ブータン 山の教室のレビュー・感想・評価
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いい涙、出ました。
主人公・ウゲンが訪れたのは、筋肉質の牛みたいなヤクの恵みの下に人々の生活が営まれるパラレルワールドだった。電気は、安定的に「安定供給されない」。一口にブータンといっても、いわゆる都市部と地方(=超僻地)とではまたとんでもなく「格差がある」のであった。もちろん両者の幸せの尺度は異なる。
一方、ブータンの人たちは全国的に自分たちが世界で一番幸せな国として知られていることを意識しているらしい。教員養成機関のスタッフは、ダメダメ教員の卵であるウゲンに、国の隅っこまで幸せにするようにと僻地への赴任をミッション。赴任先の僻地の町長は、「世界一幸せな国の若者が外国に移住しようとしている」事実を知りため息。
印象的だった人々の気質。
・他の人の決断は否定せずに尊重すること(ウゲンのおばあちゃんも、村の人たちも)。
・自分の夢や態度もはっきり言うこと。私は歌手になる、私はずっとここにいる、、、
競争なんていう概念も存在しなさそうだ。意地悪な人も基本的にいなそうだけど、離婚はあるみたいだ。
村の人たちは、算数とか英語を教えてくれる「先生=どこにでもいそうな若者・ウゲン」を惜しみなくリスペクトしてくれていたけど、歌のうまさ、生きる知恵、親孝行、屈強な体力、自然への畏敬の念、どれをとっても村の人たちは「先生」以上だった。
まあ、ウゲンが奏でたアコースティックギターは人をつなぐ万能楽器だと再認識した。電源不要だし運送しやすいし。
生活と伝説に基づいた、これぞ民謡、と言う歌声が本当の主役だったのかも。誰も、人よりも上手に歌おうなんてしていないのに、とても感動的なのだ。手も握らない若者二人の後ろ姿のツーショットは白眉。山と空の下、歌を教える・教わるだけの関係、眩しかった。
そして正直言って何よりも見る者を幸せにしてくれたのは賢く健気な学級委員ペンザムちゃんの仕草と言葉、だった。ありがとう。
ヤクとヤク飼い
教員として5年間のお礼奉公のうち1年を残した主人公が、ブータン一の僻地と呼ばれる人口56人の村に赴任する話。
首都ティンプーからバスで2日のガサの町から、山道を歩き6日でようやく辿り着いた標高4800mのルナナ村で、貴賓の様なもてなしを受けるも自分には無理と一度は断った主人公。
ドマはビンロウ的なものですかね?
のどかな風景とのどかで慎ましい暮らしに触れて、主人公の意識が変わって行く姿は単純明快なストーリーながら、何てことのないやり取りに微笑ましさや温かさを感じ、観ていて思わず笑顔になってしまったり、思わず涙してしまいそうになったり。
村長は素晴らしい人格者だし、ペムザムの表情は堪らないし、みんな素晴らしい人達だね。
幸せの定義、幸せの形はその人次第。
人生に於いて沢山の選択肢があることは幸せなことだけど、世界一幸せな国ブータンにおいての幸せは沢山のことを知らないから言えるのかも知れない。
なんて小難しいことも少し頭を過ったけれど、少なくともルナナ村の人達が不幸せにはみえることは無かったし、主人公もそれを感じているのが伝わってきた。
【”先生は未来に触れることが出来るから・・と村人は尊崇の念を込めて青年に言った・・。”真の情と自然への畏敬の念を持つ村人の素朴な表情。真の幸せとは物ではなく、心にある事を思い出させてくれた作品。】
ー ウゲン(シェラップ・ドルジェ)がうだうだ文句を言いながら、漸く標高5000M近くあるブータン辺境の地、ルナナに到着した時の、村人全員(50数名だったか・・)が、出迎えるシーンで、”グッ”と来てしまった・・。
そして、級長を務めている幼きペム・ザムさんが、飲んだくれの父がいるにも関わらず、ニコニコと笑いながら、”いつものように寝坊している”ウゲン先生を迎えに来たり、紙が無くなってしまったとき、徐々にペム・ザムさんたち”山の生徒”の魅力に惹かれていったウゲン先生が大切な紙を配ってくれた時の表情。
そして、ウゲン先生が”夢を叶えるために”村を離れる時のペム・ザムさんの眼が涙で赤くなっている表情や、彼女がウゲン先生に書いた手紙のモノローグのシーンで、もう涙腺が・・。ー
■感想
1.序盤のウゲンは、ブータンの今どきの普通の青年なのだろう・・。
その青年がオーストラリアに行って歌手になる夢を抱えながら、一週間もかけてルナナへ向かう時の態度・・。とルナナの村人たちと接して心の成長を遂げたウゲンの姿の対比。
ー 往:”おい、迎えのミチェン達は往復なんだぞ!と心中で舌打ちしながら鑑賞。せめてヘッドフォンは外せよ!”
