ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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恐ろしいほど緻密にできた映画
公開からかなり経ってしまっていたが、まだぎりぎり都内で上映していたので駆け込み観賞。
ベルリンに引き続きカンヌでも脚本賞を獲ったということで、まさに世界の濱口竜介監督になりつつあるな…という感慨を抱えつつ。
原作は村上春樹だが未読(というか例によって積読)。表題作に加えいくつかを取り込んで脚本を編んだということだ。ただの個人的な雑感だが、村上春樹を映像化するならやっぱり短編なんだろうなあと思う。村上春樹も映画監督もどちらも生きるというか。「ノルウェイの森」はいまだに無理があったと思い返してしまう。
霧島れいか(そういえば彼女は「ノルウェイの森」にも出てたよなあ)が突然無機質に語り出す物語。強固なのか脆いのか、いずれにしても不確かな絆を見せる西島秀俊と霧島れいかの夫婦の、その終わりがこの映画のオープニングである。
演劇を作っていく過程とその根底に流れる人間関係の機微、という意味では「親密さ」を思い出させるし、どこかで「親密さ」を基底にしている部分はあるのじゃないかと思う。
今回は演目が「ワーニャ伯父さん」と決まっていて、反復的にその台詞が提示されるところが暗喩として効く。
電車を撮るのが日本一巧い(と勝手に思っている)濱口監督は、それが車になってもやはり、微妙な距離感や会話のひとつひとつをきちんと描き出す。
心を抉られるような関係性の可視化というか、西島秀俊と岡田将生のシーンがそれで、あの「物語」に囚われてしまった彼ら、どこにも辿り着けないで、それを受け入れるしかないという残酷さ。
そして北海道のシーンは、あれは究極の諦念に見えた。
どんなにやり直したくても起こったことはもう戻らないし、喪った者たちをずっと心に置いて生きていかなければならない。…そしてそれが「ワーニャ伯父さん」のラストと見事にリンクしたところで、思わず泣いてしまった。
色々な人がいて、感情を抑えたり、抑えきれずに激情に走ったり、耐えたり、耐えられなくて逃避したり。あらゆる感情と関係性の枠線を「ワーニャ伯父さん」を背景に語り切った映画、というか。
179分は私にとっては短いくらいというか、多分相当削るのに苦難を要したのではなかろうか、と要らぬ想像をしてみたり。本読みのシーンだけで恐らく一本映画できると思う。
正直であれ。声を出すのをためらうな。
つまるところ、人間って、出会いと別れ、それだけなんだ。
だから自分にとって、大切に思う人には、深読みも、曲解もせずに、自分が感じた思いを真っ正直に伝える事が大切なんだ。いつか、その相手とは、必ずお別れが来るのだから‥と言われたように思えた。
同時に、いわゆる芸術を自由に思い描くのはそちらの勝手だけど、たまには、この映画 ありのままを受け取ってくれてもいいんじゃない⁈と提示してくれた映画なのかな、とも思った。
主人公の二人は、胸の奥に握り拳位の石をずっと抱え、ふとした瞬間にその石の存在と重さを思い出して、やるせなさを感じているというイメージ。
例えば、何を(なくしてしまったり)手放してしまった時、あ〜、自分にとって自分が感じていた以上、思いの外大切だったんだと意識させられる時のよう。その思いがずーっと胸の奥に澱の様に沈んでいる感じを凝縮したようだった。
特にあとから明らかになっていく、さつきの物語と、彼女の圧倒的な存在感が心に残った。
そして、この映画は、タバコ、車中内演技、劇中劇、平坦な朗読、SEXの役割、多言演劇、手話と、色々な要素が玉手箱の様に現れてきて 非常に練られた脚本だと思った。ワーニャ叔父さん‥の本は知らないのだけらど。
ハルキストではないけどそこそこ読む人としての感想
村上春樹作品の世界観がよく出てたと思う。
喪失と再生。
それだけでいい作品を観たなという満足感にひたれた。
こういう長い作品は映画館で観てこそな気もする。
でもロシア文学をちゃんと読んでない自分はこの映画の本質を掴みきれていない気もする。
きちんと読んだ上で鑑賞した先には何を感じるのかな。
岡田将生には五反田君も演じてもらいたいな。
原作未読です。 長年連れ添った夫婦の空気間、オーディションの緊張感...
