「この長尺でも消化しきれない、膨大な要素が詰め込まれた作品世界の濃度に圧倒される一作。」ドライブ・マイ・カー yuiさんの映画レビュー(感想・評価)
この長尺でも消化しきれない、膨大な要素が詰め込まれた作品世界の濃度に圧倒される一作。
同名の村上春樹の短編を濱口竜介監督が映像化。三時間という昨今の日本映画としてはかなりの長尺ですが、それでも収まりきらないほどの膨大な要素が詰め込まれており、鑑賞中はほとんど時間が気にならないほどでした。主人公の家福が広島に行くきっかけとなった出来事など、いくつかの場面を除くと大きな起伏がない状況が物語の大半を占めるにも関わらず、このテンションの保ち方はすごい。それだけでなく、いくつかの場面ではまるで劇中の人物が観客に語りかけているような、あるいは観客が劇の中に入ったような感覚に陥ることがしばしばありました。これは劇中劇の素晴らしさもありますが、俳優達の演技の凄まじいまでの完成度ゆえであることは間違いないでしょう。
冒頭の一幕、そして劇中劇の内容から明らかなことは、本作が「ことばを巡る物語」であるということです。ある者は言葉の意味を過剰に深掘りし、ある者は発した途端消えてしまう言葉を何とかつなぎ止めようと奮闘し、ある者は言葉を発することを恐れて押し黙っています。「ことばに囚われた人々」を描いている、と言い換えることもできそうです。
このことを非常に良く表現している(と思えた)のは、家福と渡利が訪れるある場所です。本筋とはあまり関係なさそうに見える「そこ」では、日常にまんべんなく行き渡っているけどある時点で「見えなく」させられたものを、もう一度可視化することができるのです。この当たり前すぎて見えなくなってしまったものの存在を今一度意識するようになる、という過程は、本作全体の流れを凝縮しており、実際後半の展開はまさにこの場面が示した通りの展開となります。
劇中劇と共に物語が進行するという手法は、濱口監督の代表作の一つ、『ハッピーアワー』(2015)でも用いられているとのこと。本作は村上春樹の作品を底本にしつつ、濱口作品として生まれ変わらせるという、(良い意味での)換骨奪胎となっています。
パンフレットもまた作品同様情報密度が濃くて、読み応えがあります。なんと広島の観光案内としても使える!