聖なる犯罪者のレビュー・感想・評価
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「敬虔さ」と「狂気性」
実話をベースにした話題作だけあり、時節柄にもかかわらずお客さんが多かったです。 ポーランド作品ということで、「社会的背景」がわからないこともありますが、映像やシナリオとともに主役の存在感が素晴らしかったです。 過去の罪を隠しながら、聖職者になりすましている、主役のバルトシュ・ビィエレニアさんの眼力による演技は独特で、「敬虔さ」と「狂気性」の危ういバランスを見事に演じていました。 すべてが表現されていないため「余韻」があり、鑑賞後の印象はそれぞれ違うかもしれません。 僕は「良い映画を観たなぁ」と思う一方で、「宗教観」や地域社会の「閉塞感」などに共感できる要素が少なく、感情に響く部分は少なかったようにも感じました。 しかし素晴らしい映画です🎬
人に《その資格》を与えるのは誰か
笑福亭鶴瓶の「ディア・ドクター」とプロットが重なる。 誰かが与えた資格=免状とか卒業証書ではなく、 「誰がなぜ彼をその任に立たせたのか」が、実はトマシュの献身の「肝」なのだと気付かされる物語。 ・・・・・・・・・・・・ 僕が小さい頃行っていた教会は、初代の牧師さんは郵便局長さんだったそうだ。 戦争で聖職者がみんな死んでしまったので、生き残った信者たちの中で話し合ってその郵便局長さんを牧師として立てたのだと。もちろんその手の学校は行っていない。 白黒の面長の写真がかかっていた。 ・・・・・・・・・・・・ 映画は、「資格」からは最も遠かった男と、神と、信者が四つに組んで語らっている。 その任に最もふさわしいのは誰なのか、そこを探り求める祈りは、その祈りの実りとしてその現場でしか成り立たない、一度限りのコミュニティを誕生させる。 神と村人とトマシュが決めるのだ。 どこぞの教団やバチカンや神学校がお墨付きを決めるのではない。 2000年前のナザレのイエスこそが、父無し子の田舎大工として、無資格者の親玉という罪名のゆえに、彼は十字架にかけられたのだがなぁ・・ 皮肉なことに、誰にも求められていないのに名士の皮をかぶった輩が 逆に幅をきかせている。―それがこの世の中だ。 その人そのものではなく、一枚の紙切れが、名刺と学歴が、そして家柄と納税証明書が、その人を保証するというこの世間。 悪い政治家や医者や宗教家が庶民を食いものにして汚い腹を肥やしていても しかし彼らは「正式な有資格者」なんだよね。 【2021.9.7.再鑑賞】 安っぽいハッピーな終幕でなくて、これは本物だと判る。 投げられた石の波紋は村に残った。 「他者を赦したとき、人はおのが隠していた自己の罪が赦されることを知るのだ」と、どの表情も語る。 リディアの内面の演じが、素晴らしかった。
教会に神はいない‼️なせなら、私が神だから‼️❓
私事で恐縮ですが、何十年も前から、夢枕にイエスが出てきて、お前が私の生まれ変わりとゆうのです。 イエスも私も、聖書を読んだことが無く、教義も知るよしも有りません。 ちなみに、教皇も大司教も少年を犯していますが、知識は豊富です。 余談が過ぎましたが、この映画の主人公は敬虔な信者です、ハメなれなければ、最後は良い神父で終わり、町も平和です。 たかが、二千年の宗教です。 私が神だから、それで良いでは無いですか❓ 神も死ぬのです‼️
罪を背負って生きる者の希望と絶望
設定自体はコメディにもなりうるような単純な嘘と勘違いの話だが、鮮烈な暴力描写とブルーを基調とする冷たく研ぎ澄まされた映像が緊張感とスリルを増幅させる。 聖者の資格すらない前科者のダニエルが、まさに"生身の人間司祭"として、固く閉ざされた人々の心を揺さぶり対立や断絶をも解き崩していく姿は、危なっかしくもあるがどこか爽快でもある。 実際にこういう事件が珍しくないという背景には、えてしてその偽神父のパーソナリティーや言葉が、資格者である厳粛な神父のそれよりもストレートに人々の心に響くという一面もある気がする。 しかし一方でこの男が本当に善人に生まれ変わったかどうかは分からない。いや、善か悪かを判断すること自体が無意味にすら思える。 過去の罪はもはや一生消すことのできない烙印なのか。 事件の加害者と被害者、聖職者と犯罪者、支配と従属、交わることのない者たちに刻み込まれた傷と揺れ動く感情。 見終わった後、色々と考えさせられる作品だが、単純に映画として面白かった! 主演バルトシュ・ビィエレニアのインパクトのある目と表情の演技は、天使と悪魔の両面性を見事に体現していて忘れがたい。 ラストで彼の目に映った自らの未来は何だったのか。 罪を犯し背負って生きる者の希望と絶望。 「人生はいつでもやり直せる」なんて明るく言い放てる人間の薄っぺらさよ。