復:キチンと峠で、神に祈りを捧げ、ケルンを積むウゲンの姿・・。ー
2.広大な山並みに向かって、セデュが歌う「ヤクに捧げる歌」の美しさと、ウゲンが念願のオーストラリアに渡って、パブでアコースティックギターをつま弾きながら”ビューティフル・サンデイ”を歌うも誰も聞かない中、オーストラリアのガイドの紙に書いた歌詞を見ながら、「ヤクに捧げる歌」を、アカペラで澄んだ声で歌うウゲンの姿の対比。
ー ウゲンがパブで「ヤクに捧げる歌」を歌うシーンは、彼が”自分の大切な場所は、ルナナだ!”と決断したシーンであると思う。ー
3.ルナナの子供達の、好奇心に溢れた表情の豊かさ。
ウゲンが夢を聞くと、言いよどむ子はおらず、”歌手になる!”先生になる!”と、明確に夢を口にする姿。
4.ゲームばかりしていた、ウゲンが電源が入らなくても気にせずになり、帰り際、埃が被った携帯にフォーカスするカメラ。
ー ウゲンの視野が広がり、人としても村人たちのお陰と、彼自身の努力で成長した事を暗示するシーンであろう・・。ー
5.夢を叶えるためにルナナを離れるウゲンがセデュに対し、
”首都ティンブーに一緒に来ないか・・”と誘った時のセデュの言葉。
”行かない・・。私はいつもここにいる。”
ー 劇中で、ウゲンの言葉が、”ずっと海外に住む”から、後半微妙に変化している。
私は村長の重みのある言葉もあり、”ウゲンはいつかブータンの外界を見て、故郷が一番良いと気づき、戻って来るのだろうな・・。
そして、そこにはきっとニコニコ笑っているペム・ザムさん始め村人達、そしてセデュが待っているのだろうな、と思ったのである。ー
<”真の豊かさ”とは、”物質的豊かさ”にあるのではなく、”心の豊かさ”にあるという、当たり前のことを再認識させてくれた作品。
村人たちの素朴な表情と、情の厚さ、心の寛大さを大スクリーンで観て、観ている側の心も浄化された作品。
ブータンの僻地ルナナの住民達を見守るように聳え立つ、急峻な雪山。
広大な自然の美しさも、この作品の醸し出す風合を忘れ難いものにしている作品でもある。>
教育の在り方と、人間本来の幸せな暮らし
アウェ 成功体験ができます!
全ての子供たち、お母さん、先生だけでなく
多くの人に観て頂きたい。 気持ちの切り替えになる。
●リストラのない生活
大自然の中、自給自足の暮らしは、リストラがない。
自然と共に暮らす。
ヤクは寶で、家族のように大切に共存している。
●秘境の村には、どうやって行くのか
・初日は住人3人1軒の村?で泊めてもらう。 そこにも幼子がいる。
・翌日以降は、テントで寝て
何日もかけて村に向かう。
●僻地の子供たち
村には、とてもかわいい子がいる
皆とても勉強したがっているが、先生がいない。
僻地で先生は、神様のように尊敬されている
ドマを噛むと体が暖まるんだ
しみじみと、この素朴な映画に心も暖かくなりました。
帰宅して、興奮冷めやらぬままレビュー
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「ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」啄木
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東京の岩波ホールと時を同じうしての上映。ここ長野県の小さな街でこんなに早くの上映が叶ったのは、支配人の熱意が通じてのこと。快挙!
