「異種族間の愛の物語」オクトパスの神秘 海の賢者は語る なにわさんの映画レビュー(感想・評価)
異種族間の愛の物語
ドキュメンタリーというよりは、異種族間の愛の物語だと思った。タコとの交流に僅かながらエロスすら感じてしまう。
海藻の森は神秘的だし、そこに住まう生き物たちは生命力に満ちている。生き物って(良い意味で)きもちわるいよなぁ、とあらためて思ったりする。作中で言及されていたように、並のSF映画よりずっと刺激的な世界である。
しかし、本作は男の主観によって語られる物語という趣が強く、ひいてはそれを基に映像を解釈する我々観客の主観によって成り立っているものである。海藻や魚やタコがインタビューに応じてくれている訳ではない。こんなこと考えてしまうのは、何というか我ながら無粋だし、ロマンがない。けどやっぱり、自分の中では、人間と自然界の間には絶対的な境界線がある。それを越えて生まれた物語は、フィクション性が高く、作り物っぽく感じてしまう。自然界が人間のことを分かってくれるなんて、そんな都合が良いことあるのだろうか、という邪念が最後まで消えなかった。自分にとっての自然との共生には、相互理解や信頼関係みたいなものは含まれないのかもしれない。ちょっと乱暴な言い方だけど、利用し合うという方が近いのかもなぁ。
それと、そもそもドキュメンタリーって何だ?という疑問が生じた。人間がタコに感情移入してしまうというのは面白いし、タコが心を開いた(ように見えた)のも興味深いけど、やっぱり主観と編集が入りすぎな気もする。でも男にとっては起きた事実の記録なんだろう。
追記 2023/11/12
ドキュメンタリーをドキュメンタリーたらしめているものについて考えてみる。それは客観性ではないか。人や物事を、一歩引いて見る視点がドキュメンタリーに必要なのだと思う。本作で言えば、インタビューのシーンはあったものの、カメラの視点や語りは男性自身であった。それだと、撮影する人間と、取材対象の男性が重なってしまっている。そこには客観性はなく、主観的な「記録」が出来上がっていく。
フィクションの良さは、表現性の高さ、自由度だと思う。そういう意味で、ドキュメンタリーは制限された手法なのかもしれない。しかし、その制限の中で、客観性を保ちながら確かな事実を記録し、積み重ねていくことで、現実に対する切実な映像的強さを生み出すのだと思う。