聖なる善悪者
映画の世界では時に、偽物や替え玉や成り済ましが活躍したり、本物以上に周囲を魅了する事がある。『サボテン・ブラザーズ』『バグズ・ライフ』『ギャクシー・クエスト』『影武者』『ディア・ドクター』『王になった男』…。
本作は衝撃。
ポーランドの実話が基。
少年院に服役中の青年、ダニエル。そこで人生を変える出来事が。
訪れる神父トマシュの影響で、熱心なキリスト教信者に。自身も聖職者になりたいと願うが、前科者は聖職に就けないという壁にぶち当たる。それでも諦める事が出来ず。
仮釈放。ダニエルは少年院から遠く離れた小さな村の製材所で働く事に。
村には教会があり、立ち寄る。そこで一人の少女マルタに「司祭だ」と身分を偽った事から…。
すぐバレるに決まってる。
聖職者を偽るなんて…。
しかも、前科者が…。
ところが…
何の怪訝もなく受け入れられる。当の本人がビビって、逃げ出そうとしたくなるほど。
村には元々皆から尊敬される神父がいるが、急な病で倒れる。
そしたらこれまた急に、神父の代理を頼まれる。
俺に出来る訳ねーだろ!
これも嘘付いた罰なのか。もう、やるしかねぇ…。
一発でトチる、すぐ化けの皮が剥がれる…かと思いきや、たどたどしくはあったが、何とか大役を果たした。
いや寧ろ、ダニエルの“神父ぶり”は非常に好評。
元の神父が入院する事となり、本当に“代理”どころじゃなくなる。
告解にも連日村人が訪れる。無論ダニエルは、神学校など行った事ない。関連本やスマホを見ながら。
教会での説教。時に突飛で独特。が、それが固定観念に縛られず、村人の心に響いていく。
聖衣を脱げば、ジャージ姿。煙草を吸い、村の若者たちと酒を飲み交わす。ラフでフレンドリー。
気が付いたら彼は、村には欠かせない存在になっていた。
改めて言うが、彼は村人は本性は知らぬが、“突然現れた前科者”だ。
何故そうも簡単に偽れた?
ここが田舎で、村人が単純だから…?
ダニエルが悪質で、巧妙な手口だから…?
いや、そうではあるまい。
ダニエルは本当に熱心な信仰心を持っていた。
心から村人たちの助けになりたかった。
村人たちも苦しみ、悲しみ、罪の告白…助けを欲していた。
その2つが因果的に結び付いたのだ。
それを象徴するような事件が一年前、この村であった。
一年前、ある男が運転する車が事故を起こし、本人は勿論、乗っていた若い男女6人も亡くなるという悲しく痛ましいもの。
その中には、マルタの兄も。
この事故は今も村の後遺症として重くのし掛かっている。
村はとても静かで穏やか。が、何処か悲しい雰囲気漂う。
その原因が、この事故。
しかしその悲しみの中に、怒りや憎しみも孕む。
無論その矛先は、事故を起こした男。
村には亡くなった若者たちの写真が祭壇に飾られているが、男のだけ飾られていない。
男には妻がいるが、村人たちから完全疎外、孤立。それ故妻も村人たちに反抗的。
村を蝕む問題、闇、病…。
ダニエルはマルタと共に解決しようとする。村人たちや男の妻と真っ正面から向き合い、詳しい話や告解や赦しも…。
が、この事が村中に波紋を投げ掛ける…。
触れてはならない部分、一線越えてはならない部分、タブー、足を踏み入れてはならない領域に土足で踏み込んでしまった。
それまで村人たちから信頼や尊敬を集めていたダニエルだが、厄介者扱いされていく。
傲慢な町長とも対立。
ダニエルは男の写真も祭壇に飾り、男の遺骨を墓地に埋葬し、葬式も上げる。この村で、村人の一人として。
村人のほとんどが反対。
それでもダニエルは諦めない。自分は間違っていない。信念を持って。
その数日前、町長が運営する製材所オープン式にて…
工員の中に、見知った顔が。
その男と出会った場所は、少年院…。
案の定、あっちにもすぐバレていた。
定番の脅迫。金の要求。
もし、村人たちに自分の素性がバレたら…。
しかも、今このタイミングで…。
精神を追い詰め、すり減らすほどの2つの問題。
これもやはり、身分を偽った罰なのか…?
