「善人にしない」クルエラ 岡部 竜弥さんの映画レビュー(感想・評価)
善人にしない
キャラクター
「マレフィセント」の失敗には、マレフィセントという題材選びの失敗が大きく関係していると思う。
彼女自信が持つ魅力に、魔法使いとしての半ば神とも言える「悪魔」的立ち位置から出るヒステリックさや理不尽さというものがある。しかし過去の掘り下げや人格の「人間化」に伴って彼女が持つヴィランとしての魅力が奪われてしまったのだ。つまり「悪魔」の「人間化」の失敗こそ「マレフィセント」の失敗だと言えるだろう。
それに比べて今回の「クルエラ」という人選は大成功だと言える。彼女の持つ「ヴィラン性」とはどこまでも「人間」の延長線上にあるからだ。
彼女が持つヴィランとしての圧力は101匹わんちゃんが「犬目線」の物語であるというところから来ている部分が大きい。逆に犬の目線から離れて人間の視点から考えてみると、「クルエラ」といヴィランはかなりの小物だ。
犬の毛側が欲しくて知り合いから犬を貰おうとしたが、断られたので誘拐する。
こう見て見るとやってることの重大さやその理由もリトルマーメイドやアリス、ライオンキングと比べるとかなりしょぼい。(物語としての語り口が犬目線だから仕方がないが)
犬目線の「悪魔」である彼女を再度人間目線の「人間」として再定義する。言い換えるなら人間目線から見たクルエラという「人間」の「人間性」を掘り下げるという作劇的にも受け入れやすいものになっているという点でとても上手い。
ストーリー
前半はパワハラ上司バロネスの元で「プラダを着た悪魔」よろしくデザイナーとして働き、中盤から後半にかけて自分の出自や過去に関する問題によってバロネスと決定的に決別してからは、彼女が持つ武器、つまり「デザイナーとしての才能」をもって戦い、最終的には彼女(後世のヴィラン)なりの結論を出していく。
一番の見所はクルエラの「デザイナーとしての才能」を使った「ファッションテロ」シークエンス
「クルエラ」という話において、彼女はファッション的に無敵だ。その点ではマレフィセントにおける「魔法」と同じとも言える。
そんな彼女によって行使されるテロは本当に痛快で楽しい。絶対的な実力を持つ者がその全力を持って相手を叩き潰す爽快感。ともすれば物語の主人公として嫌悪感を抱きかねないシーンだが、彼女が「ヴィラン」であるという共通認識があるためむしろ「待ってました!!」と言いたくなるような感覚になった。
僕個人として一番好きなシーンは、彼女が噴水の前でクルエラとして覚醒するシーン。物語序盤で母親と立てた予定が最悪な形で叶っており、ヴィランとしての「恵まれなさ」が強調されていた。
役者
クルエラ役のエマストーンがばっちりハマっていた。エステラの時にはそれこそディズニーアニメーションのプリンセスのように表情を誇張して演じていたのに対し、クルエラになってからは、表情の変化は少ないながら人を踏みつぶしそうな雰囲気を醸し出していた。
エマ・ストーンの起用も勿論よかったが、バロネス役のエマ・トンプソンの起用も大正解だと思った。車検で見たときの「あ、こいつにはクルエラ負けねえな」感。普通の成り上がりものなら思ってはいけないことだが、こと今回の映画に限ってはクルエラの天才さを表現するうえでベストな配役だと僕は感じた。言い方が悪くなるがクルエラがファッションにおいて「無敵」であるためのかませ犬として最適だった。
その他脇を固める入友人たち、特にポール・ウォルター・ハウザーのコメディ巧者としての立ち回りもよかった。
衣装
この映画を語るにあたってここは外せない。
舞台でもある70年代ロンドンの音楽的変遷と合わせた衣装のデザインは最高で、初めて「静止画ではなく映像で見るべき衣装」がだと感じた。特にエステラの乗っている車の上で来ていたあの衣装。生涯ベスト級にかっこよかった。
バロネスの衣装もよかった。配役の時と同じように「あ、こいつにはクルエラ負けねえな」感のあるファッションは、やはり劇中での絶対的な悪役に踏みつぶされる噛ませ犬という彼女の物語的な立ち位置をありありとわからせながらも、バロネス自身の傲慢さや手段を選ばないような人間性を表現す出来ていた。
ちょっとだけ愚痴
せっかくファッションによってバロネスを追い詰めていたのだから、最後の突き落とさせるシーンもファッションを使ったにかを組み込んでほしかった。例えばクルエラの切る衣装のあまりにも素晴らしいデザインに慄き、無意識のうちに押してしまうとか。
最後に
絶対に今映画館で見るべき映画!! 超おすすめ!!