「よくできたライトノベルの充実感(誉め言葉)。伊藤万理華の魅力が炸裂するラストに武者震い。」サマーフィルムにのって じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
よくできたライトノベルの充実感(誉め言葉)。伊藤万理華の魅力が炸裂するラストに武者震い。
ようやくチネチッタの大スクリーンで観てきました。
7月くらいに予告編で観て、間違いなくこいつは俺向きだ、楽しそうだと期待しつつ、ついつい見逃しかけてたんだけど……、やっぱりサマーフィルムだもんね。夏が終わる前に観とかないと!(って東京はもう十分寒いがw)
とにかく若い子たちが、わきゃわきゃと楽しそうに映画を作ってる。
それだけで、もう幸せな気分になる。
いいよなあ、青春。
俺にもあったぜ青春。男子校だったからラブコメ成分はゼロだったけどな。
文化祭はクラスで演劇やったけど、俺ヒロインだったぜ(´;ω;`)ウゥゥ 30年前だけど。
いろいろな視点から、いい点もまずい点も語り尽くされてるでしょうし、思ったことだけつらつらと。
●ラノベ感
高校生しか登場しない、猛烈に閉じた世界観。
(有名俳優が出ていないって以上に、そもそも大人が誰も出てこない。
といいつつ、実はダディボーイ役の板橋駿谷くんって当時35歳だったらしい、びっくりw)
学校と映画撮影地と秘密基地以外にはどこにも出没しない、生活感ゼロの登場人物たち。
しかもそのうち3人は、綽名でしかでてこない(パンフによると「ハダシ」は本名とのこと)。
このノリは、間違いなくアニメ、というよりその原作となるライトノベルのそれだ。
『涼宮ハルヒ』でも、キョンはキョンだし、妹以外の家族はなかなか出てこなかった。
ヒロインが映画撮影を仕切るのも、未来人が仲間に加わるのも、タイムリープが関わるのも、映画内で紐づけてる『時かけ』より、どっちかというと『時かけ』のオマージュやってる『ハルヒ』に近い。
というか、監督や脚本がラノベを幼少時から浴びるほど読んでて、その文法や面白さやノリや共犯性みたいなものを血肉としてる世代なんだよね(監督が88年生まれ、脚本が87年生まれ)。
だから、若者向けの青春ドラマを作ろうとなったときに、自然とラノベみたいな語り口と世界観の物語が紡げる、そういうことだろう。
そういや、この夏に観た『映画大好きポンポさん』では、アニメーションに実写映画の文法とナラティヴが導入されていた。こちらは、実写映画にラノベ/アニメ的な文法とナラティヴが導入されているというわけだ。
●登場人物全員善人
『サマーフィルムにのって』はストレスのない物語だ。
なぜなら、誰も悪いやつが出てこないから。
いざというときに負の感情で動くやつがいないから。
悪意がないから、秘密は比較的さらっとばらしちゃうし、恋心は比較的さらっと明かしちゃうし、みんな頼まれたら比較的さらっとなんでも引き受ける。
ライバル監督どうしで相手の危機にお互い手を貸すし、
ラストでヒロインがバカやっても観衆はこぞってそれを受け入れる。
ビート板はハダシの恋を応援し、自分の恋心には蓋をする。
要するに、通常の映画では必ずドラマを動かすために用いられる「隠し事」「悪意」「噓」「勘違い」「反発」「迷惑キャラの理不尽」といった「負の行動」が、本作ではほとんど出てこない。
あるのは、ハダシの映画に対するこだわりと、凛太郎がいつか未来に帰るという外的な問題要因だけ。
それでも、これだけお話がちゃんと動かせる。
実に立派なことだ。
長いコロナ禍のなかで心を疲弊させている多くの人たちにとって、この「善意」だけでできた優しい物語は、ほっと一息つけるような安らぎを与えてくれるはずだ。
●共感性の映画と作家性の映画
本作の中で撮られている二本の映画は、それなりの対称性をもって呈示される。
花鈴の撮っているキラキラ青春映画は、現代のSNSに象徴されるような、横のつながりと双方向性、同世代間の共時性に立脚する「共感性」の産物だ。「共犯性」の映画、といってもいい。
舞台はもちろん「今、ここ」。映画内には高校生としての現実と夢がそのまま持ち込まれ、「仲間内の許しと称賛」も映画の一部として機能する。映画というツール自体が「つながってゆく」ための方便でもあるからだ。放たれた想いは端的に、ストレートに伝わり、冒頭の屋上シーンでも、「好きだ」の言葉は二人の物理的距離を乗り越えてまっすぐ相手に届く。幽霊が海辺で語る最後のキメ台詞は真正面から衒いなく捉えられる。
一方、ハダシの撮っている『武士の青春』は、過去の名作オマージュを主眼とするオタク的創造物で、ハダシ個人の趣味と創作意欲の充足が目的の「作家性」の産物だ。スタッフはハダシの夢の実現のために集い、そこでは独裁性がスタッフの側から容認される。
