「愛する人ほど心を傷つけあうことってあるよね」ドライブ・マイ・カー hatakeyamadさんの映画レビュー(感想・評価)
愛する人ほど心を傷つけあうことってあるよね
印象的な3つのシーンについて
まず印象に残ったのが、夫婦が4歳で亡くなった娘の四回忌の帰宅後のセックスシーンである。
あれは抱いてはいけなかったのではないか、と思うのである。
女性はただ話を聞いて抱きしめて欲しい時もあるらしいのである(彼女に言われたことがある)。
女性にハグするべきなのにキスをすると大怪我をすることがある。
彼らはハグするべき時にセックスしてしまい関係が完全に崩壊したのではないか、と思うのである。見ていてほんとに痛々しい。
最後のセックスの翌朝音は昨日の話は覚えてるか?と聞く。家福は覚えていないという(もちろん嘘だ。内容が自分が不倫現場を覗き見たことと重なってしまったのだ)。覚えているというべきだった。音はセックスの途中に意識を回復したように見え、彼女は話したことを覚えていた。もしくは、覚えていてほしかった。"覚えてないということは大したものじゃなかったということだから"というセリフが怖い。別れ際に女の子から言われた既視感のある発言。
二つ目。音が倒れてるところを家福が見つけるシーン。
音がコートを持って倒れているのがわかる。
私は"音は家福の帰りが遅いから心配して外に見に行こうとしたのでは?"
彼女"音は大事な話があると伝えたのに帰らない家福にあきれ頭を冷やすか浮気相手に会うために外出しようとしていた"
男はロマンチスト、女はリアリストだと思い知らされる
三つ目は高槻が車の中で家福に語る音の真実の物語。
この物語は最後、好きな男の子の家に空き巣に入った女子高生が本物の空き巣の左目を鉛筆で突き刺す。そしていろんなところを刺して殺してしまう。が、家に監視カメラがつけられたが、それ以外に世界が変わった様子がない。
彼女はカメラに繰り返す。"わたしがころした"と。
このシーンはとても重要だと思う。
まず監視カメラに音声は記録されない。
①口の動きと目線だけでメッセージを伝えるというコミュニケーションの意味(高槻の再現が面白い)演じる、メッセージを伝達するという個から切り離された表現の意味を考える
②わたしがころした はわたしが娘を殺したという罪の告白である。家福は音を殺し、みさきは母を殺し、音は娘を殺した…と思っている。そして
③ 左目に鉛筆を突き刺す、というのは家福の左目の緑内障に関係している。重層的な世界観。音は家福を殺そうとしていると自覚している。そして家福の心の一部を殺してしまった。その罪の意識から最後まで逃れられなかった。
なぜ現代に生きる我々はここまで罪を抱えないと人を愛せないのだろう、と思わざるを得ない。
この作品は村上春樹の作品の本質を的確に捉え、なおかつわかりやすく提示することに成功している。村上春樹の作品は世界中に読まれ、"これ俺じゃん"という読者をたくさん増やしている。この作品を観て"あ、これ俺じゃん"ってなる人はかなりいると思われる。それはおそらく村上の原作よりもはるかに強い訴求力だ。身につまされる。
結論。彼女や奥さんを大切にしましょう。
追記
劇中劇で監督自身の映画制作技法をそのまま作中で見せてしまうところはトリュフォーの"アメリカの夜"を思わせる。
村上春樹の"女のいない男たち"の中の"独立器官"ではトリュフォーの"夜霧と恋人たち"が引用されている。
韓国手話のユナの日本での境遇(誰ともコミュニケーションがとれないが愛する家族とは親密な関係)は、五体満足にも関わらず人知れず孤独な闇を抱える音と対比されているように思う。だからこそ、ラストのワーニャ伯父さんでソーニャを演じるユナから辛くても生きて行きましょうと"韓国手話で"伝えるシーン(しかもオーディションでの演技と全然違い眼差しが優しい)が泣けるのです。
再追記
2回目を観て時系列が明確にわかりました
家福が運転中に事故を起こし
左目に緑内障があることが判明する
家福が音と浮気相手(誰かは顔が見えず不明)のセックスを目撃する
娘の祝儀後
音"私あなたで良かったと思ってる"
"子供もう1人欲しかったんじゃない?"
