劇場公開日 2021年6月4日

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「まさに命を懸けた「告発」映画。でも映画としてはド直球の人間ドラマ。これが正しい映画の作法だ。」トゥルーノース じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5まさに命を懸けた「告発」映画。でも映画としてはド直球の人間ドラマ。これが正しい映画の作法だ。

2021年6月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

まさに命懸けの映画だ。
命を張って、真正面から北朝鮮の収容所生活の不正義を告発している。
シンプルで、ゆるぎなく、まっすぐな作品。
なぜこの「当たり前」の告発が、個人制作の3Dアニメでしか成せなかったのか。
なぜ世に問うまでに10年の歳月がかかってしまったのか。

日本のリベラル諸氏は、国家・政府・自民党を叩くときは、身もだえせんばかりの怒りと憎しみと嘲弄ぶりを噴出させるが、なぜか、中国やロシア、北朝鮮、ミャンマーといった「日本のそれとはとても比べものにならないくらいの異常な弾圧・人権侵害・ジェノサイド」を耳にしても、どこか気のない対応しかしない、できない。
表面上は、怒り、抗議してみせる。けれど本音は内心どうでもよく思っている。それが透けて見える。
要するに、彼らは、自分自身の生きづらさを世界や社会の不備に求め、いらだち、むかつき、その元凶と目される権力への憎悪を募らせている。攻撃してすかっとできる何かを探している。内なる正義の基準に従っているわけではない。理性的であるように見えて、理性的ではない。
だから、自らに直接関係のない国の話には、たいして心が動かない。
相応に満ち足りた安全な国のなかで、いくら叩いても反撃してこない確信のある自国の政府や官邸だけを叩いてわめいて、留飲を下げている。

それはネットの保守層だって同じことだ。
彼らはしきりに韓国を叩き、在日コリアンを叩くが、本当の敵は曲がりなりにも民主主義陣営の側にいる韓国でもなければ、ほぼ日本人と変わりない生活を送り、実質は苦楽をともにしている人が大半を占める在日コリアンでもない。敵性国家と日本を位置づけ、スパイを放ち、国家機関を用いてサーバー攻撃を仕掛け、あらゆることで平気で噓をつき、露骨な国境紛争をしかけてくる、数百倍ろくでもない国家が周辺にはいくつもあって、本当に怒るとしたら、まずはそこなのだ。
でも彼らを怒らせるのは、「まだ理解できる範囲に存在する違和」としての韓国であり、在日である。
結局は、彼らもまた「自らが周囲に感じている得体のしれない違和感や恐怖」を、韓国人や在日に仮託しているに過ぎない。安全域で、自らが抱える闇の憂さ晴らしを続けているだけだ。

たとえば、香港で起きている言論弾圧や、ウイグルの強制収容所での「断種」政策、ロシアで起きている政敵の監禁と野党の非合法化、ミャンマーでの非暴力デモに対する無差別銃撃……などなど、世界で起きている「無法」のえげつなさはとても日本の比ではないし、ほとんどめちゃくちゃである。でも、日本人にとってはめちゃくちゃすぎて、なんだか現実感がない。「なんかひどいね」「ほんまかいな」「でもまあよその国の話だしね」「それより五輪がさあ、コロナ対応がさあ」……。
とまあ、しょせんは、他人事だ。
結局は、人間の想像力というのは「身の回りの価値観」で理解できるリミットを超えた、圧倒的な異常さと狂気と暴虐に対しては、とうてい追いつかないものなのだ。

それに、こういった「悪」を告発することは、まさに命懸けの行為だ。
ロシアで毒殺されかけたあげく拘束されているナワリヌイ、香港で国安法でしょっぴかれて有罪をくらった蘋果日報のジミー・ライ。ミャンマーでも次々とジャーナリストが「合法的に」逮捕され、拷問にかけられている。
多くの国の為政者は、日本とちがって、本当に当たり前のように敵対者をつぶす。暗殺する。処刑する。「政敵は現状の国家体制を根底から揺るがす。だから、排除する。なにか、問題あるんですか?」
こういうスタンスでプーチンや習近平にしれっと居直られると、意外に返す言葉が見つからない。打つ手がない。それは、僕たちだけでなく、欧米諸国の首脳陣ですら、そうだ。

そんな「悪い国」のなかでも、北朝鮮は最悪だ。
ついこのあいだも、金正恩がほめた影絵ショーについて、「自分はあまりいいとは思わなかった」と知人に述べたことを密告された合唱指揮者が、公開処刑で銃弾90発を浴びせられた挙句、その死体の周辺を合唱団員が行進させられたという報道があった。脱北者のYouTubeがソースだから、どこまで本当かはわからないが、偉大なる総統様による粛清話はそれこそ枚挙にいとまがない。
ショーの感想ひとつすら、思ったとおり口にできない。
言ったら、消される。
そんな国を相手に、告発の声をあげるということが、いかに勇気のいることか。

監督の清水ハン栄治は、それをやってのけた。
在日コリアン4世として、きわめてまっとうな問題意識と、きわめてストレートな手法をもって、北朝鮮収容所の残酷な現実をわれわれに、世界に、突きつけてみせた。