原作未読です。
長年連れ添った夫婦の空気間、オーディションの緊張感、まだ他人でしかない相手との会話など日常と人間関係の機敏が繊細に伝わってきて一人一人の役者さんたちから目が離せませんでした。 高槻演じる岡田将生さんの目から伝わってくるどうしようもない劣情と焦燥、そうした視線がとても印象的でした。
本当に大切な人を亡くしたとき、劇的に何かきっかけがあって救われるわけではない。たとえ浮気をされていた妻であっても染み付いた愛情が簡単に洗い流せるわけでもない。西島秀俊さんの演じる家福の葛藤が緩やかに消化されていく。悲しみは消えることはないけれど、だからこそ言葉として自分はこうであった、こうしたかった、と口にすることができたのかなと思った。文学的なので好みは別れそうですが、迷っていた三時間観賞、観て良かったです。生と性に強固な価値観がある場合、疎外される要因になるのかもしれません。
丁寧に練り込まれた脚本と俳優の魅力を存分に惹き出した作品
『ドライブ・マイ・カー』と濱口竜介は間違いなく日本を代表する映画と監督になるだろう。
最初のベッドと最後の舞台のシーンがとても美しく歴史に残る。オープニングから一気にその世界に惹き込まれた。
劇中劇と現実がシンクロしていく秀逸な構成。「ワーニャ伯父さん」のセリフとリンクしていく脚本のため、その演劇を知ってから観るとまた分かるものがあると思う。
ほぼ車の中の会話劇だが、3時間という長さを感じさせない。
車とバーという密接だけどパーソナルスペースを守られ心の距離を近づけられる場所を効果的に使い、人と人の心の通わせ方を描く。
心に傷を抱えた人たちの物語だが、慰めではなくその先にある強い希望を感じた。僕たちはそれでも生きていかなくてはならない。
すべてを受け入れて心を通わせることが、この世を生き抜いていく術ではないだろうか。
そして人には「物語」が必要。人生という物語を生き、自分という主人公を演じきる。
役者とは面白い生きものだ。
実力派俳優たちの表情と佇まいの演技に引き込まれる。役者を際立たせた演出。特に長回しのシーンがじんわり響く。
コロナ禍にこの作品を生み出したのはとても意義がある。
哀しみに優しく寄り添う素敵な映画
喪失を抱えて生きる主人公の心を、丁寧にゆっくりと時間をかけて、折り合いをつけていく様子が描かれていました。
3時間という長尺作品だからこそ、主人公・家福の想いがしっかり伝わってきます。車の中という狭い空間の中でのドライバー・みさきとの交流や、演出舞台の台詞から、家福が目を背けていたことに向き合っていく様や、絶望・忍耐・希望への過程が描かれ、次第に家福に感情移入していき、みさきの故郷の村でのやり取りは、哀しみや後悔との向き合い方の一つの答えを示してくれたようで、心が動かされました。
余韻も含めて、とても良い映画。なんだか癒されて心が軽くなりました。
心の奥底の何かが作品と共鳴して自然に涙が。
カンヌで脚本賞を獲ったのでこれは観なくちゃと思っていたものの3時間という長尺に二の足を踏んでしまいまして。そうこうしているうちにアカデミー賞の国際長編映画部門の日本代表に選ばれてこれは飛ばしてはいけない映画だ!と意を決して劇場へ。単調なロードムービーなのかな?とにかく長いし結構退屈な作品かも、という不安を抱えつつ。
いやぁそれは全くの杞憂に終わりました。長さをそこまでは感じず、むしろ展開がどうなるのか掴めずに前のめりになって鑑賞しておりました。
原作は未読ですが、村上春樹らしい文体の台詞。懐かしい春樹ワールド。最近全然読んでいませんでしたけど久しぶりに春樹文学に触れたくなりました。