しかし、主よ。信じて下さい。心は決して偽っていません…。
まだ40歳。静かではあるが、一貫して緊迫感途切れぬヤン・コマサ監督の演出に引き込まれる。
弱冠29歳。実話を基に、信仰、罪、赦し、事故や部落内での差別、人の本質を問う。マテウシュ・パツェビチュの卓越した脚本。
弱冠29歳。慈悲に満ちた表情、穏やかな佇まい…“神父”の時の顔と、目を見開き、狂気すら滲ませる“犯罪者”の時の顔の演じ分け。バルトシュ・ビィエレニアが圧倒的な存在感と演技力。
凄まじい才能の3人!
村人たちの反対を押し切り、遺骨を埋葬。村人たちの冷ややかな目。
その後、葬儀ミサを行う予定だったが…、思いもよらぬ人物が現れる。
“ダニエル神父”もここで終わり…が、逃げ出してまで、教会へ。
最後の説教。突然の行動に出る。
これまで多くの人たちの罪の告白を聞いてきた。
が、告解していないのは、唯一自分。
全てをさらけ出す。
ラストはある場所にて。
衝撃の事件を起こす。その時の狂気に満ちた表情…!
やはり彼は、悪人なのか…?
悪人である。
善人である。
善の顔と悪の顔。
どちらが本当なのか…?
どちらも本当なのだ。
ダニエルに限った事じゃない。村人たちも。
それは罪なのか…?
否!
誰しも善=強き心、悪=弱き心を持っている。
だから、罪を犯してしまう。
だから、赦しを乞う。
だから、赦す事が出来る。
だから、愛する事が出来る。
人が人である所以。
世界によって通じる言葉が違う
主人公は感情豊かで、ときには司祭をやってもそれを務める人間性は持っている。 しかし、社会システムにはあまり馴染まない。 街で立派に信頼される司祭はできても、コミュニケーションのルールが異なる少年院に行って、そこのルールでコミュニケートすれば犯罪になってしまう。
果たして本当の自分とは? 相手を受け入れるということは?
ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)のギョロ目と貧弱な体つき、しかしそれが真摯に自分に向き合おうとする姿に見えてくる不思議。2018年の『COLD WAR あの歌、2つの心』に続くポーランド映画の秀作。不毛な土地の排他的なカメラ視点が魅力である。 ポーランドでは熱心なカトリック信者が多く、憧れと尊敬を抱くため、市民が司祭になりすますことが少なからずあるらしい。司祭に身分を確認することは失礼にあたるため、偽装が見破られることも少ないという。 そんないくつもの偽装事件の実話を練り合わせた脚本とのことだが、本作の主演俳優は適役だ。 表面上の人格と偽の身分。自覚がなかったとしても自分自身を「信じる」ことで相手を信じさせてしまう単純さとあやうさ。 ネット時代のSNS上で、仮面をまとった自分が素晴らしい評価を得られることと重ねられるだろう。 果たして本当の自分とは? 相手を受け入れるということは? いくら装っても本心をさらけ出してしまえばみな同様だといいたげなラストではあるが、ラリッた眼球のような人間の業をみせつけられた思いだ。
ちょっとこのレーティングはもったいないような…、と口惜しい一作。
R18というレーティングに怖々としながら鑑賞。確かに目を背けたくなるような場面もなくはなかったけど、正直このレーティングにする必要があったのかな?と思ってしまいました。『クライマックス』(2018)レベルの描写ならまだしも。このレーティングのために鑑賞を躊躇する人がいたとしたら、ちょっともったいない内容でした。 全体的なあらすじは、予告編から受ける印象からそれ程かけ離れているようには思いませんでした。その一方、ややエキセントリックな(偽)神父につい引き込まれ、彼を受け容れていく純朴な村人達…、というありきたりな展開をするようで実は…、という流れが面白く、中盤以降はダニエルの信仰心の行方と共に、この村の底知れなさへの好奇心が募ったり。 カメラをまっすぐ見据えるバルトシュ・ビィエレニアの鋭い視線と彼の身体的なパフォーマンスが印象的ですが、実は本作では、非常に「言葉」そのものの重みを強調しています。最初はぎこちなく、大仰な宗教的表現を操っていたダニエルが、やがて自分自身の言葉に鼓舞され、力強く信仰の重要性を訴えるようになっていく過程が素晴らしいです。 脚本家のインタビューで知ったのですが、本作は実在の事件を基にしているものの、実はポーランドでは同種の事件は毎年のように起きているとのこと。これが本作最大の驚き、というか、ポーランドの人純朴すぎ!