(だいたい新作映画のフイルムが流れてくるのは半年遅れで、レンタル店にDVDが並んでしまうのが一緒なので、悔し涙)。
わが街 長野県塩尻市は、ブータンの首都ティンプーと人口は一緒。10万人です。
毎朝・毎夕、1年365日、荘厳な北アルプスの連山を、すぐ左手上空に見上げながら暮らす街。
だから山の民の映画は、どうしても僕らは親しく感じてしまいますね。
上映まえ、「この映画は若い監督が、変わりゆくふるさとブータンに心を痛めて撮ったのだ」という館主の解説をもらいました。
「先生は未来に触れることができる」
「先生を尊敬しなさい」。
地元の都会では落ちこぼれだったインターン教師のウゲンを、まるで天からの使者のように迎える全村民。
学校教育を重んじる辺境の村。そこには電気も電話もインターネットも無いのです。
登山道だけが唯一の交通路。徒歩6日の距離で 現代文明から隔絶されたルナナの村は、これはいったい“幸福”なのだろうか?それとも“不幸”なのだろうか?
・・鑑賞者の胸にはこの思いが一様に去来したはずです。
ブータン人ウゲン君のヨレヨレのTシャツには
《幸福度世界一国民》を恥じて揶揄するロゴが。
でも、かけがえのないヤク(=飼い主にとっては親友のヤク)を、村民のため、そして(ここ重要=)ウゲンのための“取って置きの歓迎”に提供する、そんな身を裂かれる運命も耐えて享受をする山の民は、ウゲンの離任の気持ちをも又 静かに受容するんですね。(※注)
無知ゆえの愚かな幸福感とはどこか違う、悟りと気高さを感じました。
(※注)ブータンでは殺生は禁じられています。魚でさえインドからの輸入とのこと。
だからウゲンは自分のために供された食材が何であるか分からないし、法を犯したもてなしを村長たちは穏やかに目配せをして、木の椀に盛り付けたわけです。
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押し寄せる西洋“文明”に、ネイティブが破壊されていく映画を観ると、僕が必ず思い出す映画が「ミッション」(1986.英)です、
⇒アマゾンのジャングルの奥地で、裸族の子供たちに“完璧なラテン語の聖歌”を歌わせるシーン。本国から視察にきたカトリックの聖職者は、そのバーバリアンに施された訓練と布教の成果にいたく満足して、密林の民に祝福を与える ―というシーンでした。
あれほどグロテスクな侵略の描写は、他に例をみないと思っています。=アンダーライン
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山や海で隔絶されて「井の中の蛙」であることの好運って、もしかしたらあったんじゃないかな?
日本人が英語が上手に喋れないこととか、外国に行けないとことか、島国根性であることとか・・おおよそ感化されにくい国民性であること、これって見下されるべきこととは必ずしも言えないのではないかな?
グローバル化で、固有の文化はますます混淆し、情報は膨大にして急流。これについて行けない者は「情弱」と蔑まれ、最早幸福やら不幸やらを考える暇さえ消え去って・・
我々は得られるものと失うものが拮抗する、誕生と喪失のはざまの時代にあるのだということを思い巡らしながら、終演後 夜の帰途につきました。
ブータンのジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク王は、つい先ごろ自ら、絶対王政から立憲王政へと国の体制を大きく転換させました。王様ご自身が「国民の成長と幸福の何たるか」をきっと苦悩し模索しておられるのだなぁと感じたニュースです。
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学校ものでオススメは
「すれ違いのダイヤリーズ」
「小さな園の大きな奇跡」
「あの子を探して」など。
子供の命を大切に守りたいと思わされます。
鑑賞後、そんなこんなで、いろいろ考え込んでもしまったけれど「ブータン、山の教室」、このチラシを壁に貼って明日からも元気に生きようと思う。
学級委員のぺムザムちゃんの笑顔、最高なんです、
村長の歌も、いまだ胸にこだまするんです。
バッファローは山を見上げヤクの帰りを待つ
山奥の村で先生になる話
大自然の美しさと村民の素朴な暮らし、映像に残すだけでも価値のある作品でした。
電気は無いし娯楽も無い、紙すら貴重な僻地で主人公の目を通して観客に伝わる自然の素晴らしさと心に響く歌声。
文明の進歩は人の心を豊かにしたのか?
