「心から書きたいものを、作りたい映画を。」Mank マンク 椋本桂多さんの映画レビュー(感想・評価)
心から書きたいものを、作りたい映画を。
良い映画です。
今作は史実を元にした映画で、主人公マンクが映画史に残る不朽の名作「市民ケーン」の脚本を書き上げるまでの物語。
見所は一見すると不真面目で皮肉屋に見える主人公マンクが信念を曲げずに生きる姿。テーマはアメリカ映画の精神。
1930年代、世界恐慌、共産主義、ナチス、などあらゆる社会不安の中でハリウッド映画は最盛期を迎えていました。
当時ネットはもちろん、テレビも普及しきっていない時代に映画は最も力強いメディアでした。史実でも新しいファッション、ヘアスタイル、あらゆる流行を映画が生み出しました。
そんな映画の持つ大きな影響力は富と権力を持った者が利用し政治思想まで操るようになります。映画にはお金を出すスポンサーが必要なので業界に身を置く人々が簡単に抗える流れではありません。
そんな時代にマンクは当時存命で新聞王と呼ばれ政治的影響も持った大富豪ウィリアムハーストをモデルに、彼を「富と名声と愛を求めるあまり全てを失った孤独な人間だ」と扱き下ろす「市民ケーン」を執筆します。
もちろんハーストとは対立、また大きな時代の流れに抗えない家族や仲間達からも非難を受けます。しかしマンクはある出来事から得た信念を曲げることなくこの脚本を完成させます。
この映画の監督、デビッド・フィンチャーは最新技術を惜しげもなく使った映画を撮ります。まず難しいカメラワークを納得いくまでリテイクして撮影、その後のデジタルでのCG処理や色調整は彼の武器です。
しかし今作は白黒で「市民ケーン」の時代の撮影技術を再現したそうです。100年後の自分の技術を封じて。
またテーマも実は過去に似たことをしています。
フィンチャーが監督を勤めたソーシャルネットワークは現代の大富豪で大きな影響力を持つマーク・ザッカーバーグがフェイスブックを立ち上げ、富と名声を築くも仲間や恋人を失って孤独になる物語。
存命の大富豪が、富と名声を築く中で孤独になっていく。まさに「市民ケーン」の構図です。
つまり「富や権力に恐れることなく作品を作る」というアメリカ映画の精神は過去にフィンチャー自身が体現したテーマです。
自分の得意な表現ではなく、またテーマも過去にすでに表現したものだ。ならなぜマンクなのか?
映画のクレジットに目を向けてみましょう。マンクの脚本家に注目してください。ジャック・フィンチャー。デヴィッド・フィンチャーの父親です。マンクの脚本は2003年に亡くなった父親の遺作です。
デヴィッド・フィンチャーは自身の魅力が最新技術にあることや、過去のテーマの焼き増しになることもわかっています。彼は元々CMを手がけていた広告マンなので強み弱みは絶対に外しません。
それでもマンクを、父の遺作をやりたい。心から彼はそう思ったのです。
主人公のマンクがなぜ大富豪に抗ったのか?共産主義や映画の政治利用への抵抗、貧富の差への抗議?全部違います。劇中で描かれるたった一晩の出来事のためです。
映画マンクが伝えるアメリカ映画の精神とは富や権力に抗うことでも、中立の立場を保つことでもなく、自身が抱いた強い感情に従うことです。
フィンチャー自身もそれに習い自身の魅力を最大限に発揮出来なくとも心から求めたもの、父の脚本に寄り添うことを選択しました。それこそがマンクに学ぶべきアメリカ映画の精神です。
またフィンチャーがマンクに習わなかったこともあります。
劇中でも描かれていますが、本来味方である「市民ケーン」の監督オーソンウェルズともマンクはもめます。色々あって「市民ケーン」はマンクとウェルズの共同出筆という形になります。ウェルズは全く書いていないのに。実際に歴史的名作「市民ケーン」のWikipediaの脚本家の欄には2人の名前が。つまりこの映画において連名は監督と脚本家の対立の象徴です。
一方「マンク」の脚本はデヴィッド・フィンチャーが父親に提案する形で書き始め、意見を出し合って完成させたそうです。また父親の死後、他の脚本家の手も借りて修正を加えた箇所も。しかしこの作品の脚本家のクレジットは父親であるジャック・フィンチャーの名前だけ。私はこの粋な親孝行に痺れました。
長くなりましたがこの「マンク」という白黒映像で当時の技術を再現というデヴィッド・フィンチャーの魅力を封じたような映画は、実はアメリカ映画の精神を、デヴィッド・フィンチャーの精神を最大限発露した映画なのだと私は感じました。