家福"君の考えを支持するよ"
"あの子は1人しかいないんだから"
音"でもあの子と同じくらい愛せたかも"
家福"…"
帰宅後セックスする
ヤツメウナギの話と好きな男の子の家に空き巣に入る女子高生の話で女子高生が好きな男の子のベットの上で自慰をしている最中に誰かが階段を上がってくるところで音がオーガズムに達し話が途中で終わってしまう
翌朝
音"昨日の話覚えてる?"
家福"ごめん、昨日の話は覚えてないんだ"
音"そう。
でもいいわ。覚えてないということは大したことじゃないってことだから(怖い)"
音"今日話せる?"
家福"なに...改まって"
音"早く帰ってきてね..."
別れを切り出されるとおもった家福は恐ろしくなり用事はないのに車でドライブし遅くに帰宅
外出し
高槻に会う音。
セックスしたあと空き巣の女子高生の続きの話をする。
階段を上がってきたのは本当の空き巣で、女子高生をレイプしようとしたため女子高生はその場にあった鉛筆を
空き巣の"左目に"突き刺す
その場にあったもので滅多刺しにして空き巣を殺してしまう
しかしとくに世界に変化は無く、監視カメラが男の子の家の玄関に設置されただけだった。
彼女はカメラに向かっていう。
"私が殺した、私が殺した、私が殺した"
家に帰宅したところで突然倒れる音
コートを持って
倒れている音を家福が発見する
この流れだろうな
すごい作り込まれてる上に、この時系列だと
音は家福を殺したという想いがあることが明確にわかる。
ヘミングウェイメソッドを思わせる脚本
最高
あとで気づいたこと
・家福とみさきが車内で喫煙しルーフから手を出して煙を流すシーンは線香を思わせ、日本ではすでに形骸化した葬式を暗喩しており音をあの場面で弔っているのではないか
・最後の演劇のシーンで家福の演技を観ているジャニスチャンの顔がクローズアップされ驚いた顔(嬉しそうに見える)をしているのは家福にも"なにかが起きた"ことに気づいたからなのかもとか。その時点で以前は彼女は家福の仕事のやり方に不満を持っていた様子だったが彼のやりたかったことを明確に理解したのかもしれない。
・村上春樹の好きなスタンゲッツやビリーホリデイの悲惨な人生はよく言われる話ですが、村上は"彼らの美しい音楽の背景には彼らの人生があること(主に麻薬です)忘れてはならないと何かで言っていた。なんかこの映画には共通する部分があるように感じる。
・最後の韓国にいるみさきは韓国語を普通に話しており、手慣れている感じから定住していると思われる。たくさんの食糧を買っているが、いずれも賞味期限が長そうなものばかりでありコロナ禍で長期間家にいなければならないためなのか、誰かのために買ったものなのかはわからない。ただ家福が不在の画面から考えると彼らは別離したと考えるのが自然かと思う。
Drive My Carというタイトルが明確に画面に現れるラストの画面からしても"私の車を運転する"というタイトルに準えた演出かと思われる(見事です)。
総論としては
①芸術は現実の反映であること(トリュフォーと同様)
②村上の原作では男と女の対称性、主に女性の言動の不可解さが強調されていたが(インディーワイヤーでも同様の指摘がありました)濱口監督は男女の性差ではなく現代人の心の闇、人知れず抱えている解決不可能な悩みについて描くことに腐心していること(そしてそれに成功している)。
③相手と分かり合えない時は自分の心を内省的に見つめ直す必要があるという考え方は村上と濱口監督で共通していること。
④日本の俳優の潜在能力の高さを思い知らされる。濱口監督は即興的な演出を好み、俳優の直感をかなり信頼している。西島秀俊や岡田将生を私はただのテレビドラマ用のトレンディ俳優としか考えていなかったが大きな間違いだった。
ミステリーとしての謎と決して解けない謎が混在している感じが村上春樹作品を思わせる。