便利になればなるほど、思いやりや助け合いの精神は薄れていき、個人主義や自己責任が蔓延してくる。
人間は一人で生きていくことが出来ないのに、現代の生き方は他人とのつながりを希薄にしているように感じる。
映画の舞台となるルナナ村は都会に比べればとても不便だが、村全体が一つの家族のように暖かい。
なんでこんなにも優しいのか、これが本来の人間の姿なのか分からないけれど、とっても行ってみたくなる村だった。
子どもたちの笑顔も、大人たちのおおらかさも、のんびりとした時間も全てがうらやましい。
自然の恵みに感謝して季節とともに生活を変える、なんて理想的なんだと思ってしまうけれど、現地の人たちはその生活から抜け出したいんだよね。
未来に触れるには教育が必要なのだと私も主人公もまったく気づいてなかった。
当たり前に教育を受けられる環境がどんなにありがたく尊いか忘れていた。
本当の幸せと豊かさって何だろう?
山を下りる事、山に残ることの先に待ってるのは何?
人々に受け継がれる歌だけが答えを知っているのかも知れない。
将来への不安とか現実への不満とかの感情を忘れさせてくれるわけじゃないけれど、ちょっとだけ心を軽くしてくれるような映画でした。
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劇中セリフより
「なんで君たちは泥がついてない?」
いくら最新鋭の靴だろうと、避けなければ泥は着く。
大事なのは靴ではなくて道筋と歩き方。
温暖化で山から雪が無くなれば、雪の神は住処を無くす
象徴的なメッセージだったんですね、コレが。
世界一の僻地の学校?いや、この前、グリーンランドに赴任したデンマーク人教師の映画があったがな。あれ、生徒はぼっちだったけど?「北の果ての小さな村で」だよ、思い出したよ。
と言う事で調べてみたら。あっちは人口80人だった。ルナナは56人だっけ?確かに世界一の僻地かもw
しかしながら。
天使の村ですよ。ペンザムとか完全に天使。セデュも天使。教室は天使&天使、へ?ヤクも一緒なんか?
なんて驚くほどじゃない。明治・大正時代には、日本でも馬小屋は母屋の中にあったらしいから。
さてさて、世界一幸福な国と言われるブータン。確かに、世知辛く殺爆とした社会に生きる我々からしたら、幸せそうに見えます。実際、争い事を知らずに、「村」が家族として生活する暮らしは「幸福」だって思う。
夢を叶えてオーストラリアに出て行ったウゲンには、ブータンの幸福が実感できるんじゃないかと。峠を越えてルナナに戻る日も遠くはなさそうです。
って事で。
良かった。
地味に。
こころが洗われるなー。
何にもなくても幸せな人達は幸せ。遠く僻地の純朴な村人や子供たちの表情や行動からひしひしと伝わってくる。が、都会から来てそこに自分の居場所を見つけてもそれが叶えられるかはまた難しい問題。
自然豊かな映像と人々の暖かい交流を見れただけでも幸せな気分になれた。
子供たちの笑顔にやられた、とても幸せな気持ちになれる作品です♪
劇場で予告編を観た時に授業を受ける女の子の屈託のない笑顔を観て、“これは良い映画だ”と言う印象にかられて、鑑賞しました。
で、感想はと言うと…良い!