権威と形式と信仰と・・・
4世紀。キリスト教がローマ帝国の国教になった時より教会に政治要素が色濃く入り込む。帝国皇帝すら教会員としたローマ教会は権力を増し、他の教会を屈服させた。 その後、中世には皇帝権と教皇権という2つの権力・権威が相補的役割を果たす。 強力な権力を得たカトリック教会は腐敗し、厳し過ぎる戒律は守られず、システムとルールは形骸化していく。 しかし、現代のありとあらゆる「組織」も似たようなものではないか? 「権威」には逆らわず、形骸化したシステムに疑問も持たず、教えられたルーティンワークをこなすだけの者は決して少なくないと思う。 しかし、本当に人の心を動かす事が出来るのは「形式」ではなく「本質を捉える事」だ。 ダニエルの務めた告解やミサは、形骸化した説教よりも人々の心を揺り動かし、救いを与えた。 うがち過ぎた邦題が映画の本質を誤解させる事例が多いと感じるが本作もその一つだ。 原題「Boże Cialo(ボジェ チャウォ)」は日本語では「聖体節」 クリスマスのミサで信徒が聖体(ホスチア、キリストの体を意味する素朴なパン)を頂くシーンを知っている人は無宗教を自認する日本人にも沢山いるだろう。ホスチア拝領自体は日常的に行われるが特に意味を強調する為、1264年に教皇庁が聖体節を制定した。まぁ、イースターやハロウィンのような「宗教的祭日」だと理解すれば良い。ポーランドでは満9歳で聖体拝領が許されるので見事な刺繍の施された民族衣装でパレードに参加する。 そう。ダニエルが安息の未来を捨てて、自ら信仰する正義に従い「運転手を共同墓地に葬る」と宣言する日こそが「聖体節」だ! 町民の信頼を勝ち得たダニエルは「余計な事」さえ言わなければ、そのまま司祭の椅子に収まっていられた。 町の最高権力者である町長・兼・製材所オーナーのバルケビッチがダニエルの正体に気付いた上で、アル中司祭より使える奴だと判断し計算高く見逃しているのだから。 バルケビッチはダニエルに選択を迫る。大人しく権威に従う事を勧める。 ダニエルは反論する。 「権力はあなたにあるが、正しいのは私だ」 しかし、バルケビッチは悠々と嘯く。 「そう。あなたが正しくとも、権力は私にある」 けれどもダニエルは権威・権力に逆らい、自ら信仰する「正義」を貫くことを決めたのだ。 ダニエルの「正義」は、権威に麻痺させられた町民には通じない。けれども、ごく一部の「本質に揺さぶられた人々」の行動は変化する。 その最たるものはダニエルが実現させた「運転手の葬列」に、犠牲者(であるはずの)親族の1人が参加する場面だろう。 私達も「権威が作り上げた正義の虚像」に惑わされてはいないか? 例えば、ダニエルが事故被害者家族にレクチャーしたノウハウは、少年院で習ったれっきとした精神医学のカタルシス療法だと思うが、どうも日本の活字媒体においては「新興宗教的」という文字が目についた。(映画comレビューもしかり) 精神医学なら善で新興宗教は悪か? タバコ、酒、女は悪で、禁欲は善か? クラシック曲は善で、ロックは悪か? バイクやタトゥーは悪なのか? 法律はすべて正義か? 悪法を是正する努力は悪なのか? そんなバカな話があるか! ダニエルが善か悪かだと? 「完全に善なる人間」などいるものか!そんな奴が存在するならば、それはすでに「人間」ではないだろうさ。 禁欲は決して更生の指標にはならない。 人生楽しまにゃ生きてる甲斐がないと、亀仙人も言っている。 人間は弱くて強い。 優しさも愚かさも弱さも強さも内包しているのが「人間の真実」ではないのか? 