「ギヨームの世界観がどんどん深まっていく」パリの調香師 しあわせの香りを探して 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ギヨームの世界観がどんどん深まっていく
洋画の邦題は大抵センスが悪い。本作品の邦題はまさにその典型である。原題の「Les Parfums」(「香水」)に対して「パリの調香師 しあわせの香りを探して」は、いくらなんでもやり過ぎだ。そのまま「香水」でよかったではないか。本作品の登場人物は「しあわせの香り」など探していない。
嗅覚は健康を守るためになくてはならないものである。猫や犬を見ていると、初めて与える餌は必ず臭いを嗅ぐ。猫の場合はその前に前足で恐る恐る触る。餌かどうかよりも危険がないかをまず確かめるのだ。自分に危害が及ばないことをまず確かめて、それからその餌が食べられるものかどうかを臭いを嗅いで確かめる。人間は猫犬よりもはるかに嗅覚が劣るとはいえ、嫌な臭いのする物を食べたくないと感じるところは同じである。嗅覚は身を守るための原始的な感覚のひとつだと考えていいと思う。
多くの人は自分に自信がないのか、自分の感覚よりも他人からの情報を優先する人が多い。食べ物で言えば、まだ食べられるかどうかを自分で臭いを嗅いだり味見したりする前に、容器の消費期限や賞味期限を見る。食品の期限などは厚生省の役人がテキトーに決めた便宜的なものでしかないことを知らないのだろうか。信じるべきは自分の嗅覚であり、自分の味覚であり、自分の勘だ。自分が大丈夫だと思ったらその食品は食べられるのだ。期限などクソくらえなのである。
香水と言えば、銀座でランチを食べているときに、急に物凄い濃い匂いがして思わず振り返ったことがある。イケメン風の男性が数人、入店したところだった。匂いというよりも臭いという漢字が相応しく、クサイと言ってもいいかもしれない臭いだった。これでは食事ができない。仲良くしていた店員に「あれ何?」と聞くと、困った顔で「最近できたアパレルの店の方です」と教えてくれた。昨年末に瑛人という人が歌った歌に出てくる店だ。なるほど、こんなにドギツい臭いの香水もあるのだなと思った。
臭いと言えば、銀座のママたちにどんな匂いの男が好きかというアンケートを取った記事を見たことがある。結果は、銀座のママたちが一番好きなのは無臭の男だった。無臭の男とは、つまり若い男だ。新陳代謝が盛んで免疫力の強い若い男は雑菌を殺菌してしまうから、雑菌が増殖して発する臭いがしない。香水で誤魔化す男よりも健康な無臭の男を好む女性は銀座のママたちだけではないと思う。
なんだか香水について否定的な話になってしまったが、日本では香水は人口に膾炙していないということだ。日本の飲食店に香水をつけている店員はいないし、寿司屋では香水をつけた客は予約客であっても断られることがある。しかし日本人も肉食が多くなってきたから、今後は香水文化が広がるのかもしれない。
さて本作品は香水文化全盛のフランスが舞台である。調香師という職業が尊敬されるほど匂いに敏感、いや匂いにうるさいお国柄なのだ。主役は我儘で独善的な天才調香師のアンヌだが、本当の主役は運転手のギヨームである。ストーリーはこの二人の掛け合いで進んでいき、アンヌはギヨームに心を開いていくが、それは映画サイトに載っている話で、実際はギヨームの才能に気づいたアンヌがその才能をテコにして自分も再び輝きたいという熱意を燃やす話だ。そしてギヨームはそのおかげで人生を取り戻していく。
アンヌを演じたエマニュエル・ドゥボスは脇役でよく見かける女優で、演技は抜群に上手い。そしてそれ以上に上手だったのがギヨームを演じたグレゴリー・モンテルである。我儘なアンヌに腹を立てるが、やがてアンヌに悪意のないことと、単なる独善的なおばさんで、たまたま才能があったから高飛車になってしまったことに気づいて、それから後はやんちゃな子供の相手をするように、ときには呆れながら、ときには指導者のように、ときには励ますようにして接していく。その微妙な変化を見事に演じ分けていくところがいい。特に、この世界は匂いだけではない、五感をすべて使うべきなのだとアンナを諭す場面がとてもよかった。
人は才能のある人に接すると成長するものなのかもしれない。料理を作るためにはとびきり美味しい料理を数多く食べる必要があるし、絵の才能を伸ばすためにはいい絵をたくさん見なければならないし、いい小説を書くためには本を山のように読まなければならない。
人生をよりよく生きるためには優れた人と話をするのがいい。一芸に秀でた人の話には、必ず人生の真実がある。その人の人格はどうあれ、ひとつのことを深く追及するには、それなりの深い世界観が必要なのだ。人間を知らずに香水は作れないのである。アンヌと接することでギヨームの世界観がどんどん深まっていくのが手にとるようにわかる。そこが観ていて気持ちがよかった。