、家福はその感情の解釈をし、言葉にしていく
また、多言語の舞台により、言葉のくい違いが生まれるが、実際、言葉は無意味というか、言葉にする事により遠くなる事もあって、気持ちが触れ合う事が重要だと感じさせる
家福は音の物語の中にヒントを探そうとしたが、本当に大切なものは、そこには無かったのかもしれません。
そうやって監督はゆっくりと伝えてくる、、。
私は、今まで彼は孤独を愛しているのだと思っていましたが、この作品の主人公はとても不器用で、相手のことを想うばかりで、自分の事、自分の感情を置いてけぼりにしていました。きっとそうなんだと、しっくりしました。
自分の感情に素直な高槻の「嫉妬してる」などの言葉に、自分の気持ちとリンクして驚いたり、音の思いを伝えられて、揺り動かされ、気づいていく
自分も傷ついて、傷ついた自分に向き合えなかったと、逃げていたのだと
なんて、勝手な解釈ばかりですが、
ともかく素敵な時間をありがとうございました。
文学作品そのもの
邦画は終わりのあたりにどんでん返しやすごい感動の場面が訪れるが、それほど高低差のないような終わり方をしているように見えて、実は細やかな感情が散りばめられている。
生き残った者は、先に亡くなった者のことを考えながら生きる。
まさにそれを考えながら、心の中で話しかけ、再会を願い、生きていかなくてはならない。
目の前で母親を見殺しにした女性
傷つき関係が壊れるのを恐れて、帰宅を延ばしたことによって妻を失った男性
その生きていく姿を車の後部座席に座りながら見つめ、時には周りから知らない妻の側面を補いながら1歩ずつ進もうというのを感じる。
あと、知り合いの弁当屋さんがロケ弁を提供していて、エンドロールにあるということも気になって見に行った作品。探したものの見逃したが。。。
生きていきましょうよ、長い長い果てしない日々を
図書館で何気なく借りた本にこの原作も入っていて、話題作だし、予告編のピアノ曲も美しいし、いや3時間の長丁場に耐えれるかな?と思いながらも、重い腰を上げてやっとの拝観でした。
美しい朝焼けの寝室シーン、業界的なハイソで仮面夫婦みたいな生活も感じつつ、、、
家福が知らなかった妻の話しの続きを、高槻がスラスラと話しながら次第に涙目になり、(えっ?僕はそこまで知らない、聞いてない!)という2人の緊迫感が良かったです。岡田将生さんの「僕は空っぽなんです」と危なげな若者役も◎
愛車を自分で運転したい家福は、最初はドライバーを嫌々受け入れたけれど、座っていた後ろ席から助手席に移った辺りから、心の距離感も近くなった感じ。
みさきの生まれた北海道の故郷に着いた時、雪景色に音が全くない数秒間のシーンも、ズンと来ました。全て空っぽにしてからのスタートラインみたいな感じ。
ユナ役のパク・ユリムさんはステキでしたね。手話も美しい◎
韓国でのみさきは、なんだかスッキリして幸せそうでした。ニコリとさえしなかったのに、微笑んでたし。
予告編のベートーベンのピアノ曲「テンペスト」は本編では流れなくて残念でした。
確かにワーニャ伯父さんの舞台は良い。
ロード・ムービーを3本位見たような印象を持った。だから、コストパフォーマンスのある映画だと思った。監督や演出家や脚本家や役者ではないのだから、あくまで、映画を見る観客としての印象たが、少し長すぎる。説明しすぎる。最後まで、きっちり、結末を締めくくっている。謎は一つだけ。彼女の顔のギズが最後どうなっていたか?と言う事くらいかな。マスクとったあとのそれを見逃した。ネタバレじゃないぞ。色々言いたい事はあるが、最後まで眠なかった。しかし、同じ事をもう一度言うが、セリフが多すぎる。でも、脚本は賞を取っているから、そんな事言ったら、怒られるかも。この位の話書いていては、ノーベル賞は無理かもしれませんね。原作はまだ読んでませんが。
原作を3行読んでやめました。数十ページで読もうと思えば、3時間位で読めそう。でも、映画も3時間。それなら、映画でしょ!しかし、ならば、映画はもう少し編集できるのかなぁ?と思った。
2023年11/24 6時から8時 再度鑑賞。
ゴドーを待ちながら
今年の邦画最高傑作でした。
3時間をあっという間に感じさせる心地よいテンポ感。
妻が行為中に話す脚本は、映像や演出などは一切なく1人語りで進むが、全く飽きさせない語り方が素晴らしかった。
車の中でかけられるテープの棒読みと練習する西島秀俊の棒読みが交代する瞬間が非常に興味深かった。
岡田将生と西島秀俊の性格の二項対立も絶妙で、自分自身を全く抑制できない男と抑制しすぎる男というのは、人間全体の二項対立(恋愛や犯罪・人間関係など)にも当てはまるようで、興味深かった。
白い雪の中で2人が無音の中、故人を思い、前を向く(というよりは一歩足を進める)ことを決断するシーンには恋愛感情を超越した愛(もはや純愛)を感じて印象的だった。
全201件中、121~140件目を表示