聖なる犯罪者のレビュー・感想・評価
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ちょっとこのレーティングはもったいないような…、と口惜しい一作。
R18というレーティングに怖々としながら鑑賞。確かに目を背けたくなるような場面もなくはなかったけど、正直このレーティングにする必要があったのかな?と思ってしまいました。『クライマックス』(2018)レベルの描写ならまだしも。このレーティングのために鑑賞を躊躇する人がいたとしたら、ちょっともったいない内容でした。
全体的なあらすじは、予告編から受ける印象からそれ程かけ離れているようには思いませんでした。その一方、ややエキセントリックな(偽)神父につい引き込まれ、彼を受け容れていく純朴な村人達…、というありきたりな展開をするようで実は…、という流れが面白く、中盤以降はダニエルの信仰心の行方と共に、この村の底知れなさへの好奇心が募ったり。
カメラをまっすぐ見据えるバルトシュ・ビィエレニアの鋭い視線と彼の身体的なパフォーマンスが印象的ですが、実は本作では、非常に「言葉」そのものの重みを強調しています。最初はぎこちなく、大仰な宗教的表現を操っていたダニエルが、やがて自分自身の言葉に鼓舞され、力強く信仰の重要性を訴えるようになっていく過程が素晴らしいです。
脚本家のインタビューで知ったのですが、本作は実在の事件を基にしているものの、実はポーランドでは同種の事件は毎年のように起きているとのこと。これが本作最大の驚き、というか、ポーランドの人純朴すぎ!
権威と形式と信仰と・・・
4世紀。キリスト教がローマ帝国の国教になった時より教会に政治要素が色濃く入り込む。帝国皇帝すら教会員としたローマ教会は権力を増し、他の教会を屈服させた。
その後、中世には皇帝権と教皇権という2つの権力・権威が相補的役割を果たす。
強力な権力を得たカトリック教会は腐敗し、厳し過ぎる戒律は守られず、システムとルールは形骸化していく。
しかし、現代のありとあらゆる「組織」も似たようなものではないか?
「権威」には逆らわず、形骸化したシステムに疑問も持たず、教えられたルーティンワークをこなすだけの者は決して少なくないと思う。
しかし、本当に人の心を動かす事が出来るのは「形式」ではなく「本質を捉える事」だ。
ダニエルの務めた告解やミサは、形骸化した説教よりも人々の心を揺り動かし、救いを与えた。
うがち過ぎた邦題が映画の本質を誤解させる事例が多いと感じるが本作もその一つだ。
原題「Boże Cialo(ボジェ チャウォ)」は日本語では「聖体節」
クリスマスのミサで信徒が聖体(ホスチア、キリストの体を意味する素朴なパン)を頂くシーンを知っている人は無宗教を自認する日本人にも沢山いるだろう。ホスチア拝領自体は日常的に行われるが特に意味を強調する為、1264年に教皇庁が聖体節を制定した。まぁ、イースターやハロウィンのような「宗教的祭日」だと理解すれば良い。ポーランドでは満9歳で聖体拝領が許されるので見事な刺繍の施された民族衣装でパレードに参加する。
そう。ダニエルが安息の未来を捨てて、自ら信仰する正義に従い「運転手を共同墓地に葬る」と宣言する日こそが「聖体節」だ!
町民の信頼を勝ち得たダニエルは「余計な事」さえ言わなければ、そのまま司祭の椅子に収まっていられた。
町の最高権力者である町長・兼・製材所オーナーのバルケビッチがダニエルの正体に気付いた上で、アル中司祭より使える奴だと判断し計算高く見逃しているのだから。
バルケビッチはダニエルに選択を迫る。大人しく権威に従う事を勧める。
ダニエルは反論する。
「権力はあなたにあるが、正しいのは私だ」
しかし、バルケビッチは悠々と嘯く。
「そう。あなたが正しくとも、権力は私にある」
けれどもダニエルは権威・権力に逆らい、自ら信仰する「正義」を貫くことを決めたのだ。
ダニエルの「正義」は、権威に麻痺させられた町民には通じない。けれども、ごく一部の「本質に揺さぶられた人々」の行動は変化する。
その最たるものはダニエルが実現させた「運転手の葬列」に、犠牲者(であるはずの)親族の1人が参加する場面だろう。
私達も「権威が作り上げた正義の虚像」に惑わされてはいないか?
