「「林檎」も「ポラロイド」も記憶の保持だ」林檎とポラロイド つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
「林檎」も「ポラロイド」も記憶の保持だ
記憶をなくしてしまうことと記憶をなくしてしまいたいと願うことは当然ながら全く違う。
愛する人を失い喪失感を拭うための方法として忘れようとする、もしくは、忘れてしまった状態を体験することは何のためにもならないだろう。
なぜなら忘れることなどできないのだから。
必死に過去と今の自分を失おうと足掻く主人公は実に滑稽に映る。
大好きな林檎を、記憶保持に効果があると言われ買うのをやめるシーンなどは実に面白い。
それと対を成すように、エンディングでは、主人公が林檎を食べるシーンで終わる。忘れることをやめたのだと明白に分かるし、彼は失っただけでも、一歩前進したのだとポジティブな感動もある。
メインテーマの忘れたいほどの喪失感とは別に、プログラムについてちょっと思うところがある。
主人公が受けていたプログラムの指令は、なかなかに面倒だったり、嫌なことだったりする。
プログラムの真の目的とは、主人公のように記憶を失ったフリをしているものをあぶり出すために行っているのではないかと想像する。
音を上げて記憶喪失のフリをやめさせようとしていると。
「指令通りスズキを釣っているな」というセリフが出るが、本当に記憶を失っているならばスズキを認識できないはずだ。
例えば自転車を知っていたりするので、どこまで覚えていられるのか判断できないことや、スズキはどの魚か誰かに聞いた可能性もあるので、主人公がスズキを釣れるわけないとは言えないけれど、指示する側のこのセリフの不穏さや、指令の難題さ、不可解さは、先に書いたように「あぶり出し」の可能性のほうがしっくりくる。
もっと深読みするならば、記憶を失ってしまう現象そのものが実は存在していないのではないかと思うのだ。
つまり、主人公のように記憶を失ってしまいたいと願う人が大量に発生して、それを実践しているだけなのだ。
過去をもったまま生きることの辛さに溢れた世界なのかもしれない。ギリシャだからね。その可能性はある。