演劇が好きなのであの独特な稽古メソッドもとても興味深かったし感情を全く乗せない本読みシーンは本心を隠している登場人物たちそのものの姿とも重なっていましたね。
皆それぞれいろいろ抱えて生きているし何らかの罪も背負っているでしょう。そんな心の奥にあるモノが作品のどこかと共鳴していつの間にか涙が溢れていました。
西島秀俊さんやっぱり素晴らしい役者さんですね。表情で絵がもつもの。三浦透子さんも凄く良かったです。岡田将生さんもザワザワさせてくれました。『罪人』の頃を思い出しました。たしかあれも赤い車でしたねぇ。
演劇部分は多いけど視覚的には十二分に映像作品だし文学的だけどちゃんと映画として楽しめました。秀逸。
見逃さなくて良かったぁ。間違いなく今年のマイベスト10に入るでしょう。
作品とは直接関係は無いですが、韓国の手話って結構日本の手話と似てますね。
心に傷を負いつつも前に進む。
感想を語るのがの難しい作品。
人は、他人との関係で、勇気をもらったり、傷を負ったりしながら、どんなに辛くとも生きていく…
他人も自分と同じように苦難を乗り越えて生きていっている…
耐え難い出来事に耐えて前に進むには同じ境遇(同じ車)に乗って進んでいく仲間が大切だ、と語りかけてくるように感じた。
2022/01/15
2回目鑑賞。
実際に悪事を働くものと、自らの行動の結果、人を死に至らしめてしまったもの。
この2者にどれほどの差があるのだろうか?
自分のやった罪を見つめて、悩んで、苦しんで、泣いて、それでも残されたものは生きていく。
本当の自分と見つめ合って、ごまかさずに進んでいく。
いろいろな出来事が、自分にも当てはまりそうで、3時間という時間を感じさせずに一気に見てしまう。
長いからと言って躊躇して、配信やDVDで見るとぶつ切りになって別の印象を持ってしまうと思います。
劇場で見る作品、家庭で見る作品、TVで見る作品、違うものになってしまいます。
賞も取っていることだし、せっかくなら劇場で見たいですね。
演出がよい。ワーニャ伯父さんの舞台との調和もはまっていた。多言語(...
演出がよい。ワーニャ伯父さんの舞台との調和もはまっていた。多言語(手話含む)にダイバーシティ・インクルージョンを感じた。パク・ユリムさんの食事のシーンと舞台の最後の手話の感じが良かった。
自己満足の否定について
私の中でまた新たな映画の出会いがあり、とても幸せです。
はじめから終わりまで飽きずにのめり込めました。
自分の中に言いたい事はあるのに、それがたやすくまとまらない。ただ、じんじんと、しんしんと、私の中で想いが降り積りそれが言葉になるのを待っている。
深く潜ってそれを手に入れたい。
そう思わせてくれる作品。
50過ぎて質の高い作品に出会えて心からうれしい。
演者の中に深さがなければ浅くなってしまう難しい作品だったと思います。真剣勝負のギリギリにしびれました。後半の車中の中での高槻の告白は劇場内が車中であり、私の隣に高槻がいた。こちらの人生を覗かれてる緊迫感。こんな体験あるんですね。岡田さんの演技を超えた憑依のようなものにゾクっと震えました。
そして最後のソーニャの言葉の手話。言語と、国と、障害、人それぞれの地獄を乗り越えて出会う何か。緊迫、絶望、覚醒…チェーホフは自己満足の否定をするという事をずっと考えています。
村上春樹の小説、チェーホフの原作をぜひ読んでみたい。
最後に日本にこの作品を生み出した濱口監督に惜しみない拍手を贈ります。 素晴らしい。
運転手が何故女性?