例えば、ダニエルが事故被害者家族にレクチャーしたノウハウは、少年院で習ったれっきとした精神医学のカタルシス療法だと思うが、どうも日本の活字媒体においては「新興宗教的」という文字が目についた。(映画comレビューもしかり)
精神医学なら善で新興宗教は悪か?
タバコ、酒、女は悪で、禁欲は善か?
クラシック曲は善で、ロックは悪か?
バイクやタトゥーは悪なのか?
法律はすべて正義か?
悪法を是正する努力は悪なのか?
そんなバカな話があるか!
ダニエルが善か悪かだと?
「完全に善なる人間」などいるものか!そんな奴が存在するならば、それはすでに「人間」ではないだろうさ。
禁欲は決して更生の指標にはならない。
人生楽しまにゃ生きてる甲斐がないと、亀仙人も言っている。
人間は弱くて強い。
優しさも愚かさも弱さも強さも内包しているのが「人間の真実」ではないのか?
形骸化した「神」を信じる事が信仰なのではない!
自らが本当に正しいと感じる事を大切に出来る心こそが「信仰」だと思う。
大衆心理が作り上げた「ふわっとした善意」を信じる事が善なのではない。
この世の真実の1%すら解き明かしていない脆弱な「科学」によるエビデンスを信じるのは、古代〜中世の人々が神を妄信するに等しい!
それこそが「権威」に惑わされている現代人の姿だと思う。(商品やショップの「ブランド」も一種の権威)
私達は日々どれほど「権威」に影響されているだろう?
あなたが「自分の意見」だと思い込んでいる判断は本当に正しいか?権威に惑わされてはいないか?
権威に影響されたマジョリティのパワーが「本質的な正しさ」を貫こうと足掻いているマイノリティを潰してはいないか?
終盤、ダニエルは権威に潰され、少年院に戻る事になる。
ボーヌスに反撃する彼を誰が責められよう?そうしなければ命を奪われるのは必至だ。これは正当防衛だ。
これをもって、彼の本質が悪であると断罪出来るのか?
それとも「権威」の犠牲者であると赦せるか?
本作のテーマは、善と悪の揺らぎではなく、「権威と権力に抗い、物事の本質を貫くことの難しさとその価値」だと受け止めた。
ステレオタイプの善と悪に惑わされる時代は、そろそろ卒業しても良いのではないかな。
※蛇足
カトリック教会において「教会はキリストの体」であり、キリスト信仰は、教会に連なってこそ初めて可能なものとされる。
「教会」は「単なるキリスト教信者の集会所」ではなく「天上の教会の地上における反映である、公同のカトリック教会」を具体的に指す。
だから、カトリック教会の外に、真正なキリスト信仰があり得るという考え方を、カトリックは認めない。
ダニエルが「神は教会の外にいる」と言うのも、終盤少年院で食事前に祈りを捧げないのも、形骸化した権威に本質は無いと悟ったからであろう。
理解できなかった。
最初から最後まで、このダニエルという人を理解できなかった。出所が決まっているのに暴力沙汰。かと思えば熱心に祈りを捧げ、神学校に行きたいと言う。酒も薬もやらないと言ってたよね?だし。勘違いされたとはいえ、司祭として活動する姿に見直したと思ってたのに、また暴力。人間は弱いから…ということとはまた違う浅はかさ。
結局、司祭には簡単になれないんだよ。
罪深き人々
なぜか感情移入もできないし、のめり込めなかった。ストーリーは予想した通りだったのですが、出所直後にいきなり不良に戻るんじゃないかという映像もあり、本当に改心したのか?という疑念が終始付きまとってしまいました。
司祭にしても「罪深いわたしのために神に祈ってください」と言うのだから、人間はみな罪人なのだと思っていますが、前科というものがついただけで聖職者になれないというのは不思議な感覚。正体を隠すことも罪なので、これはどうしようもないのですが・・・
新興宗教のようなパフォーマンスが許され、人々に受け入れられるという展開。どことなくアメリカ映画の牧師といった雰囲気もあるが、こうなりゃ、ゴスペル歌って踊って、バンドも始めてくれればいいのになぁ。
ダニエル=トマシュのくだりよりも、事故の原因となった男の妻が村八分にされていることの方が気になってしまいました。これが群集心理。キリスト教を外れているとも感じられる彼らを導くのがトマシュの天命となっていく。まるで『教祖誕生』。そんなやりすぎ感も過去を知る仲間等の存在で・・・
ちょっとわからなかったのが、物置の火災。少年院仲間の放火?それとも自然発火?それはともかく、これが実話だということが驚き!
