聖なる犯罪者のレビュー・感想・評価
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聖職者とは…?
終始、暗いトーンの作品。
ハッピーエンドが好きな人にはおすすめできない。
この世に生まれてから、一度も間違いを犯したことはないと
胸を張って言える人が果たしているのだろうか。
過ちの大小は誰が決めるのか。
殺人が許されざる罪だと、いつ誰が決めたのだろうか。
こんなにも、人の心に響く言葉を連ねることができる人間を、
どうして、このような扱いにしなければならないのか。
社会では、やはり「許されざる行為」というものは、一般的に存在すると言えるが
それは、何を持ってしても、どの側面からみてもそうなのだろうか。
自分が感じている世界、自分の感情が全て、自分以外の全ての人にとって正しいとも間違っているとも限らないと考えさせられ、
人は多面的な生き物であるからこそ、あらゆる問題も、幸福も不幸も生まれるだろうか、
と考えさせられる作品だった。
片時も目を離すことができなかった
カトリックの神父は身分証が必要らしい。しかし本作品を観て思った。・・・2000年前のイエス・キリストは、身分証を持っていたのか。時代からして身分証はないにしても、何らかの権威の裏付けがあったのか。それとも権力の後ろ盾があったのか。当然ながらそんなものは何もなかった。むしろ権威のある者から迫害され、権力から弾圧されていた存在であった。
本作品には多くのテーマが盛り込まれているが、大別すると二つに分かれる。即ち、人はどこまで人を赦さないのか、あるいは赦すのかというテーマがひとつ。そしてもうひとつのテーマは、カトリック教会という権威は人を救うことができないのではないかということである。印象的なセリフがふたつある。「赦すとは愛することだ」と「権力はあなたにあるが、正しいのは私だ」である。
前者は聖書の言葉「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書第5章)そのままである。主人公トマシュ神父ことダニエルは、ユニークな説教で村人たちの心を掴みつつあった。そこで彼はさらに進んで、村人たちに彼らが憎んでいる男を赦し愛せるか、その覚悟を迫っていく。
その裏でダニエルは自分の正体を見破られはしないかという不安に怯えつつ、村人たちとの触れ合いの中で、次第に聖職者としての自信を持つようになる。同時に権威や権力を疑うようになる。教会や教皇庁の権威さえ例外ではない。少年院で聖書を教わり、村に来てからは一層熱が入って聖書を読むようになったダニエルは、真の信仰は権威や権力とは無縁であることに気づいたのだ。そこで出たのが後者の言葉である。
ダニエルにミサを託した神父は「自分は告解では救われなかった」と告白する。それを聞いたダニエルは、教会の中には権威だけがあって信仰も救いもないことを悟ったに違いない。託されたミサの説教の場面でダニエルは言う「神は教会の外にいる」。
一方で若い肉体は背徳の欲望を抑えきれない。村人に信仰を説くその陰では酒を飲みタバコを吸い薬をやる。ロックを聞きながら踊り女を抱く。ダニエルに限らず人間は矛盾に満ちていて、はかないものだ。それは信仰のはかなさに直接的に結びつく。本作品は信仰を表現しているのではない。人間を描いているのだ。イエスは人の弱さを嘆き、信仰の薄さを嘆いた。しかしもしイエスが現れたら、愛されるのは教会か、ダニエルか。答えは言うまでもないだろう。
ストーリーは一本道で必然的である。救われようとしていたダニエルの魂は権威と権力によって脆くも壊れてしまう。彼は何を赦し、何を赦さなかったのか。そして何が彼を赦すのか。ダニエルによってもう少しで救われようとしていた村人たちの魂も、やはり権威と権力によって押し潰されてしまった。しかしもしかしたらダニエルによって救われた魂もあったかもしれない。静かに進む作品だが、片時も目を離すことができなかった。
なりすまし
ポーランドで起きた実話に基づく。アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた。
内容は少年院で聖職者に憧れを持った主人公が出所後に向かった村で新任の神父と勘違いされたことから身分を偽り再出発を果たすが、ムショ仲間の出現で窮地に追い込まれていくというヒューマンミステリー。