怖いよ、ある立場のある男性と2人っきりになるとか。
村上春樹に向けた脚本賞
そこを、狙って使った事が良かったけど
なんか、最後もなんかなー
どっかで見た事ある価値観と話しだったなー
期待した分がっかりした。
世界中で観ていただきたい作品
家福も音自身もわかっていたのか…
何故彼女は夫以外の男性と頻繁に関係を持つのかということを。19年前に4歳の1人娘を肺炎で亡くしてしまった喪失感、空虚感をSEXによって体を求めることでひたすら埋めようとしていたのではないかと思うのだ。でも、19年経っても彼女の心は止まったままなのだ。
夫婦はこのことについて向き合っていたつもりだったのだが何も解決していなかったのだ。
辛いことだから、触れないようにしていたのだろう。
小さな綻びは年月をかけ、確実に広がっていく。
でも、彼は彼女を本当に心から愛していた。
それは彼女も同じだった。
だからこそ、その他の男性との関係を問いただすことで彼女を失いたくなかったのだ。
失うことは自分が傷つくことを意味する。
結局、自分を守ったのである。
もしかしたら、彼女も彼に止めてほしかったのかもしれない。自分ではどうにもできない域に達していた可能性も大いにある。
だから、彼は自分が彼女を殺したと思っているのだ。
同じようにミサキも自分が母親を殺したと告白する。
死ぬことわかっていながら、助けなかったと。
お互いに自分の決断で自分の首を絞めていたのだった。
この車での旅は自分の気持ちに真正面から向き合うことを意味していた。
高槻に言われた言葉が確信をついていた。
自分自身を見つめることしかないと。
これが生きるってことの本質なのではないのか。
多言語、手話が飛び交う舞台稽古の様子を見て、
俳優という職業の過酷さ、私たち観客にはわからない努力の毎日があるんだなと思うと改めてこのように作品を拝見できることに感謝しかないです。
アカデミー賞日本映画部門ノミネートおめでとうございます。邦画とは思えない空気感が漂っていました。なかなかここまでの満足感がある作品には出会えないと思います。
トイレに席をたつ人、最多の映画でした。
初めの音の語りのシーン。
少し入り込めなかったけれど、
「そうか、村上春樹さんの作品か。」
と自分の中で一つ前提を作ると、
入っていくことができました。(原作未読ですが…)
2人の舞台制作陣も、
変なオーラが出ているし、話し方も独特で、現実にいるようないないような。
高槻が捕まった後の駐車場で、
今それをいうこと?と突っ込む家福さん
と2人の宇宙人みたいに感じ、
笑いそうになりました。
でも、村上春樹さんの世界観か!
と思えばよく思えてくる魔法です笑
韓国の俳優さんはやっぱりうまいな
そんな印象を受けました。
最終的にはとても良い運転手だということは分かりましたが、
第一印象が悪い…
こんな人に頼むのかと思いました。
自分と向き合って自分を知り、
その自分に素直になれたらいいのになぁ…
心がゆっくり包まれてゆく感じがしました。
際立つ言葉
全編を包み込む無機質と静寂、それにより際立つそれぞれが発する丁寧な言葉。
その言葉一つ一つが身体に染み込む様な感覚、何故かうっすらと涙が滲み出た。
きっと呑み込んでいるかもしれない感情を察知したのかもしれない。
そして厳選された言葉がこれ程の力を持つのかと驚いた。
手話を含めた多言語の舞台のシーンもこの効果を感じるものだった気もする。
観る前、キャストの中に霧島れいかの名前を見つけ、ノルウェイの森を歌うシーンが鮮明に思い出された。
世間的評価は別として、トラン・アン・ユン独特のトロンとした空気を堪能出来るのが心地よい「ノルウェイの森」ギターを弾きながら歌うシーンはとても印象に残っていた。
偶然だろうけど、村上春樹と霧島れいかの化学反応は好きな雰囲気だ。
運転の女
少し説明が多すぎるんじゃないかと思いながらずっと見ていてのだか、他者とのコミュニケーションをテーマにした本作は、聴覚や視覚障害者向けのバリアフリー版が別途あるらしい。環境意識への高まりとともに、ダイバーシティ等への配慮のあるなしがマーケットにも直接影響を及ぼすようになってきた社会の風潮を、ちゃんと察知した上での演出だろう。読解力不足が指摘される若者にも優しい本作を監督した期待の若手ホープ濱口竜介の、バランス感覚の良さにも注目したい1本である。
