「うまくいっていない」アイの歌声を聴かせて 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
うまくいっていない
1周年記念で、映画館で観た。
うーん。
登場人物たちを応援したい気持ちはあれど、脚本が気持ちが乗るようになっていないので乗り切らない感じ。原作・脚本・監督が同一らしいので、しがらみも弱く伝導率は高いはず。
となると、この結果は脚本をどうすればいいのかわからないまま混乱して書いている段階であり、まだ自筆できる段階にはないと感じる。
企画としての「ミュージックビデオ風の青春アニメを作りたい」意図が前に出すぎている。
ヒット作『君の名は。』をMVと解釈してしまったのか、アナ雪の歌先行のヒットを意識したのか、ぬるぬる動くダンスシーンと上手な歌があれば評判は付いてくると思ったのか、「青春映画」の支点と作用点に対して、力点がズレてしまっていた。そこに思いっきり力をいれて押しまくった感じ。正直、随所においてジュブナイルを構成する各要素への造詣が浅いと感じた。
以下、気になった点。
①誰を応援すればいい?
AIやアンドロイドがあふれている(?)近未来。
海沿いの田舎街は、ホシマというIT企業の企業城下となり、実地運用地域となっていた。この街に住む人の親の多くは、ホシマ所属らしい。
そして、ホシマの開発部長か室長クラスであるサトミの母が作った人型アンドロイド「シオン」が、違法スレスレの実地運用試験をするために高校に送り込まれる。5日間、人間とバレなければ合格で、大きな実績を積むこととなる。
しかしシオンは、登校初日から「自己紹介で、サトミに対して歌を歌う」など、人間らしからぬ奇行を連発。
サトミと少数のクラスメイトを前に、あっけなくAIであることがバレる。
が、サトミは「母親が頑張ってきたから、この試験を成功させてあげたい」と、シオンがAIであることの隠匿をクラスメイトたちに頼み込む……
というあらすじなのだが、この時点で視聴者はけっこう感情が迷子。
優秀であるはずのサトミの母は、なぜこんな強硬手段に出たのか?
すでに誰の目から見ても欠陥品だが、サトミの母はそれを報告してほしくないのか?
そうして欠陥を隠蔽してまで通した「成果」で、優秀な技術者であるサトミの母は喜ぶのだろうか?
「ちくり魔」と避けられるほどに生真面目なサトミも、それでいいのか……?
第一、肝心のシオンは「自身がAIであるとバレないこと」を重視する気持ちが見えない……
(それにはいろいろ理由があることが後で判明するのだが、それもつながりが微妙)
物語は「妥当性ある理由で、必死に頑張っている人を応援したくなる」ものだが、妥当性に対する疑義への灰汁取りが不十分で、そもそも必死に頑張っているとも見えないので、心情的な同化が難しい。それは感情的な振れ幅の縮小と、それが引き起こす感動の打点の低さに繋がってしまう。絵はそのままでもセリフを少し変えるだけで、かなり違うと思う。
②人物の解像度
2021年に発表された作品なのだが、サトミが「だわ」「わよ」口調なのはターゲットから反感を買うだろう。設定は近未来だから限りなくリアル寄りにしてほしいのに、昭和や平成一桁の生まれが考える高校生、なのだ。内部で誰も突っ込めなかったのなら、制作体制にも問題がある。
ごっちゃんの「何でも80点止まりの自分」を悩みとするのも、平成の頃ならばよく使われた悩みだが、現代で共感を呼ぶのは難しい。SNSで下層の声が標準化した今、「何でも80点止まりな俺」は少年少女にとって嫌味だからだ。アヤの恋愛脳も、「そもそも魅力的な、誰もが好きになるごっちゃんを、粘り強くちゃんと好きだった」という解釈にしかならず、主要キャラの一人の格とするには薄い。ごっちゃんとアヤは現実にはいないこともないが、それをリアルとして持ってこられても多くの観客にとって「自分とは違うな……」という、歓迎されないクソリアリティ次元にとどまっている。
サンダーはわりといいキャラしてるのだが、シオンの疑似カップリング相手がサンダーというのはけっこうやめてくれな展開。サトミとトーマが番いだから、シオンの相手役がいないというのはそうだし、まあサンダーならシオンに恋するだろうなとは思うのだが……キャラの格的に苦笑いな落としどころにとどまってしまっている。勢いで疑似カップリングするところでは無かった。
そして、サトミとトーマが物語開始~最後まで何の捻りもなく相思相愛なのは判断ミス。boy meets girlをやったつもりなのだろうけど、実際は2組のboy has met girlがあって、こじれていた文脈を、わけがわかってない珍奇者シオンが乱入して歌いまくったらなんとなくそれぞれ勇気が出て元通りになった……的な話では、ドラマが薄いのだ。
また、サトミ母の研究を失敗に終わらせたがる支社長と主任が意味不明。「(サトミ母は)男社会なのに出世したから、敵が多くて」の一言説明で片付けられてしまうが、競合他社が不当な妨害工作をしかけてくるならともかく、同社の上と下の人間両方が(自身の評価向上にさえすんなり繋がらない)悪意からひたすら脚を引っ張ろうとしてくるのは、大人の描き方として粗い。どうしてもこの二人を悪役に書きたいのなら、「ポンコツで欠陥だらけのシオンを、改竄してパーフェクトと喧伝する人達」にして、サトミチームやサトミ母のシオンと真摯に向き合う怒りが爆発する……系だと思うが。
③どれがやりたかったのか
様々な青春系ヒットアニメ映画を分析すれば「ボーイミーツガール」「田舎」「夏」「ちょっとしたSF」「歌」「わからず屋の大人たち」がアルペンレースの旗のように浮き出てくる。アニメとして、美少女がぬるぬる踊るのが勝ち筋というのもある。ただ、『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか』も『バブル』もそうだが、それらの要素を均等に並べてみただけでは焦点がぼやけて相乗効果を生むことはない。本作は結局サトミとトーマをやりたかったのか、サトミとシオンをやりたかったのか、シオン中心をやりたかったのか、田舎ムービーをしたかったのか、AIムービーをしたかったのか、ミュージカル風をしたいのか、そして後半突然「無力な子供と強い大人たち」が強調されたり、幹が不在なまま枝葉が伸びてしまっている。
④ミュージカルではないのにミュージカルする
突然歌って踊り出すミュージカルは、心象や情景の投影だ。だから、ミュージカル作品に比喩的時空間としてミュージカルシーンが登場するのは何も問題はない。しかし本作は「すべて、現実で起きている話」として進む中で、独自進化を遂げてしまっているシオンはともかく、トーマもサトミも「そこでは歌わんやろ」というシーンで突然歌い出す。これではミュージカルでも物語でもなく、ただの商業企画の人格乗っ取りだ。あまりの強引さに、ちょっと恥ずかしくて身もだえしてしまうところがあった。アニメーターさんや声優さんは頑張っていたと思うが。
キャラ設定と脚本さえもっとよければなあ、という印象。
動画の力や歌の力を信じてもいいが、だからといって、脚本(構成・キャラの言と動・迫真性)の力を軽んじない方がいい。