カトリック信者の多い同国では、偽司祭の話は珍しくないという。聖職者とは何かを考えさせるとともに、人間の業を浮かび上がらせる作品であった。
罪を犯した者の存在の浄化、猜疑心の深さを示す作品です。
刺激的な感じで興味があって観賞しました。
コロナ禍で映画館もレイトショーは中止。なかなか厳しい状況ですが観賞した「ヒューマントラストシネマ有楽町」は結構な客入りです。
で感想はと言うと、まあまあw
R18+で刺激的なタイトル。ポスタービジュアルも何処かミステリアスで内容もゾクゾクする感じのバイオレンス&ミステリアスな感じで考えてましたが、思ったほどバイオレンスでは無かったかな。
主人公のダニエルは司祭になる事を夢見ているが前科持ちは聖職に就けない為、少年院仮釈放後は製材所で働くがどうにも司祭への夢が諦めきれない。
ふと立ち寄った教会で自身を司祭と偽った事から、代理司祭を頼まれ、村で過去に起こった事件を掘り返す事で様々な事が動き始める…と言うのが大まかな流れ。
簡単には言うと成り済ましですが、そこにいろんな事件と苦悩が描かれてます。
前科持ちであっても聖職を希望すると言うのは別に悪い事でもないし、あってもおかしくないがなんかその違和感と言うか、ギャップが面白い。
「二代目はクリスチャン」「親分はイエス様」と言う暴力と宗教の組み合わせの作品もありますし、織田信長時代の比叡山延暦寺の僧侶はかなりの悪行をやっていたと聞きますが、どちらにしても宗教に暴力の組み合わせはなにかが起こりそうな異質感がありますよね。
ダニエルは改心したと言うよりは本心は変わらずとも、神に支えたいと言う気持ちで聖職者を希望し、また偽って司祭を名乗るが気持ちの偽りは無い。
ただ、司祭として振舞う村が色々とある感じ。
でもドス黒いかと言えば、そこまででは無い。割と田舎にありがちの臭い物に蓋をしたがる事件なので普遍的と言えば普遍的な村。
良い点は必要以上に脚色をしていない所ではあるけど、作品として難点があるとすると割と普通と言えば普通な村で普通な人達。何処か排他的なのは多分村社会では結構普通w
ダニエルも犯罪を犯しているが、少しハミ出し気味と言うぐらい。
その辺りがエンタメ色が薄い感じがしなくも無いかな。
また、この作品のラストが少し難しい。
少年院の同僚でダニエルの過去を知る男の出現により、司祭の夢を諦めたダニエルが少年院に再収監され、決闘し、勝利した所でエンド。
人は神に支えても変わらないとも取れるし、罪は輪廻するとも取れるだけに割とバッドエンドな感じ。
また、勝利した後にダニエルが出た扉の先が外の様な感じなので、現実か想像なのかが曖昧でこの辺りが個人的には分かり難くて、作品の感想が難しいんですよね。
全てを明らかにしなければいけない訳ではないんですが、犯罪者が聖職につくと言う時点で割と現実感が薄くて、何処か霧が掛かった様に曖昧な雰囲気が無きにしも非ずなイメージなので、実は全てダニエルの思い描いた幻想でした。みたいであってもなんか納得する様にも感じられる。
いろんな解釈をしても良いにしても、ちょっとこの辺りで評価が分かれる感じですかね。
ダニエルの苦悩も感じ取れるが、ダニエルが少年院に収監される容疑と言うか、どんな罪を犯したのかが分かるともう少し共感出来たかなと思います。
個人的に面白かったのは「トップガン」の挿入歌の「愛は吐息のように (Take My Breath Away)」が劇中に流れた所。
別に流れてもおかしくないんですが、ポーランド・フランスの作品でアメリカの80年代の映画の挿入歌が流れているのがなんかニヤッと来ます。
罪を犯した者を赦す事が神に支える者ではあるが、罪を犯した者を支える事は赦せない。
近くに置く事は寛容出来ない建前と本音に人の条理と不条理。猜疑心の緩やかに濃く描いています。
第92回アカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされた実力派の作品で骨太な感じではありますが、面白かったと言うよりかは、ズッシリとした作品を観たって感じです。
正月明けの上映作品では本命に近い作品なので、ご興味があれば如何でしょうか。
ハードな環境が善き人であることを困難にする
これは傑作。1月のマンスリーベストになりそう。
少年院に服役中のダニエルは神父の影響を受け熱心な信者となった。自ら神父になることを望んだが、前科者は聖職に就けないと告げられた。
