「人に《その資格》を与えるのは誰か」聖なる犯罪者 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
人に《その資格》を与えるのは誰か
笑福亭鶴瓶の「ディア・ドクター」とプロットが重なる。
誰かが与えた資格=免状とか卒業証書ではなく、
「誰がなぜ彼をその任に立たせたのか」が、実はトマシュの献身の「肝」なのだと気付かされる物語。
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僕が小さい頃行っていた教会は、初代の牧師さんは郵便局長さんだったそうだ。
戦争で聖職者がみんな死んでしまったので、生き残った信者たちの中で話し合ってその郵便局長さんを牧師として立てたのだと。もちろんその手の学校は行っていない。
白黒の面長の写真がかかっていた。
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映画は、「資格」からは最も遠かった男と、神と、信者が四つに組んで語らっている。
その任に最もふさわしいのは誰なのか、そこを探り求める祈りは、その祈りの実りとしてその現場でしか成り立たない、一度限りのコミュニティを誕生させる。
神と村人とトマシュが決めるのだ。
どこぞの教団やバチカンや神学校がお墨付きを決めるのではない。
2000年前のナザレのイエスこそが、父無し子の田舎大工として、無資格者の親玉という罪名のゆえに、彼は十字架にかけられたのだがなぁ・・
皮肉なことに、誰にも求められていないのに名士の皮をかぶった輩が 逆に幅をきかせている。―それがこの世の中だ。
その人そのものではなく、一枚の紙切れが、名刺と学歴が、そして家柄と納税証明書が、その人を保証するというこの世間。
悪い政治家や医者や宗教家が庶民を食いものにして汚い腹を肥やしていても
しかし彼らは「正式な有資格者」なんだよね。
【2021.9.7.再鑑賞】
安っぽいハッピーな終幕でなくて、これは本物だと判る。
投げられた石の波紋は村に残った。
「他者を赦したとき、人はおのが隠していた自己の罪が赦されることを知るのだ」と、どの表情も語る。
リディアの内面の演じが、素晴らしかった。