劇場公開日 2021年8月20日

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「西島秀俊は名演であった」ドライブ・マイ・カー 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5西島秀俊は名演であった

2021年8月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 シチリア民謡に五木寛之さんが歌詞をつけた「ひとり暮らしのワルツ」という歌がある。早稲田大学のロシア文学科にいたためなのか、歌詞の中に次の一節が出てくる。

 タバコをふかして チェーホフなんか読んで
 悪くないものよ ひとり暮らしも

 男と別れた女性が男と暮らした部屋に住み続ける心境を歌っている。「悪くない」ではなく「悪くないもの」という表現にしたところに五木寛之さんの工夫があると思う。「もの」が付くことで、俯瞰した見方になる。いろいろな暮らしがあって、どれも悪くないが、ひとり暮らしも同じく悪くないという言い方である。本作品にはタバコを吸うシーンも割と多いし、自然にこの歌が頭に浮かんだ。

 本作品はまさにチェーホフの代表作のひとつである「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として展開される。チェーホフは大雑把に言えば人生の意味を問いかける戯曲を作っていたので、そういう意味でもこの作品にぴったりだ。ちなみにワーニャはイワンの愛称で、アレクセイがアリョーシャだったりドミートリーがミーチャだったりするのと同じである。英語圏でも同じように愛称が決まっていて、ジェームズはジミー、ウィリアムはビルである。愛称で呼ぶのは平素や親しみを込めているときで、改まったときは正式の名前で呼ぶ。ビル・クリントンは例の不倫騒ぎのときはヒラリーからウィリアムと呼ばれていたに違いない。さぞ怖かったと思う。

 セックスは食と同じく人生に必要なものだが、それを正面から捉えようとした映画は少ない。特に邦画は少ないと思う。あってもマイナー作品だ。しかし本作品には西島秀俊と岡田将生という有名俳優が出ている。しかも3時間の大作である。あとは相手役となる有名女優が出演すれば本邦初のセックスがテーマの映画になったはずだが、そうはならなかった。映画にもなったドラマ「奥様は取り扱い注意」のヒロイン綾瀬はるかが西島秀俊の相手役を務めれば最高だったのだが、ちょっと残念である。
 しかし霧島れいかも悪くない。ネチャネチャと音のする濃厚なキスシーンは、そこらへんの恋愛映画が逆立ちしても映せないシーンだ。舌を絡め合う濃厚なキスは、恋愛成就の証であり、セックスの入口でもある。互いに舌を相手の口腔へ入れ合い、歯の裏や口蓋の奥まで舐め合って、溢れる唾液を飲み込めば、心が溶けて脳は興奮の坩堝と化す。
 このシーンがあったから有名女優が出演しなかったのかもしれないなどと考えたりもしたが、必要なシーンだから誰が監督でもカットはしないだろう。濃厚なキスの向こうにあるのは相手の人格だ。しかしである。人は可能性としては誰とでも濃厚なキスを交わすことができる。つまり濃厚なキスやセックスをしたからといって、相手の人格を理解できるわけではない。人は他人によって高められも貶められもするが、他人の生を生きることも他人の死を死ぬこともできない。どこまでも孤独なのである。
 西島秀俊は名演であった。この人にはこういう複雑な人格こそ相応しい。

 本作品にはセックス、暴力、肉親との関係性など、多くのテーマが重なり合うように登場する。どのテーマも最後はひとつの結論に収斂していく。人はひとりで生き、ひとりで死んでいくのだ。それを受け入れるしかない。奇しくも劇中劇「ワーニャ伯父さん」でソーニャが最後に語る台詞の骨子でもある。

耶馬英彦