仮釈放されたダニエルは立ち寄った教会で新任の司祭と間違われ、病気の司祭の代役を頼まれた。ダニエルはトマシュと名乗り司祭となった。
素性を偽り聖職者となるのは犯罪なのだが。
トマシュは教会に通う者たちに私利私欲なく善を施した。権力者に迎合することなく行いを戒めた。聖職者として成すべきことをした。
善と悪は対岸に在るものではなかった。一人の人間の中に共存した。それはダニエルに限らず、誰の中にも在った。皆迷っていた。罪を背負っていた。
ハードな環境が善き人であることを困難にする。この作品の根底にある悲劇は普遍的なものだった。
実話をもとに
信仰心が強く本当は真にやり直しが出来たのだろうが、犯罪者は聖職につけないという事に対して諦めきれない彼の行動。。彼なりに真摯に向き合い問題解決していく聖なる面とどうしても抜け出せない罪なる面やり直しのきく人生を信じたいものだが、、作品として良かったです。
聖人とは
赦しの必要を、日常に溺れた人には理解できない。
クリスチャンでありながら、赦しなんて考えもしない。
罪を犯したことのある人の方が、むしろキリストの言葉や神の必要や赦しの意味が分かるのだ。
それは宗教でありながら、宗教でない何かだろう。
彼は神父ではないが、彼の言葉は人を導けるのだ。
主役の俳優の風貌が絶妙。
ひとを殺した罪で少年院で服役中の二十歳の青年ダニエル(バルトシュ・...
ひとを殺した罪で少年院で服役中の二十歳の青年ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)。
院内では看守の目を盗んでの暴力・暴行沙汰が横行している。
そんな彼がひとつだけ心安らぐ場は院内教会での祈りの場。
トマシュ神父(ルカース・シムラット)の影響で熱心なキリスト教徒となるが、前科者は聖職者になれないという決まりがあった。
釈放後にダニエルが訪れた更生施設兼製材所は少年院と同じような雰囲気があり、馴染めそうもない。
そんな彼が足を向けたのは村の小さな教会。
その教会は、老神父に持病があり、老神父を補佐する若い神父の到着が待たれていたが、ダニエルは身分を問われて「トマシュという名の神父だ」と答えてしまう・・・
といったところから始まる物語で、個人的には好きな「なりすまし」ジャンルの映画。
この手のなりすまし映画だと、なりすました側の行動・言動により、周囲のひとびとが影響を受けていくのが定石で、この映画でもそのように展開します。
パンク青年然とした風貌と自由な言動から宗教者としては型破りだが、老神父の代わりを務めた説教をきっかけに少しずつ村人のこころをつかんでいくようになる。
そして、一年前、村では6人の青年が犠牲になった自動車事故があったことを知り、残された家族たちは、事故相手の中年男を加害者として酷く恨んでいることを知る。
しかし、加害者と誹られている男も事故で死んでおり、残された彼の妻は、夫もまた事故の被害者だと信じている・・・
この村人たちとの関係の中で重要なポジションを占めるのが、犠牲者6人のうちのひとりの遺族で、母親と妹マルタ(エリーザ・リチェムブル)。
母親は老神父の秘書のような仕事をしており、マルタは教会でダニエルにはじめて逢った人物で、彼女はダニエルに自分と同じような匂いを感じている。
すなわち、どことなく漂う「悪」というか「背徳」というか「後ろめたさ」とでもいうべきもの。
彼女がいることで、この映画に深みが出てき、それは終盤明らかになる自動車事故の真相と、ダニエルとマルタのより深い関係に、ある種の共犯関係のようなものが滲み出てくる。
最終的には、教会に本物のトマシュ神父が現れ、ダニエルの本当の姿も村人の前に示されることになるのだけれど、このシーンはかなり強烈。
ジャンルは違うが、『狩人の夜』のロバート・ミッチャムや『ケープ・フィアー』のロバート・デニーロを思い出すかもしれません。
ひとによっては、セルゲイ・ポルーニンかも。
ふたたび少年院に収監されることになったダニエルの顛末、そこでのワンエピソードは人間の業のようなものを感じさせるもので、単純な正邪・善悪では割り切れないものを感じました。
シェイクスピアの『マクベス』冒頭の魔女の台詞、「きれいは、きたない。きたないは、きれい」を鑑賞後数日たって思い出しました。
更生してない( ̄▽ ̄;)
罪を犯した若者が全く更生してないことに闇を感じる。日本でも同じなのかなぁ?