形骸化した「神」を信じる事が信仰なのではない! 自らが本当に正しいと感じる事を大切に出来る心こそが「信仰」だと思う。 大衆心理が作り上げた「ふわっとした善意」を信じる事が善なのではない。 この世の真実の1%すら解き明かしていない脆弱な「科学」によるエビデンスを信じるのは、古代〜中世の人々が神を妄信するに等しい! それこそが「権威」に惑わされている現代人の姿だと思う。(商品やショップの「ブランド」も一種の権威) 私達は日々どれほど「権威」に影響されているだろう? あなたが「自分の意見」だと思い込んでいる判断は本当に正しいか?権威に惑わされてはいないか? 権威に影響されたマジョリティのパワーが「本質的な正しさ」を貫こうと足掻いているマイノリティを潰してはいないか? 終盤、ダニエルは権威に潰され、少年院に戻る事になる。 ボーヌスに反撃する彼を誰が責められよう?そうしなければ命を奪われるのは必至だ。これは正当防衛だ。 これをもって、彼の本質が悪であると断罪出来るのか? それとも「権威」の犠牲者であると赦せるか? 本作のテーマは、善と悪の揺らぎではなく、「権威と権力に抗い、物事の本質を貫くことの難しさとその価値」だと受け止めた。 ステレオタイプの善と悪に惑わされる時代は、そろそろ卒業しても良いのではないかな。 ※蛇足 カトリック教会において「教会はキリストの体」であり、キリスト信仰は、教会に連なってこそ初めて可能なものとされる。 「教会」は「単なるキリスト教信者の集会所」ではなく「天上の教会の地上における反映である、公同のカトリック教会」を具体的に指す。 だから、カトリック教会の外に、真正なキリスト信仰があり得るという考え方を、カトリックは認めない。 ダニエルが「神は教会の外にいる」と言うのも、終盤少年院で食事前に祈りを捧げないのも、形骸化した権威に本質は無いと悟ったからであろう。
理解できなかった。
最初から最後まで、このダニエルという人を理解できなかった。出所が決まっているのに暴力沙汰。かと思えば熱心に祈りを捧げ、神学校に行きたいと言う。酒も薬もやらないと言ってたよね?だし。勘違いされたとはいえ、司祭として活動する姿に見直したと思ってたのに、また暴力。人間は弱いから…ということとはまた違う浅はかさ。 結局、司祭には簡単になれないんだよ。
罪深き人々
なぜか感情移入もできないし、のめり込めなかった。ストーリーは予想した通りだったのですが、出所直後にいきなり不良に戻るんじゃないかという映像もあり、本当に改心したのか?という疑念が終始付きまとってしまいました。 司祭にしても「罪深いわたしのために神に祈ってください」と言うのだから、人間はみな罪人なのだと思っていますが、前科というものがついただけで聖職者になれないというのは不思議な感覚。正体を隠すことも罪なので、これはどうしようもないのですが・・・ 新興宗教のようなパフォーマンスが許され、人々に受け入れられるという展開。どことなくアメリカ映画の牧師といった雰囲気もあるが、こうなりゃ、ゴスペル歌って踊って、バンドも始めてくれればいいのになぁ。 ダニエル=トマシュのくだりよりも、事故の原因となった男の妻が村八分にされていることの方が気になってしまいました。これが群集心理。キリスト教を外れているとも感じられる彼らを導くのがトマシュの天命となっていく。まるで『教祖誕生』。そんなやりすぎ感も過去を知る仲間等の存在で・・・ ちょっとわからなかったのが、物置の火災。少年院仲間の放火?それとも自然発火?それはともかく、これが実話だということが驚き!
やれば出来る?