凄い良い。めちゃくちゃ感動しました♪
もう、この良さをいろんな人達に伝えた気持ちで一杯w
なので、めっちゃネタバレが有るのはお許し下さいw
教職志望のウゲンはやる気が無く、教職訓練の最終年であっても教職に就かず、オーストラリアに渡り、ミュージシャンとして成功を夢見る青年。
だが、そんなウゲンに人里離れたルナナと言う村に学校教師としての派遣が告げられる。
ルナナはウゲンの住むティンプーから8日間もの移動時間が掛かり、その殆どは徒歩での移動が強いられる程の高地にある村。
移動中も不満と文句が一杯のウゲンだったが、村について何も無い環境に驚愕。
到着早々、村長に帰りたいと告げる。
だが、最大限の尊敬ともてなし。またウゲンの到着を心待ちにしていた、村人と子供達の思いにウゲンの気持ちは揺らぎ始める…
と言うのが大まかなあらすじ。
ブータンの事は殆ど知らなくて、アジアの国で中国やインドと国境を接していて、仏教の国でチベット系の民族と言うぐらい。
「世界一幸せな国」と言うフレーズが有名ですが、幸せかどうかは人それぞれとしても、ルナナの村に人々の優しさが身に染みます。
登場人物に悪い人がいなくて、みんな純粋で良い人ばかり。
唯一居るとすれば…酔っぱらって外で寝てるペム・ザムの父親ぐらいw
ウゲンも今時の若者ではありますが、根は純粋で子供達の思いを真っ直ぐに受け止めるとても良い奴。
いろんな物を取り寄せて、徐々に教室らしくなっていくのも良いんですよね。
その中でギターを取り寄せて、音楽をみんなに教える事や歯磨きをみんなに教えるのにはなんか物凄く気持ちがほっこりします。
村までのガイドを努めるミチェンも村長もウゲンと淡い恋仲になりかけるセデュもみんな良い。
特に子供たちの眼差しと笑顔が抜群で汚れた大人には目を背けたくなる程の真っ直ぐな眼差しが眩しすぎるw
屈託のない笑顔と言うのはこういう事なんだと教えてくれます。
学校の子供達がみんな良い子すぎですがペム・ザムが純粋で真っ直ぐ。
無垢な笑顔がとても良い子で可愛らしい。いや可愛らし過ぎるw
いろんな仕草や言葉がいちいち可愛いんですよねw
この作品の半分以上の良さはこのペム・ザムの笑顔かと思いますw
子供たちは先生に勉強を教わる事に待ち焦がれていて、それぞれの夢がある。
その中で「将来は先生になりたい。先生は未来に触れることができるから、将来は先生になることが夢」と口にする。
物凄く目が覚める思い。
「教育」とは教えて育つと書くが、教えるだけでなく自身が教えられて、自ら育っていく事だってある。
相互教育と言う言葉だけで括れないぐらい。
昨今の教育者の不祥事に教育と言う言葉が汚されて踏みにじられている事を思うと本当は教育と言うのは尊い事を教えてくれる。
分かっていても実は分かっていなかったと言うか、表面だけで分かっているフリだけだったと、目から鱗がぼろぼろ落ちるw
本当に子供たちのキラキラと輝く瞳に心が洗われるんですよね。
ウゲンがここに留まる事に少しずつ気持ちが傾くのも分かるけど、故郷を離れて自分の夢に賭けたい気持ちも分かる。
正直ルナナの生活はとても過酷。
電気・ガス・水道がスイッチ1つでなんて事は夢のまた夢。電気もソーラーでの自家発電がギリギリある程度で、それでも殆ど使用不可な状態。
トイレ等の環境も至極劣悪で正直自分には無理w
紙もとても貴重。
都会で暮らしている者にとって、普通に有る物が殆ど無い。
そこには都会に無い物が沢山ある!なんて言うのは現地に居ない者の言う事で実際に「無い」事が当たり前のルナナの人々はそれを受け入れられても、普段「有る」事が普通の者からすると、窮屈この上無いと思う。
村に向かう道中にお世話になる家族が子供以外は靴を履いてない事に「高価な靴を買うなんてお金は持っていない」と言う。でも自分の子供には靴を与えている無償の愛。そんな気持ちがしみじみと感じられます。
また、教育を受ける事で様々な将来の職業の選択肢が増え、村を出る事だって出きるし、村に留まっても、ルナナの村の未来の可能性を広げる事が出来る。
この辺りはグリーンランドの辺境の村をテーマにした「北の果ての小さな村で」に似ているかも。