事故の真相がなかなか明かされなかったのが、視聴者を引き付けてよかったと思う。
主演のバルトシュ・ビィエレニアの顔つき、細さが良くて、いかにもヤバい奴になってた。あと、濡れ場もあった(笑)
結局事故原因はよく分からなかったし、登場人物が見分けられずストーリーを理解しづらかった。
ダニエルは少年院に戻るけど、マルタはどこに行ったのかな?タクシーを使ってないから知り合いの車のようだけど。
スワヴェクの妻が教会に行くと、遺族から受け入れられたのは良かったのかなと思うけど、それを見せてどういう意味があるかは分からなかった。つまりこの映画の主張が分からない。そもそもこの映画に主張が無いのかもしれないけど、俺なりに解釈すると、環境を変えることは難しいって事なのかな。ダニエルは更生してないし、悪い人は寄ってる。再び少年院に戻ると決闘したり等。でも、スワヴェクの妻は孤立から解放されそうだったし、希望はあるってことかな。キリスト教の考え方やしきたり、聖書の内容に詳しければ違う見え方が出来る映画だと思う。日本人では難しい。
主人公ダニエルは過去に殺人を犯したことがあり少年院に入っていた。少年院ではノコギリで木材を切ってるので、ここに入所した者は退所後は製材所で働くように訓練するようだ。
ダニエルは少年院を退所する。教官から酒と薬に手を出すなと忠告されているにも関わらず、真っ先に手を出した。そして女を買ってセックスに夢中だ。
製材所は田舎にあるが、ダニエルはその町に着くと製材所に行かず教会に行った。教会にいた女性マルタに身分を偽ったことをきっかけに、田舎町で神父として過ごすことになる。
田舎町では1年前に事故死した6人の若者が献花されている。その事故で亡くなったのは7人で何故か1人少ない。何が起きたかは、シナリオが進むに辺り、徐々に解明されていく。
事故内容は6人が乗車した車と男性スワヴェクが運転する車の衝突事故だ。原因はスワヴェクは飲酒運転と判断され遺族である妻は町から孤立していた。スワヴェクの遺体は火葬されたものの町から拒否されているので、町の墓地に埋葬されず妻の家に保管されている。
妻の話では、スワヴェクは禁酒生活をしていたので事故後の解剖で飲酒は認められなかった。では、何故悪者にされたのか?そこは分からなかった。
マルタの兄は事故死した6人の1人だ。事故直前に兄から送られた動画では、若者たちは薬と酒を飲んでいた。このことから事故原因は若者側にあるように見える。乗車人数が6人と言うのも多過ぎる。
ダニエルとマルタはスワヴェクの妻の家を訪れると、妻宛て(またはスワヴェク宛)に書かれた手紙を見せられた。罵詈雑言の手紙の中にはマルタの母のものもあった。
ダニエルとマルタはその手紙を毎日のように献花台で祈る遺族に見せつけた。マルタはその夜ダニエルの家を訪れ二人はセックスをする。
ダニエルは神父業を上手くこなした。ある時はスマホを片手にカンニングしながら。
ある時、製材所の社長が新しい工場を作ったから上棟式(みたいなもの)を依頼された。そこに行くと少年院にいた若者が働いていた。
ダニエルはマズいと思ったが、案の定その若者にバレてしまう。ダニエルは若者からお金を請求された。後にこの若者は少年院の教官にダニエルの事をチクる。
皆の前でダニエルはスワヴェクの葬儀を行うと言う。葬儀直前に教官がやって来て、今すぐ町を出るように促される。ダニエルは教官の目を盗んで葬儀を開くと、参列者の前で上着を脱ぎ自分をさらけ出して教会を出た。