実話を元にした映画らしいのです。洋画に飢えているので期待して鑑賞。成せばなる!を地で行くエセ神父様。門前の小僧が実体験を語って美辞麗句を並べないから、人間的に愛されてしまう内容には共感。ただ、タバコを吸わない人間が観ていると受動喫煙している気分になるので飲み物は必須の映画でした。
主人公に共感してしまった
少年院にいたダニエルは、前科者は聖職に就けないと知りながらも信仰心が高く神父になりたいと思っていた。仮釈放され立ち寄った田舎の教会で新任の司祭と間違われ、司祭の代理をすることになる。村人たちは司祭らしくないが本音で寄り添うダニエルを徐々に信頼するようになっていく。 交通事故で7人が死亡した凄惨な事故を知ったダニエルは、村人たちの心の傷を癒やそうと新興宗教の様な心の叫びを発散する方法などを実践したり、加害者とされた男の妻に対しても親身になって寄り添っていった。 しかしダニエルの過去を知る男が現れ・・・という話。 自分の様に宗教に関心の薄い人には難しい作品だった。ミサの重要性も理解してなくて、埋葬一つにしても勝手に埋めれば・・・なんて考えてしまった。 こんな不勉強な状態で観賞したが、主人公のダニエルに惹かれ、共感してしまった。 聖職者関係の作品って、実は・・・、みたいなのが多いのかな?難しいけど、色々考えさせられた。良い作品だと思います。 主演のバルトシュ・ビィエレニアが良かった。
犯罪者になるのも、聖人になるのも、立場次第。
ポーランド映画祭2020の出展作品。ポーランド映画祭の成果なんでしょうね。ここ数年、結構ポーランド映画を観てますが、これは結構好き。クールさを通り越した暴力的なラストが印象的でした。
ひょんなことから田舎町の小教区の教会の司祭代理に収まってしまったダニエルは、少年院を訪れていた神父である「トマシュ」の名を名乗り、「トマシュ」を模倣して神父になり切ろうとしますが。彼がミサで行う「お説教」は、まるで新興宗教のそれ。逆に人々の心に刺さります。
新鮮なミサのふるまいと言葉や告解の対応で、一定の人気を得るダニエル。彼自身が抱いてきた、信仰とイエスキリストの言葉への疑問は、信者への言葉と態度に現われます。が、最後は「祈る」と言うダニエルの姿勢は、人間らしさが匂いたち、更に人々の心を惹きつけて行く。
村で起きた交通事故の加害者とされる男、被害者とされる若者たち。そして、各々の遺族の対立と村八分。真相らしきものを知っているのは、被害者の妹。ちょっとだけ推理小説もどきの展開に入ります。
少年院仲間に見つかってしまった事がきっかけで、身バレしてしまったダニエルは少年院に逆戻り。決闘相手を殺してしまい、火を放たれた少年院の建屋から逃げ出そうとするシーンで物語はお終い。
どれだけ祈ろうが、神は人々に何ももたらさない。と言う「沈黙」と同じ構図の悲劇。なんだけど。心の傷をいやしてくれるのも祈り。大上段から高説垂れる映画じゃありませんでしたが、宗教の効果に関する一面性(村の人々の傷をいやしてくれた)や、その限界(村を離れて行くマルタ/ダニエル自身の暴力性)を身の丈の視線で描いた小品。
犯罪者であり聖人でもあったダニエルは、まぎれもない「一つの人格」であり。立場次第で、誰もが、そのどちらにでもなり得ると言うところが興味深かったし、そういうことを際立たせたかった映画なんだろうなぁ、って思いました。
良かった。結構。
現代に生きる教会
宗教は人間の想像による虚構。しかし、形が変われ、どの地域、どの時代もそこに生きる人々に何らかの秩序、美、感動、慰めをもたらしている。そんな虚構に無謀なリアリティを押し付ける想像力のない少年院の神父の振る舞いに大いなる怒りを感じる。素晴らしい映画です。
罪はどうすれば許されるのか?
若い罪人である主人公は少年院に入っている
地方の製材所で働く約束で外に行くがちょっとした嘘がきっかけに
聖職者として嘘をつき続ける羽目に陥っていくが...
罪はどうしたら許されるのだろうか?
そして自らが罪人だからこそ理解できる罪に対する考察
それを有効に使い、聖職者から逸脱した人間として
村人と交流しその意識も変えてゆく
しかし過去は許してくれない
同じ少年院の仲間が来ることによって状況が変わってゆく
また少年院仲間と普通に飲酒したり
女性と普通に交わっている事で
聖職者としての道を歩むわけでないのが示唆されている
この主人公はそう考えると宗教を自分の都合の良い様に利用してるだけであり
そう考えると普通の聖職者ではあり得ないのがわかる
なりたくてもなり得ないんだろうと思う
結局正体がバレ、少年院に連れ戻され因縁の相手と決闘する羽目になる
勝利し走り出す男、いったいそのさきに何が待っていると言うのか?