やれば出来る?
実話を元にした映画らしいのです。洋画に飢えているので期待して鑑賞。成せばなる!を地で行くエセ神父様。門前の小僧が実体験を語って美辞麗句を並べないから、人間的に愛されてしまう内容には共感。ただ、タバコを吸わない人間が観ていると受動喫煙している気分になるので飲み物は必須の映画でした。
主人公に共感してしまった
少年院にいたダニエルは、前科者は聖職に就けないと知りながらも信仰心が高く神父になりたいと思っていた。仮釈放され立ち寄った田舎の教会で新任の司祭と間違われ、司祭の代理をすることになる。村人たちは司祭らしくないが本音で寄り添うダニエルを徐々に信頼するようになっていく。
交通事故で7人が死亡した凄惨な事故を知ったダニエルは、村人たちの心の傷を癒やそうと新興宗教の様な心の叫びを発散する方法などを実践したり、加害者とされた男の妻に対しても親身になって寄り添っていった。
しかしダニエルの過去を知る男が現れ・・・という話。
自分の様に宗教に関心の薄い人には難しい作品だった。ミサの重要性も理解してなくて、埋葬一つにしても勝手に埋めれば・・・なんて考えてしまった。
こんな不勉強な状態で観賞したが、主人公のダニエルに惹かれ、共感してしまった。
聖職者関係の作品って、実は・・・、みたいなのが多いのかな?難しいけど、色々考えさせられた。良い作品だと思います。
主演のバルトシュ・ビィエレニアが良かった。
犯罪者になるのも、聖人になるのも、立場次第。
ポーランド映画祭2020の出展作品。ポーランド映画祭の成果なんでしょうね。ここ数年、結構ポーランド映画を観てますが、これは結構好き。クールさを通り越した暴力的なラストが印象的でした。
ひょんなことから田舎町の小教区の教会の司祭代理に収まってしまったダニエルは、少年院を訪れていた神父である「トマシュ」の名を名乗り、「トマシュ」を模倣して神父になり切ろうとしますが。彼がミサで行う「お説教」は、まるで新興宗教のそれ。逆に人々の心に刺さります。
新鮮なミサのふるまいと言葉や告解の対応で、一定の人気を得るダニエル。彼自身が抱いてきた、信仰とイエスキリストの言葉への疑問は、信者への言葉と態度に現われます。が、最後は「祈る」と言うダニエルの姿勢は、人間らしさが匂いたち、更に人々の心を惹きつけて行く。
村で起きた交通事故の加害者とされる男、被害者とされる若者たち。そして、各々の遺族の対立と村八分。真相らしきものを知っているのは、被害者の妹。ちょっとだけ推理小説もどきの展開に入ります。
少年院仲間に見つかってしまった事がきっかけで、身バレしてしまったダニエルは少年院に逆戻り。決闘相手を殺してしまい、火を放たれた少年院の建屋から逃げ出そうとするシーンで物語はお終い。
どれだけ祈ろうが、神は人々に何ももたらさない。と言う「沈黙」と同じ構図の悲劇。なんだけど。心の傷をいやしてくれるのも祈り。大上段から高説垂れる映画じゃありませんでしたが、宗教の効果に関する一面性(村の人々の傷をいやしてくれた)や、その限界(村を離れて行くマルタ/ダニエル自身の暴力性)を身の丈の視線で描いた小品。
犯罪者であり聖人でもあったダニエルは、まぎれもない「一つの人格」であり。立場次第で、誰もが、そのどちらにでもなり得ると言うところが興味深かったし、そういうことを際立たせたかった映画なんだろうなぁ、って思いました。
良かった。結構。
現代に生きる教会
宗教は人間の想像による虚構。しかし、形が変われ、どの地域、どの時代もそこに生きる人々に何らかの秩序、美、感動、慰めをもたらしている。そんな虚構に無謀なリアリティを押し付ける想像力のない少年院の神父の振る舞いに大いなる怒りを感じる。素晴らしい映画です。
罪はどうすれば許されるのか?