再び少年院に戻ると、ボーヌス(少年院にいた頃から何故か憎まれてる)と決闘を行い勝利した。どちらか負けた方が死ぬのが前提なのだろう。ボーヌスごと、建物に火をつけた。
所詮何者にもなれない。
十字架の前に立つ若き神父トマシュ(ダニエル)。少年院を仮出所中の偽神父だ。近くの製材所で働く予定がたまたま立ち寄ったこの教会で冗談めかして神父だと名乗ったことをきっかけにしばらく教会を任されることになる。
煙草も吸えば浴びるように酒も飲む。フランクで型破り。感情の赴くままに語りかけるトマシュは徐々に村人たちの支持を集めてゆく。服役中に出会ったキリスト教。そして神父。熱心な信者となるが犯罪歴があると聖職者になれないと知らされひどく落胆する。そんな時まるで運命かのように巡って来たこの場所。
若さゆえの暴走か。自分は何者なのか。まるで2人の人物がいるかのように二面性を見せる。殺人犯ダニエルと聖職者トマシュ。どちらが本当の姿なのか。
それを一番知りたかったのはきっと彼自身だっただろう。
やがて1年前に起きた交通事故の真相を暴こうとして村人と対立することに。更に彼の素性を知る人物の登場で物語が加速してゆく。
誰かの心を確かに掴んだかもしれない。
誰かの悲しみを確かに癒したかもしれない。
しかし所詮は偽物だ。それ以上にはなれない。
所詮何者にもなれない。
2つの炎が彼の居場所を容赦なく奪ってゆく。彼は村人たちに一体何を残したのか。強烈でセンセーショナルなラストシーンで一気に現実へと引き戻される感覚を覚えた。
ダニエルはようやく夢から醒めたのだ。
人間は人間
欠点、長所、良い面、多面体としての人間を主人公ダニエルは自然に表現していた。
みんな罪人なのだと、キリストは言っていた。
しかし、私たちは自分は良い人間と信じて、悪い人、犯罪者という人を非難する。本当か?
予告編の印象よりも、ずっと見やすく良い映画だった。
主役の演技が素晴らしい。
緊張感にさらされる
緊張感に晒されるタイプの映画。
目は離せないんだけど、面白いというよりは不安が理由、みたいな。
劇場だとそれが心地いいが、家のテレビモニターだと20分以内に止めちゃう感じ。
脚本演出の良さと、そして主演の目力がすごい。
昨年観た『マーティン・エデン』の主役の目を思い出しました。
自らも罪を犯した男が、過去の事故で苦しみいがみあう村人たちと共に「赦し」を求めるという、実話系。
キリスト教の「贖罪」理念を学ぶにはよいのかも。
ただ、ラストシーンはちと理解しにくかった。
「そこにいたことを覚え、愛すること」が「赦し」には大事だと自ら気づきながら、「そこにいないこと」を選び続けるところがよくわからなかった。
過剰、、、
善きか悪しきか、、、
この主人公はどっちも過剰にあったのでしょうか。
登場人物も良いようで悪いような人ばかり。悪いだけしか描かれてない人もいたけど。。。
おそらく見様見真似ではできないであろう神父業をこなしていたんだから、よっぽど神父になりたかったんだろうなぁ。
でもそれもちょっと過剰。
良いことをするつもりでも過剰。
ヤクでバキバキにイッちゃってる時の目が恐ろしくて忘れられない!!
一瞬たりとも気の休まることの無い、良い映画でした。
興味深い実録犯罪映画!
まずは、なかなかの緊張感と人と人の信頼関係、カリスマ性を醸し出し演出した俳優陣と監督に拍手!
特に主演の俳優さん、仮出所直後はまだまだ全然どうしようもないゴロツキ感だったのに、化けてからの展開が妙な説得力あってお見事!!