終わりなき暴力の連鎖、因縁、許されない罪人のイメージ
どこに救いを求めたら良かったのだろうか?
深く考えさせられる物語だった
主役のリアルさが強烈な傑作
主役の存在感が危うくて、興味を引っ張り続ける力がある。殺人で少年院に入り、なぜかキリスト教に惹かれている姿が狂信的であり脆さも感じさせ、ブッとんでいるのだ。クスリも酒もやらないように少年院の神父と約束したそばからダンスミュージックがガンガンのクラブでクスリと酒と女とをひと通りした翌朝、神父に約束した製材所に向かう。 が、そこに収まれず、町の教会に入り込み、、、。 なぜそこで神父の制服を持っているのかは分からないが、ここで制服を纏ってからこの映画はコスチュームプレイとなる。主人公が制服のまま司祭を続けられるか、彼を知る少年院仲間が製材所に現れて、、、というサスペンスが映画を進めていくが、なにより主人公がとても魅力的なのだ。リアルなのだ。
塵に神の意思は宿るか
とある聖職者が誕生する話 予告編を見た時から、主演のバルトシュ・ビィエレニアのやばい感じが見たくてワクワクしていた。 彼は予想を超えてやばかった、犯罪者の顔と聖職者の顔、天使と悪魔、正気と狂気がない交ぜになった難しキャラクターをよく体現できなと思います。 もう劇中、ずっと目がはなせないですよ、彼の目が完全にイってます。吸い込まれそう。 物語が進むにつれて優しさというか使命感というか、信念を持ったいい顔になるのですが、彼の目を見ていると不安になる。 強烈なキャラクターで画面を凝視させるだけなくちゃんと物語も練られていて、宗教に対して深刻なメッセージを投げかけていて考えさせられる映画でした。 犯罪者の言葉でも心に刺さった棘を抜けるし、癒しを与えることもできる。 飲んだくれの司祭の言葉も村人の支えになる。 彼ら二人は聖職者として不適合かもしれないけれど、心を救う力は備わっている。 そこに素行の悪さや犯罪歴は関係ないのかも知れない。 もちろん信用が存在しなければ言葉の重みも変わってくるけれど。 宗教と言葉の力を使う者を斬新な角度で見せてくれた。 お気に入りのシーン ①初めてのミサで不安ながらも聖歌を歌いだし、笑顔がこぼれる場面。 「あ、これいけるわ」 って絶対思った瞬間だよねあの笑みは ②刑務所仲間と酒飲んで取引する場面 なんだかんだ主人公の説得スキルが上がって相手も弱みを見せ始めたのに・・・ ③小屋が燃えてる場面 予告編でも見れるけれど、終わりの始まり、決戦の合図、炎に照らされた主人公の顔がなんとも これら以外にもいいシーンというかバルトシュ・ビィエレニアが画面に出てるだけで画になる。 危うさや病的な風貌にここまで惹かれてしまうとは思わなかった。 一種の怖いもの見たさかも知れないけれど、目が釘付けになる俳優なので今後に期待ですね。 色んな映画を見て、やばかったなーと思うことは多い。 やばかったの種類もそれぞれだあるが、 「聖なる犯罪者」のやばかったが一番近いのは「暁に祈れ」のリアル囚人エキストラの方々のやばさかな。 全然違う色合いの作品だし役者と素人でまったくの比較できないけれど、映画という作り物を超えて、こいつヤバいと思ったところが共通点かも。 囚人エキストラは現役の受刑者達だから雰囲気と存在感は当たり前に有る、バルトシュ・ビィエレニアは演技とは思えない犯罪者の雰囲気と存在感が備わっている。 これが彼の演技か内面の一部かわからないけどもいい俳優だと思います。 たとえこの作品しか出なくても記憶に焼き付く演技でした。 映画の枠を超えて脳を刺激してくれた本作に感謝。 ----------------------------------------------------------------- 劇中セリフより 「重要なのはどこから来たじゃない、どこへ行くかだ。流れに身を任せるだけさ」 行き当たりばったりな人生も神のご意思かもしれませんね。
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