「丈夫な車」ドライブ・マイ・カー 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
丈夫な車
原作は未読ですが映画のために構築された──となっていました。
『村上春樹の同名小説「ドライブ・マイ・カー」より主要な登場人物の名前と基本設定を踏襲しているが、同じく村上春樹の小説「シェエラザード」「木野」(いずれも短編集『女のいない男たち』所収)の内容や、アントン・チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の台詞を織り交ぜた新しい物語として構成されている。』
(ウィキペディア、ドライブ・マイ・カー (映画)より)
主役は喪失──という感じ。(なのかな。)
いろいろな喪失がでてきました。
家福(西島秀俊)と音(霧島れいか)は娘を失っています。家福は音を寝取られています。家福は音に先立たれています。家福は片眼をゆっくり失明しています。みさき(三浦透子)は父親を知らず母親を失っています。
家福はそれだけの逆運に遭いながらも感情を出さずたんたんと生きています。
みさきも感情を見せずストイックなドライバーに徹しています。
つねに理性的な家福の悔恨がこの映画の結論のうちのひとつだと思われます。それは高槻(岡田将生)との対比で語られます。高槻は激しやすいタイプです。家福からみると未熟な男です。いみじくもこんな台詞がありました。
家福「きみはじぶんをじょうずにコントロールできない」
高槻「はい」
家福「社会人として失格だ。でも役者としてはかならずしもそうじゃない(後略)」
みさきの故郷へ弔いに行き、大切な者を失った者同士で感慨にひたったとき、いままで抑えていた家福の感情が噴出します。高槻は罪人になりましたが、家福のように感情を隠していなかった──少なくともじぶんに正直だった──というロジックにおいてひとつの結論が見えたわけです。
家福とみさきは埋もれた家のまえで抱き合って生き延びる決意を固めます。
総括な結論は手話で表現されるワーニャ伯父さんの有名な幕切れの台詞が、そのまま家福とみさきの行く末に重なっていることだと思います。
『「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」』
(ウィキペディア、ワーニャ伯父さんより)
これは家福の決意でもあり、みさきの決意でもあると思います。ふたりはこれから死んだ者を背負って生きていく──のですが、おそらくそれは諦観にみちたワーニャ伯父さんの台詞本来の意味よりも、明るいものとして描かれている──と思います。
みさきが最後に走り去っていく道はどこまでも続いていて「再生」といっても言いような明るさがありました。
映画には幾つかの短篇や戯曲を切り貼りしたとは思えないまとまりがありました。村上春樹にくわしくありませんが、おそらく原作を忠実に映像化したばあいより、わかりやすい決着点へ行き着いたと思います。
また濱口監督は日本/日本人をきれいに撮ると思います。──米欧韓の映画を見てその合間に邦画を見たとき日本の景色や日本人に見劣りを感じることが(個人的には)よくあります。あまり美しくないとかかっこわるいとか趣(おもむき)がないとか、もっときれいに撮ればいいのに──とおもうことがよくあります。が、濱口監督は寝ても覚めてもでも感じましたがシーナリーも人もきれいに撮ります。遜色を感じません。本編では車もきれいに撮っていました。
棒演技と棒読みが着色や偏った印象になるのを避けている──と同時に多義で多元な捉え方があると思われ──観た者それぞれが違う印象をもつであろう自由度も感じました。が、前述のとおりワーニャ伯父さんと重なる明解な結論がありました。
本作の(rotten tomatoesの)海外批評家評は断トツですがアート系映画にしては海外一般観衆評も高めなのは、その明解な結論のおかげだと思います。
しかし、こじんてきにおそらくもっとも感心したことは(少なくない日本映画を見ているはずなのに)見たことのない種類の日本映画だったこと──でした。