でも、村長がウゲンが外国に行くのを聞いた時の「ブータンは世界一幸せな国と言われてますが、そんな幸せな国を出て海外の国に行く…」と言う台詞は物凄く心に突き刺さります。
これって、地方から都会に上京する時の親の気持ちを知ったのと似ている感じで、物凄く突き刺さります。
また、ウゲンが村を出る時のクラスを代表して、ペム・ザムがウゲンに渡した手紙では泣きました。
物凄く真っ直ぐ気持ちが綴られていて自然と涙が出てきた。
もしかしたら「俺はルナナに留まる!」とか「また春には戻ってくる!」と言うかもと淡い期待をしましたが、そうはならなかった。
遠くオーストラリアに渡り、シドニーでクラブのステージで歌を歌う。
でも、殆ど聴いている者はいない。ただ流れているBGM程度の認識。
そんな時にルナナでセデュから教わった「ヤクに捧げる歌」を歌い始める…
憧れではあったが、遠く異国の地に行ってきて、ルナナの暖かさを思い出して歌い始めたけど、ウゲンがブータンに戻って再びルナナに行ったのか、シドニーに留まったのか迄は描かれてないんですが、結構良い終わり方かと思います。
個人的には「ブータンに帰る。ルナナに戻る!」と劇中に意思表示してたら、ベタでもなんかスッキリしてたけど、これはこれで良いかと。
ウゲン役のシェラップ・ドルジやミチェン役のウゲン・ノルブ・へンドゥップ。セデュ役のケルドン・ハモ・グルンも殆どこの作品で俳優デビューとの事。ミチェン役のウゲン・ノルブ・へンドゥップはちょっとジャッキー・チェンに目元が似ているかもw
ペム・ザムは役名と実名で同じで実際にルナナで暮らしていると言うのも驚き。
演技を意識しない自然な演技が心に迫るのは2018年に公開されたレバノンの「存在のない子供たち」の主役のゼインが実際にシリア難民であるのと同じでリアリティーを醸し出していると思います。
標高4,800メートルの地にあるルナナでの壮大な大自然の風景と映像美が圧巻でそれぞれの場所での「人口」の説明がクスッと笑わせてくれる。
学ぶ事も尊さや本当の豊かさと言う言葉を文章にするとチープにも感じますが、それをこの作品は教えてくれる。
とにかく良い映画。
映画としてのストーリーはオーソドックスですが、凄く良い作品で2回目の鑑賞は余程の事が無い限りしないんですが、これはまた観たくなりました。
とても良い映画ですが、コロナ禍の影響もあって、都内では「岩波ホール」でしかやってないのが残念です。
でも、こういう状況下でこういう作品に出会えた事がとても嬉しい。
また、岩波ホールも初めて行きましたが、街の公民館みたいな感じですが、古き名館的で良い感じ♪
派手なエンタメ作品も良いですが、こういう時だからこそ、観てもらいたいしみじみとしたお勧めの作品。
何回も良いを連呼しているのは、それだけ良い映画だったんですが、自分は今年前半ではナンバーワンかも。
ちょっとでも興味と機会がありましたら、是非是非な作品で絶対お勧めです!
こういう精神性に触れることが出来てとても幸せだ
「ブータンは世界一幸福な国と言われているそうだが、先生のような人が幸せを求めて外国に出て行く」というルナナ村の村長の言葉が本作品のテーマそのものである。
村長は村以外の場所の様子を知っているが、子供たちは知らない。自動車さえ見たことがないのだ。その分、子供たちは幸福である。知らなければ比較をしないから、自分たちの生活に満足する。村長の悲しそうな顔に対して、子供たちはみんな幸せそうな顔をしている。学級委員のペムザムの可愛さは山間の寒村にあってこそだ。
実は公式サイトを見ていなかったので、主人公が女性教師だと勝手に想像していた。しかし可愛いペムザムと村一番の歌姫であるセデュが登場するからには、主人公は当然男性でなければならない。首都ティンプーに帰りたい気持ちを翻意させるにはそれなりの動機が必要なのだ。
「先生を大切にしなさい、先生は未来に触れることができる人だ」と教わったと、子供たちは言う。未来に触れるという言葉の意味は最後まで説明されない。教師が触れるのは教室と教材と、それに子供たちである。未来に触れるというのは子供たちに触れるということで、つまり未来とは子供たちのことなのだろう。