若い罪人である主人公は少年院に入っている
地方の製材所で働く約束で外に行くがちょっとした嘘がきっかけに
聖職者として嘘をつき続ける羽目に陥っていくが...
罪はどうしたら許されるのだろうか?
そして自らが罪人だからこそ理解できる罪に対する考察
それを有効に使い、聖職者から逸脱した人間として
村人と交流しその意識も変えてゆく
しかし過去は許してくれない
同じ少年院の仲間が来ることによって状況が変わってゆく
また少年院仲間と普通に飲酒したり
女性と普通に交わっている事で
聖職者としての道を歩むわけでないのが示唆されている
この主人公はそう考えると宗教を自分の都合の良い様に利用してるだけであり
そう考えると普通の聖職者ではあり得ないのがわかる
なりたくてもなり得ないんだろうと思う
結局正体がバレ、少年院に連れ戻され因縁の相手と決闘する羽目になる
勝利し走り出す男、いったいそのさきに何が待っていると言うのか?
終わりなき暴力の連鎖、因縁、許されない罪人のイメージ
どこに救いを求めたら良かったのだろうか?
深く考えさせられる物語だった
主役のリアルさが強烈な傑作
主役の存在感が危うくて、興味を引っ張り続ける力がある。殺人で少年院に入り、なぜかキリスト教に惹かれている姿が狂信的であり脆さも感じさせ、ブッとんでいるのだ。クスリも酒もやらないように少年院の神父と約束したそばからダンスミュージックがガンガンのクラブでクスリと酒と女とをひと通りした翌朝、神父に約束した製材所に向かう。
が、そこに収まれず、町の教会に入り込み、、、。
なぜそこで神父の制服を持っているのかは分からないが、ここで制服を纏ってからこの映画はコスチュームプレイとなる。主人公が制服のまま司祭を続けられるか、彼を知る少年院仲間が製材所に現れて、、、というサスペンスが映画を進めていくが、なにより主人公がとても魅力的なのだ。リアルなのだ。
塵に神の意思は宿るか
とある聖職者が誕生する話
予告編を見た時から、主演のバルトシュ・ビィエレニアのやばい感じが見たくてワクワクしていた。
彼は予想を超えてやばかった、犯罪者の顔と聖職者の顔、天使と悪魔、正気と狂気がない交ぜになった難しキャラクターをよく体現できなと思います。
もう劇中、ずっと目がはなせないですよ、彼の目が完全にイってます。吸い込まれそう。
物語が進むにつれて優しさというか使命感というか、信念を持ったいい顔になるのですが、彼の目を見ていると不安になる。
強烈なキャラクターで画面を凝視させるだけなくちゃんと物語も練られていて、宗教に対して深刻なメッセージを投げかけていて考えさせられる映画でした。
犯罪者の言葉でも心に刺さった棘を抜けるし、癒しを与えることもできる。
飲んだくれの司祭の言葉も村人の支えになる。
彼ら二人は聖職者として不適合かもしれないけれど、心を救う力は備わっている。
そこに素行の悪さや犯罪歴は関係ないのかも知れない。
もちろん信用が存在しなければ言葉の重みも変わってくるけれど。
宗教と言葉の力を使う者を斬新な角度で見せてくれた。
お気に入りのシーン
①初めてのミサで不安ながらも聖歌を歌いだし、笑顔がこぼれる場面。
「あ、これいけるわ」
って絶対思った瞬間だよねあの笑みは
②刑務所仲間と酒飲んで取引する場面
なんだかんだ主人公の説得スキルが上がって相手も弱みを見せ始めたのに・・・
③小屋が燃えてる場面
予告編でも見れるけれど、終わりの始まり、決戦の合図、炎に照らされた主人公の顔がなんとも
これら以外にもいいシーンというかバルトシュ・ビィエレニアが画面に出てるだけで画になる。
危うさや病的な風貌にここまで惹かれてしまうとは思わなかった。
一種の怖いもの見たさかも知れないけれど、目が釘付けになる俳優なので今後に期待ですね。
色んな映画を見て、やばかったなーと思うことは多い。
やばかったの種類もそれぞれだあるが、
「聖なる犯罪者」のやばかったが一番近いのは「暁に祈れ」のリアル囚人エキストラの方々のやばさかな。
全然違う色合いの作品だし役者と素人でまったくの比較できないけれど、映画という作り物を超えて、こいつヤバいと思ったところが共通点かも。
囚人エキストラは現役の受刑者達だから雰囲気と存在感は当たり前に有る、バルトシュ・ビィエレニアは演技とは思えない犯罪者の雰囲気と存在感が備わっている。
これが彼の演技か内面の一部かわからないけどもいい俳優だと思います。
たとえこの作品しか出なくても記憶に焼き付く演技でした。
映画の枠を超えて脳を刺激してくれた本作に感謝。
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劇中セリフより
「重要なのはどこから来たじゃない、どこへ行くかだ。流れに身を任せるだけさ」
行き当たりばったりな人生も神のご意思かもしれませんね。
彼は聖職者と言えるのか?
