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1 本作の背景と主人公夫婦の性格
映画の紹介文を読むと、「戦火のスーダンからイギリスへ逃れた難民夫婦が、新居に潜む謎の存在によって追い詰められていく姿を描いたNetflixオリジナルのスリラー映画」と書いてある。
これは間違いである。何故か? 主人公夫婦の妻が語る過去を聞いてみよう。
「この腕の傷は家族が虐殺された時、自分でナイフでつけた。祖国には2つの民族がいて、互いに殺し合っている。皆、身体に自分の民族の印をつける。私は両方つけて、民族を偽って生き延びた」
アフリカ各国の民族構成は次のようになっている。
〇スーダン アラブ人、ヌビア人、ヌバ人、フール人、ベジャ人等200以上の部族が混在。
〇南スーダン ディンカ人が最も多く、約100万人。 ほかにもヌエル人やシルック人などのナイル系の民族がいる。 西部はアザンデ人とジュチャル人、南部からウガンダにアチョリ人やロツフ人がいる。
〇ルワンダ 国民の84%がフツ、15%がツチ、1%がトゥワである。
妻の述懐に当てはまるのはスーダン、南スーダンではなくルワンダだ。特に1990~1994年の50万人とも100万人とも言われる死者を出した内戦体験に他ならない。
しかし、内戦の終わったルワンダは今、むしろ難民の受入国となっており、現代のイギリスへの難民という設定と合致しないので、アフリカで現在、最も難民の多いスーダン、南スーダンに変更したに違いない。
本作のアフリカのシーンで何語が話されているか見当もつかないが、映画の中で特定国が指定されている訳ではないし、何処の国の難民かが主要テーマに直結するわけではないから差し支えないと言えば言える。主人公たちはアフリカの抱える難しい事情を体現していると考えるべきなのだろう。
2 アぺスとは何か
難民センターに収容されていた夫婦は早々とセンターから解放され、「大当たりを引いて」広めの家を提供される。二人はその夜、久しぶりに水入らずの食事を摂るのだが、そこで妻が語るアぺスの説話が印象的である。
アペスとは「夜の魔術師」で、悪事を働いた人間に取り憑き死ぬまで恐怖を与え続ける。自分はアぺスの声を聞いた。それは海から立ち上がって、ずっとついてきたのだ。この国は私たちの場所ではない。帰国すれば、死んだ娘の下に帰れる。
苦労して母国から逃げ出し難民船で何人も溺死する中を生き抜いて、せっかく新天地の生活を始めたばかりなのに、そんなことを妻が言いだす理由が夫にはわからない。彼はここで新しく家族を作るんだと言って妻を励ますが、その夫自身が手ひどいアぺスの襲来を受ける。
恐ろしい幻覚、幻聴に襲われた夫は、壁から現れる死者たちを追い出すべく、部屋全体の壁紙を引きはがし、挙句に壁をハンマーで突き崩してボロボロにしてしまう。
そればかりか異常な言動を繰り返して、最後には難民事務所に転居を願い出るのだが、明確な理由がない申請だから通るはずがない。というより部屋をボロボロにしてしまった夫婦は、母国に強制送還される羽目になると想像がつく。
3 アぺスの象徴するもの
ボロボロの部屋で心身ともボロボロになった夫婦の記憶の映像が流れる。すると、それまで何度も登場していた愛娘とは、実は逃避行の途中で避難バスに乗り込む口実をつくるため、他の母親から奪った少女だったことが判明するのだ。その少女も荒れた海を航行する難民船から海に投げ出され、溺死してしまったのである。
ということは、それまで夫婦がことあるごとに溺死した愛娘だと語り、懐かしむふりをしていた少女は、実は二人の罪業の証明だったということになる。悪事を働いた人間、つまり夫婦にはその時、アぺスが取り憑き、今後も死ぬまで恐怖を与え続けるであろう。
英国の人間関係の冷たさの中で、妻は早々にそれを悟ったからこそ、帰国して娘の下に行こうと言い出したのだ。娘の下とは死者の国であり、送還されて殺されてもいいと言っている。それは罪を背負った人間の悔恨であり、懺悔の意志である。
最後に夫婦がアぺスを撃退することができたのは、自分たちの罪業をアぺスに非難されつつ死んでいくより、自ら一生をかけて償っていこうと決めたからだ。
ヨーロッパにたどり着いて、現地で生活しているアフリカ難民は、表面では笑いながら、こうした悲劇を隠しもっている。その内面の悲劇を描くことこそ、本作のテーマに他ならない。
ホラー映画? スリラー映画? 難民への英国民の冷淡な態度を批判した映画? 一見そう見える本作だが、実はとてもシリアスで、複雑なニュアンスに満ちたヒューマンな傑作だと思う。