彼らが撮るのは時代劇だ。過去の様式の検証と模倣、継承が図られ、そのうえでハダシの作家性として彼女の想いが意識的、あるいは無意識的に取り込まれる。ハダシの劣等感と焦りと内なる恋は、剣豪どうしのぶつかり合いへと形を変え、持って回った男と男のダイアログには、ハダシ自身の揺れる心がまとわりつく。凛太郎が語る最後のキメ台詞は、斜めからの煽りで作為的に仕上げられる。
花鈴たちの「SNS」的なノリの映画が、やがて「物語の廃棄」と「短編化」をまねき、映画のない未来へとつながってゆくのに対して、ハダシたちの「過去を継承する」姿勢は、未来へと「映画文化」を曲りなりにも送りとどけるよすがともなるだろう。
とはいえ、本作のラストでハダシがとった大胆な行動は、過去と結びついて今と切り離されていた自らの映画を、ただいっとき、花鈴の映画のような「今、ここ」の共時性/共犯性のフェイズに切り換え、まっすぐに想いを伝える手段として用いたともいえるわけで、その意味で作り手たちは「花鈴の映画」のような在り方を必ずしも否定しているわけではない。
●作劇上気になる点
基本は大変面白かったんだけど、複雑にネタを重ねて作ってあるぶん、どうしてもうまくいかない部分が出てくるのは仕方がない。
一番気になるのは、ハダシが、自分が未来世界で「巨匠」として扱われていることを凛太郎から知らされたにもかかわらず、ほとんどノーリアクションだった点だ。
いくらそのとき恋に悩んでたとはいっても、長年の夢である映画監督に自分が実際になれて、しかも成功を収める未来を知る喜びとプレッシャーは、ただごとじゃないくらい重たいものだと思うんだが。
あと、別に未来人関連の扱いが軽かろうが適当だろうがまったく気にならないのだが(本筋ではないから)、「未来には映画がない」という事実に関しては、もう少しちゃんと掘り下げるべきだし、今のような「1分で長篇とか、そんなことあるわけねーだろ」って状態のまま放置してはいけなかったのではないか。少なくとも、俺は「短編動画が世界を席捲すること」から「長尺の物語映画が駆逐されること」の間には、想像以上に大きな懸隔があると思うので。
未来に映画がなくなるということは、ハダシにとって重たくのしかかる深刻な問題であり、ラストにもつながってくるきわめてシリアスな要素だ。だから、この「ネタ」みたいな軽い扱いのうえにハダシの重たい苦悩がのっかると、足場がぐらついて、ラストの真実味までが喪われてしまうのだ。
それと、これは別に苦情じゃないけど、「ハダシ」「ブルーハワイ」「ビート板」と最高に夏っぽいキーワードを揃えて「サマーフィルム」を標榜しつつ、あんまり夏感ないよね、この映画(笑)。
と思って、パンフ見たら、夏合宿と文化祭のシーン以外は3月に撮ってるのか。
でも、本当に「夏っぽく」したかったのなら、もっと汗だくの見た目で撮るだろうし、蝉の声とか太陽のショットとかもかぶせてくるだろう。そうしてないってことは、たぶんここでの「夏」は、もっと概念的なものなのかもしれない。ってか、そもそもあんまり聞かない言葉だけど「サマーフィルム」ってなんぞや??(禅問答) 作中でハインラインへの言及もあるし、『夏への扉』でも意識してるのかな?
●ラストはネタバレ回避でガツンと食らえ
ラストに至って、俺は初めて、なんで本作のヒロインが元乃木坂でなければならなかったのか、得心がいった。
あと、さんざん勝新、勝新っていいながら、あんまり作中では活かされてないなあと思って観ていたのだが、おみそれしました。
ああ、これをやらせたかったのか!!
これがやりたくて撮った映画だったのか!!!
ラストの転調と盛り上がりは、力技の部分もあって、しょうじき考えたら負けな気もする(笑)。
でも、不意打ちだったからこそ、あれだけぐっときたんだろうなと。
(未来人がどうの、映画を廃棄するのしないのってのが結構うまい目くらましになってる。未来に映画がなくなるって前提で、この映画を廃棄しないといけないっていうなら、じゃあ、ああするかなとか、こうするかなとかみんなオチを想像すると思うんだけど、なるほどこっちのほうに舵を切ったのか、その発想はなかったわ、みたいな)
だから、皆さんも本作を観るにあたっては、ぜひ予備知識ゼロで臨んでほしい。
そして、ラストのハダシをその目に焼き付けてほしい。
俺はこのラストだけでも、観に来た甲斐があったと思った。
ちなみに監督の一押しは「壁ドン」だそうです(笑)。
いやあ、伊藤万理華。
ほんと良い女優さんだわ。
長いコロナ禍のなかで心を疲弊させている多くの人たちにとって、この「善意」だけでできた優しい物語は、ほっと一息つけるような安らぎを与えてくれるはずだ。
そうだ。本当にそうでしたね。
ディスリやイジリ芸もそういえば最近あまりうけなくなってきました。こういう映画が求められる時代になってきたんでしょうね。
考察とても良かったです!