確かに彼には神父の素養があったのだろう
あれだけ人を引き付けるのだから
しかし、心の底から神に仕えているとは思えない
自分の神父になりたいという希望が叶えられないと、出所後は酒や薬や女に溺れる
製材所に行かなかったのも同じ
神父の(仮)職にあった時は十分に信者らしいが・・・
これは、キリスト教では何をしても懺悔すれば許されるとか、教会に行っていればさえ許されるとか、そんな風に思われるところ、そのままではないか・・・・
希望が通った時だけ機嫌が良いきかん坊の様
映画としては面白く、引き込まれて最後まで楽しめました
人は悪役を作りたい
ポーランド語?
見てると作品にのまれるリアリティーのある作品。
しかしミステリアスで各キャラも良いのに、ストーリーの深掘りが足りていない印象。
フィクション要素を加えればもっと化けただろう。
良い点
・主人公の雰囲気が絶妙
・各々の演技
悪い点
・喫煙多め
・尺が足りていないか
・ゾンビ映画オチ
世の中はグレーでできている
本作は非常に難しいテーマだった。
実話というが、そこにも驚きである。
本作の色調がニュアンスカラーというかハッキリしないように、世の中は常にグレー。だから私たちは白黒ハッキリと付けたがるんだ。
神父、犯罪者、善人、悪人、経営者、被害者、加害者
何でもかんでも型にはめようとするが、様々な角度から見れば全てグレー、善悪、良否あってほんの些細なことでものの簡単にひっくり返ってしまう。
本作の主人公だって、神父らしいことをしていたかと思えば狂った様に踊り狂ったり、事故の加害者の妻もある意味被害者である。
何が正しくて、何が美しくて、何が善人で悪人なのか、
人は常にどちらにも転びどちらにもなれる。
言ってしまえば、世界はそんなものなんだと。
一つ言えるのは信仰心のある人、信念を持つ人は強いということ。
ラストの展開には少し残念だ。
何が人を導くのか
普遍的なものを描いた物語だと思った。
日本は恥の文化で、西洋(キリスト教)は罪の文化だと聞いたことがあるが、まさにキリスト教の信仰とは何か、ということの本質が描かれているように思った。
誰もが罪深い存在であり、それに苦しんでいる。そして、そこに赦しや救いを与えてくれるのが信仰だ、ということか。
主人公が犯罪者でありながら、みかけが神父であることは、ストーリーが展開するにつれ、実は村人たち全員が似たようなものだということがわかってくる。
表面上は良い子や、善良な人間のようにふるまっていても、誰もが罪を犯している。そして自分の罪に苦しんでいる。
しかしそれだけではなく、それを悔い改める、という聖なる面も持っている。
主人公が悪人である面と、善人である面の二面性を持っていることは、まさにその象徴である。
主人公が神父としてふるまうことができたのは何故か、また、なぜ彼が人の心をうつ説教をすることができたのか。
そこを考えさせることがこの映画の目的なのではないか、と思った。
犯罪者が犯罪者として扱われるだけであれば、彼はそのようにふるまうだけだろう。
しかし、聖者として扱われれば、それは彼にとって変わるきっかけになる。
この、「きっかけ」とは、社会においては信仰がその役割を果たすのではないだろうか。無条件に赦す、無条件に信じる、無条件に愛する、ということは、不合理だし、納得できないこともあるだろう。しかし、一般の理を超えているからこそ信仰と呼べる。
多くの人は、運命論に支配されて生きてしまっている。世の中はこういうものだ、人間はこういうものだ、自分はこういうものだ、という諦めの中に、腐敗や怠惰を受け入れてしまっている。
しかし、「きっかけ」さえあれば、自分を改め良い方向に歩き出すことができることもある。
主人公が人の心を打つ説教ができたのは、彼は自分が犯罪者であるという強い自覚から、体験的に「きっかけ」がどのようなものか理解していたからだろう。自分自身が心を打たれたことをそのまま話していたからだろう。