なりすましの時間が大半で、確かに主人公の個性や経験が存分に発揮され支持を得て発言力も増して行く描写だから割く時間も必要だったのかも知れないが、その分クライマックスは急すぎて残念感が。
もう少しオチに向かう過程に時間を割いた方がサスペンス性が増して更に面白かったのではないかと思う。
しかし、どこまでが実話だか分からないけど奇妙な事件です。
信仰とは…
制度のことであり、そこに時間が加算され、歴史となるだけにアップデートするのは難しいものだ。「聖職者たるもの、こうあるべきだ」のイメージの前提がアップデートを拒む。「受け入れよ」言われても、受け入れ辛いのが現実だ。ただ人がそこに居るのであれば、正すことは出来る。間違いは改めれば良い。謙虚に、実直に。全てが有り得るのであれば、何もかもが可能である。不可逆性の時間の中で私たちは生きているということは、やり直しすことが出来るのだ。しかし、この作品のエンディングは、とてもカッコイイ。
赦しへの迷宮
主人公の雰囲気がそうさせているのか、「暁に祈れ」を思い出させる、不穏さとエグさが付きまとう作品。そもそもが一般的な日本人にはするりと理解し難いネタではありますし、ロシア系だからより難解。しかもポーランドだしね。
それでも、そんな異世界を旅する二時間としては良い体験だったと思うし、旅の終わりには自分の中に何かがストンと落ちた気がしました。世界の雰囲気も何処かキンとしていて耳鳴りでもしそうな感じなのですが、音響の脚色も極力抑えられてるのが、緊張感を持続されるのに一役買っていた様に思えました。素晴らしかった。
犯罪者だからこそ救える魂もあるのではないか・・・様々な疑問を自分に問うことになるずっしり重いドラマ
少年院に服役中のダニエルは信仰深い少年で出所後は聖職に就きたいとトマーシュ神父に打ち明けるが前科者には無理だと諭される。晴れて仮釈放となったダニエルはとある村にある製材所に勤めることになるがすぐに逃げ出してしまう。ダニエルが辿り着いたのは村の教会。そこで他の教区から派遣された司祭だと名乗ったところあっさり信用されて教会の司祭代行を引き受けることになってしまう。スマホを駆使して見様見真似でどうにか司祭の仕事を始めたダニエルは、村中がこの土地で起こった交通事故の悲劇の記憶に苦しんでいることを知り彼らを救済しようと試行錯誤を始めるが・・・。
R18+なので物語の冒頭から冷たく陰湿な暴力が繰り広げられます。少年院という閉ざされた世界における宗教がどのようなものかをしっかり見せているので、ダニエルが製材所に勤めることを拒否したことにも納得できるように誘導されますが、一方で仮釈放後の無軌道なダニエルの言動に対する嫌悪感も隠さないので司祭を装ってからのダニエルの振る舞いをどう受け取ればいいのか困惑させられます。その不安定な感触は因果応報と曇天の切れ間から差し込む日光のような救いを伴った終幕まで緊張感を伴って持続され、善き行いとは何か、この世界に贖罪はあるのか、人々の悲しみや怒りを聖職者は受け止められるのか、といった様々な疑問をエンドロールを眺めながら噛み締めました。
同じ題材をハリウッドで映画化したならハートウォーミングなコメディになってしまいますが、ポーランドではこんなずっしりと重いドラマになってしまうところが大変興味深いところ。主演のバルトシュ・ビィエレニアが瞳をかっと見開いた瞬間に弾ける渇いた狂気がこの映画の全てといっても過言ではないくらいに印象的。忘れ難い強烈な余韻を残す作品です。
やはり目ですね、俳優って、演技って
僕もそうですが、キリスト者じゃないとわかりにくいところはあるとは思います。がしかし、善とは、聖とは、信仰とは、といった問いを、文化や宗教を飛び越えて、この映画は突きつけてくるのでは。俳優さんたちの目が、ほんとうにいいです。映画館を出て主人公の、あの目で街をさすらってしまったのは、僕だけではないだろう。
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