描かれるのは金正日の時代の話だが、この地獄のような状況は、今もまったく変わりなく続いている。(むしろ映画内の衛星写真で示唆されるとおり、強制収容所は金正恩時代に入って「規模が倍以上に拡大されている」!)
要するに、これは歴史ではない。
アウシュビッツやアメリカ奴隷制と異なる、「今ここにある圧倒的現実」なのだ。
その惨状を、まさに危険を顧みず、世界に問いかけるのは、右も左も関係ない、日本も在日コリアンも関係ない、喫緊のテーマだ。やって当たり前のこと――でも誰も怖くてできない。観ないようにしている。考えないようにしている。どうせ、よその国の話だから。理解が追い付かないから。
それを、この監督はひとりで背負って、やってのけた。
僕は、本当に凄いことだと思う。

この映画を実際に観たうえで、とくに注目してほしいのは、以下の2つのポイントだ。

その1。本作は「告発」の映画ではあるが、「プロパガンダ」の映画ではない。
映画内では一切の思想も、理想も、政治信条も語られない。
ここに存在するのはあくまで、ひとつの家族の物語だ。
すべては、物語に仮託して語られる。そこがとにかく潔い。素晴らしい。
映画の冒頭、TEDのプレゼンターがいう、「政治の話はしません。これは私の家族の物語です」とのセリフ。これがまさに本作の本質を表している。
本当に優れた告発映画というものは、映画内で作り手の意見を開陳したりしない。ひたすら登場人物の人生に語らせる。観客にそこから感じてもらう。言いたいことをぐっとこらえて、このストイックな作劇に徹することのできた作品だけが、思想や政治信条を超えて、人の心を打つことができるのだ。

その2。本作は「収容所の映画」であるだけではない。「帰国事業で日本から戻った人々の映画」でもある。
1959年以降、四半世紀にわたって行われた北朝鮮帰国事業によって、「地上の楽園」と宣伝されたこの国に在日コリアン、日本人妻など約10万人が渡った。本作の主人公一家は、まさにそうやって海を渡った「元在日コリアン」だ。
すなわち、ここで収容されている人の多くは、見ず知らずの朝鮮人ではない。
昨日まで、僕たちの隣の家で暮らしていたかもしれない人々なのだ。
そのなかにはもちろん、日本人家族も登場するし、「赤とんぼ」のシーンに見られるように、拉致被害者と語らうシーンも出てくる。
監督はインタビューでこう答えている。
「北朝鮮について、日本では拉致問題ばかりを取り上げ、帰還事業のことはほとんど話に出てこない。自らの意志で移住を決めたのだから、自己責任だろうと。これはさすがにちょっと冷たいなと思うんです。たとえそうであるにせよ、地獄を見ている人がいるんだったら、人情というものがあるんじゃないか」
彼は、物語にこうして明確な「日本と北朝鮮」のブリッジを組み込むことで、この凄惨な虐待と蹂躙の地獄を描く物語が、決して日本人にとっても「他人事ではない」と語りかけている。

映画自体の脚本は、とてもいい出来だと思う。
もちろん、監督第一作ということもあって、気になるところもある。
多くの脱北者の怨念に満ちた物語をひとつの一家の物語にまとめあげているため、どうしても「あれもこれも」感(ちょっとNHK朝ドラの総集編みたいな詰め込みよう)がつきまとうし、子供編がまあまあ退屈だとか、最後の兵士のセリフがベタすぎて最高にダサいとか、エモさを狙ったラストの観衆の拍手がただただキモいとか、大衆性を気に掛けたあまり陳腐に堕しているシーンもある。
けれど、総じて誠実に描けているし、単なる陰陰滅滅たる収容所悲話に終わらせず、アクション要素込みの「脱獄もの」のエンターテインメントとして仕上げた点も慧眼だったと思う。ラストに仕掛けられたちょっとした叙述トリックには本当に感心した。

3Dアニメという手法に関しては、諸手をあげて「これしかない表現技法だ!」と絶賛する気にはとてもならない。
普通に、ビッグバジェットの実写映画としてこの話は観たかったなあ、というのが嘘偽らざる感想だからだ。
やはり、よくできているとはいっても、自主制作映画めいたリソースとスペックの限界は感じざるを得ない。キャラクターデザインや3Dの動画自体は予想以上にうまくいっているが、歩く姿や立ち上がる姿など、ちょっとした動きに技術不足が露呈して集中を削ぐ。絵柄以上に気になるのが、アマチュアの米国人声優たちで、仕方がないとはいっても、彼らの素人くさい演技はどう見ても映画のマイナス要素だ。できうることなら、本作がある程度ヒットしたならば、ぜひプロの声優さんで日本語版と韓国語版もつくってほしいと思う。
もちろんその先には、日韓合作での実写化が実現できれば最高に素晴らしいのだが、「それが端からできないから」3Dアニメなのだ、ということも忘れてはならない。

この作品のもつ「リスク」を監督が個人制作のアニメという形で引き受けたから、本作はなんとか完成にこぎつけ、上映に至ることができたわけで、これの実写企画を社として受けようという映画会社はなかなか存在しないのではないか。その意味では、「表現技法として3Dアニメで作って結果的に正解だった!」という「やや後付け」の賛辞よりも、そもそもこれが「3Dアニメでしかつくれなかった」現在の状況について、やはりしっかり考えるべきだろう。

最後に、監督がこの映画を英語で作ったことの意図は明確だ。
世界じゅうで、ひとりでも多くの人に、この映画をぜひ観てほしい。
北朝鮮は、アンタッチャブルな「考えても仕方のない国」ではない。
このままにしておいてはいけない、真の無法国家なのだ。
そのためには、何かを変えなければならない。
そのためにあげられた勇気ある声を、みんなで共有していくことで、何かが変わるかもしれない。
少なくとも、清水監督はそう思っているはずだ。

じゃい