人には悪人と善人の二面性があり、きっかけが何かによって、悪の面も善の面も現れる。
主人公は神に、「評価するのではなく、理解してください」
と訴える。これは主人公の大人や社会に対する訴えでもあるだろう。
人を変えるきっかけとは、評価や批判や罰や強制などではなく、単なる理解、単に真摯に話を聞こうとするだけでいいのかもしれない。
『聖なる犯罪者』とは余りに安易な邦題。かと言って原題である「boze cialo (聖体)」を上手く日本人に解るように訳すのも確かに難しい。無宗教な日本人には最も理解しにくい内容かも知れない。
①「神はあらゆるところにいる」「どんなに理不尽なことでも全ては神の意思である」等々の台詞があちこちに出てくるが、結局全て神に押し付けて表面だけ繕っているのではないかという気がする。事実、事故の遺族たちは表面は敬虔に祈っているが、心の中では喪失感や哀しみを加害者(かどうかは最後までわからない)とその妻への憎しみに転化していたではなかったか。②ダニエルは映画の中で二度「お前はここにはいなかったんだ。」と言われる。一度目は少年院の神父に司祭と偽っていることがバレたとき。教会としては偽の司祭がいたことが公になるのはヤバかったのだろう。二度目は少年院に戻ったダニエルが決闘の末に相手を殺したとき。少年院で決闘やその上の殺人が行ったことはマズイのだろう。結局最後ダニエルは聖(教会)にも俗?悪?(少年院)にも属せないことになってしまう。③でも、聖と俗との境ってどう線を引くのだろう。この映画は二重構造を取ってその曖昧さに迫っていっているように思う。主旋律は少年院を仮出所した元犯罪者でありながら司祭を騙ることになったダニエルの物語。いつバレるかと冷や冷やさせながらも次第に司祭らしくなっていくダニエル。実はこんなプロットの映画はハリウッド映画に限らずいくらでもある。犯罪者或いはアウトローが人違いされて身分を偽りバレないようにあたふたしながらも段々本物以上に本物らしくなり回りの人に愛され好かれ最後バレても許されてコミュニティの一員となる。この映画でもダニエルが最初に告解に臨んだのは子供の喫煙に腹を立てる度に子供を折檻する母親の懺悔と相談。どうしたら子供の喫煙癖を直せるか、という母親の問いに元(今も?)不良少年のダニエルは的確な答えを与える。ここで「この路線でいくのかな?」と思ったが結局そうはならなかった。④副旋律は村の若者たちを主とした7人の事故死のエピソード。ダニエルは初めは被害者家族の心の癒しに必死になる。しかし、やがてこの事故(被害者家族は殺人と思っている)がどうも見た目とは違うことがわかってくる。無垢な被害者にされている6人の若者たちが決して無垢ではないことがわかってくる。しかし、その証拠を握っているリディアは、ダニエルに証拠の提出を促された時に拒絶し証拠のことなど否定する。傷ついている人達をこれ以上傷付けたくなかったのであろう。⑤一方的に加害者(殺人者)と決めつけられた男妻は村八分になる。しかも村の墓地には葬ってもらえないという(どの宗派は分からないが信者にとっては屈辱的なことなのでしょうね)。ダニエルはここでも立ち向かおうとする。権力者である村長他は折衷案を提示して穏便にことを運ぼうとするからだ。しかし、ここで妻は一方的な村人の糾弾に口をつぐんでいた秘密をついにダニエルに打ち明ける“大喧嘩したあと自殺すると言い置いて出ていった”と。結局事ダニエルの活躍にかかわらず事件の真相はどちらの過失か引き継ぎ闇のなか。それでも遺族感情の中に変化は起きる。加害者と見なされる男の子埋葬式に被害者の一人が参加している。教会を訪れだ運転手の妻にリディアの母(年老いてからのイングリッド・バークマンにどこか似ている)が参列を許す。
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