映画中盤、韓国人主宰の演劇祭におよばれした舞台俳優兼演出家の家福(西島秀俊)が開催地の“広島”へとむかうシーンをバックに、初めて映画タイトルが表示される濱口お得意の演出。おそらくここまでが村上春樹の原作に忠実なパートで、以降は濱口監督オリジナルの創作ではないのだろうか。何せその原作短編を読んだことがないのではっきりしたことは言えないのだか、どうもハルキムラカミにリスペクトを捧げたのはここまでだよ、と言っているような気がするのである。
が、説明が多い割には何を言いたいのかがわかりにくい。なぜなら、言葉による他者とのコミュニケーションの難しさを、その言葉=テキストによって説明しようとしているからである。いわば観客ー役者ー演出家(映画監督)の間に横たわる見えない壁(バリア)をフリーにしようと試みた作品なのだろうが、「いまAとBの間に変化が起きた。それが観客に開かれているかどうかはわからない」家福の台詞中の、その“変化”がどんなものかが、映像からはうまく伝わってこないのである。
直近の作品中で、我々観客の映画理解力をゾンビやチンパンジー並みと評価を下しているジャームッシュやカラックスならば、嘆く以前にここですっぱり諦めていたのかもしれない。しかし、濱口竜介はけっして諦めない。尺が3時間近くになろうが、予算をかなりオーバーしようが、役者から濃厚なベッドシーンにNGを出されようがへこたれない。何とかして観客に自分の言いたいことを伝えようと奮闘努力するのである。芸術家としての真摯な姿勢を貫き通す監督なのである。
そのために家福(濱口)がとった(小津やカウリスマキを想わせる)演出方法が、本当の自分を引き出す力があるというチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の棒本読み、外国人、唖者の女優など日本語が話せない&通じない役者のキャスティング、なのである。自分の代わりにワーニャ役に抜てきした音の浮気相手でもある高槻(岡田将生)たちに対し、家福いわく“(チェーホフの)テキストを役者の身体に潜り込ませる作業“を行うのである。役と役者本人の内面との“切り離し作業”と言い換えてもいいだろう。
しかし、車の中で亡き妻音(霧島れいか)との棒読み合わせ=“音”と感情の切り離し作業を無意識のうちに行っていた家福に、ここで思わぬ副反応が生じるのである。幼い娘の死を自分の責任であると思い込み、複数の男を自宅マンションに連れ込んで自傷的な浮気行為を繰り返していた音。そんな妻の傷んだ姿を見て見ぬふりをしていた罪の意識が、家福の思惑とは裏腹に心の中でドンドンと肥大化していくのである。チェーホフのテキストによって本当の自分=魂が表出してしまうのである。
家福に自分を空っぽな人間だと語った高槻は、(ワーニャ役の稽古をすることによって)SEXと暴力という肉体的コミュニケーションしかはかれない自らの内面をさらけだす。他人と話す時は全くのポーカーフェイスで、言葉を話すことができない🐕️の前でしか内面の感情を表現できなかったドライバーのみさき(三浦秀子)もまた、『ワーニャ伯父さん』の稽古を見学したことによって、家福に亡き母親との確執を語り出すのである。
ある事情によって再びワーニャを演じなければならなくなった家福は、稽古を一時中断、生きていれば死んだ娘と同い年のみさき、そして妻の思い出が刻まれた“(クモ)真っ赤”なSAABとともに、自らの心の奥深くに眠っている“原罪”を見つけに、みさきの自家跡へ、魂の源流へと遡る再生の旅に出かけるのである。「どこかへ連れてってくれ」新藤兼人が脚本担当なら間違いなく原爆ドームに連れて行ったと思われるそのトリップはまた、“ヒロシマ”という過去のトラウマから目をそむけ続けてきた日本人の“原罪”を再認識させる旅だったのかもしれない。
正しく傷ついてこなかった
辛い言葉だ。避けてしまった本当のことは、生きていく限り一緒に心に抱いていく。
それでも生きていかねばならない。手話の女優さんのチェーホフの台詞が身に滲みる。
単調な本読みの違和感は戯曲を体に染み込ませると言うよりも、感情の噴出のための演出とは意地の悪い見方だろうか?
それにしても、風景も音もつつましく美しくて飽きないのは、心地良い運転に身を委ねているからだろう。
原作をしりませんが…。
映像、小説、哲学、演劇、さまざまな要素が混在となり一つの劇場映画となってます。
劇中舞台のセリフが、それぞれの配役の葛藤や感情を表現して複雑な伏線や心理を表現しているとともに、演技に国境は無いと思うところがしばしば見られます。
個人的に感慨深い映画で点数つけましたが、エンタメ性は…!?
赦される喪失痕
舞台演出家の家福悠介と妻で元女優・脚本家の音は、贅沢ながらも慎ましく穏やかで満ち足りた生活を送っていた。悠介はある日、音から「今夜、話がある」と伝えられていたが、帰宅すると音はくも膜下出血で他界していた。喪失感を抱えながら2年が過ぎたある日、悠介は芸術祭で演出を担当する広島で長期滞在をすることになり、そこで専属ドライバーのみさきにと出会う。原作は村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」。
本作は、幾重にも編み込まれた入れ子構造がベースで、かつ、ロードムービー的要素、チェーホフの劇中劇、音の紡ぐ物語などなど、異化効果がふんだんに散りばめられた作品なので、鑑賞者の数だけ感じ入るポイントが存在するであろう、映画らしい映画といえる。たくさんの文脈が折り重なるなかで、わたし自身は「喪失痕」に関心を寄せた。
生きていくうえで何かを失うことはたくさんあるが、わたしたちが人生で遭遇しうる最大の喪失は誰かの「死」である。遺された者は「あの時、ああしていれば」という後悔に苛まれる。逝ってしまった人が大事であればあるほど、自責は募る。芸術の多くはそうした喪失の先の、「克服」や「再生」の美しさに光を当て、賛美を送ったが、本作は、傷痕が癒えることも何を創造することもなく、ただそれを抱えたまま生きていく群像を淡々と描く。だがしかし、淡々とした中にも、彼らが傷痕の存在を認めた後の得も言われぬ“抜けた”感じは、ある種のカタルシスを覚えさせ、鑑賞者であるわたしたちひとりひとりが誰しも隠し持っている「喪失痕」が赦された感覚に捉われる。
準主役に「赤のSaaB900」と「紙たばこと100円ライター」をチョイスしているのが渋い。長くこだわりぬいて乗るのにふさわしい北欧車で、一筋縄ではいかない家福悠介を投影するモチーフとしても最適だが、そのこだわりを捨てて、高槻のように分別をなくしたくなる刹那、「車内でたばこを吸わない」というルールをかなぐり捨てる、わけでもなく、やはりどこまでも分別が捨てられず、サンルーフから煙だけは吐き出すシーンが印象に残る。また清掃工場を一通り見学した後、川辺で一服するふたりがハイアングルで映し出される場面で、クライアントである悠介と一ドライバーのみさきが、実は同種の「喪失痕」であったという邂逅も素敵な場面だ。そして二人とも、携帯灰皿で吸殻を持ち帰るシーンをきちんと本編に入れ込むあたり、監督の徹底した演出が光る。トリリンガルのコーディネーターを演じたジン・デヨンや、迫真の演技を見せたパク・ユリムも好感が持てた。
一度の鑑賞では掴みきれない奥深さがあった。例えば、北海道に着いたあたりの、割と長尺の無音の場面などは、もう一度、ゆっくり観たい場面。更には、観賞後、村上春樹の原作や、劇中劇で脚本となっているチェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」へ興味をそそられるあたりも良作と呼ぶにふさわしい出来だ。
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