「寒いときはドマを噛むといい」と祖母は言う。「鳥のように歌って」とセデュは言う。標高5000mを越す峠で素手のまま神に祈る村人。礼儀正しく欲の少ない村だが、文明の情報に少しずつ蝕まれていく。子供たちの知らないCarがブータンの幸福をみじん切りにするのだ。
物欲には限りがなく、入ってくる情報がさらなる物欲を生み出す。仏教もキリスト教も物欲を捨てるように説いた。物欲を充足させることに幸福はないからだ。ギターで歌うことは楽しいが、セデュが歌うヤクに捧げる歌に伴奏はいらない。山間に響き渡るセデュの歌声はコンサートホールのオーケストラの演奏などと比べても意味がない。唯一無二の美しい歌声である。一期一会の邂逅なのだ。
どのシーンを見ても、今生の別れが待っていると思えば泣けてくる。移ろいゆく村の季節も、ヤクの世話をする村人たちも、村長の渋い歌声も、一期一会だ。寒くて不便で貧しい村だが、そこには気高い精神性があった。情報に溺れて足るを知らず、物欲に塗れて常に不幸な自分を省みれば、まさに汗顔の至りである。ルナナ村は標高も高いが、それ以上に精神性の高さが日本の遥か上にある。こういう精神性に触れることが出来てとても幸せだ。本作品を高く評価したい。
緊急事態宣言中だが、座席を制限しても映画を上映する岩波ホールの姿勢は立派だと思う。不要不急の外出は控えろと政府や東京都は言うが、何を以て不要不急とするのかの具体例は示さない。それに対して岩波ホールは、映画は不要不急ではない、人生に必要なのだとして、断固たる姿勢で上映を続けている。天晴れだと思う。
美しいブータンに行きたくなった
歌手に憧れてる若い教師のウゲンは、ヒマラヤ山脈の標高4800m、ブータンで最も僻地にあるルナナ村の学校へ赴任命令を受ける。首都に住んでたウゲンは車で人口448人のガサまで行き、それからは徒歩で1週間以上かけて人口56人のルナナ村に到着。そこには、先生の到着を心待ちにする村人と子どもたちがいた。ウゲンは電気もトイレットペーパーもない土地での生活に戸惑いつつ、村の人々や子供達と過ごすうちに自分も教師として成長していくという話。
ルナナ村までのトレッキングは登山でテントと食糧を担いで山を縦走してる気持ちになった。
ヤクのフン集めはモンゴルで同様の事を経験した事が有るので、そこは一緒なんだなと思った。
幸福度世界一のブータンから、本当の幸せとは何かを問いかける作品だと思う。
大変だろうけど、機会が有ったら美しいルナナ村を訪ねてみたいと思った。
学級委員のペムザムが純真で賢くてメッチャ可愛かった。
子供たちとの触れ合いが愛おしかった
これはブータン🇧🇹という国、その文化、そしてそこで暮らす人々を知ることができる逸品。静かに感動した。
主人公のウゲンは首都ティンプーに住みミュージシャンを夢見る教師未満。彼のチャラい生活を描く序盤は思っていたテイストとまったく違うので観る映画を間違えたかと思った。
ブータンで最も僻地にあるルナナ村の学校へ赴任するよう言い渡されたウゲン。
ここからが神がかっていた。
見るものすべてに感動してしまう。
ルナナへの厳しい道のり。こんな狭い国で何故に10日もかかるのか不思議に思ったが、ここはヒマラヤ山脈だった。日本にはない高低差を知った。
へこたれないウゲン。案外根性ある。
そしてルナナ。都会の人間にとっては何にもない場所。携帯も繋がらない。着いて直ぐに帰ると言ったウゲンだったが。
ルナナの子供たちに魅かれた。
ルナナを離れることができなかった。
そこに残り、教師として、人間として成長した。
子供たちとの触れ合いが愛おしかったなぁ。
観る自分も満たされていった。
子供たちをたちを撮っているだけで十分だった。
色々な世界を見せてくれる映画ってホント素敵。
岩波ホール ありがとう!
標高4800m 人口56人 電気も水道もない山村に 首都ティンプーから青年教師が赴任して来る
その青年の顔を見て、22年前に見た映画を思い出した。
そう これは、もう一つの『初恋の来た道』
出演者達は、ブータンの僻地 ルナナに住む人たち 削ぎ落とした台詞 カット で 彼らの無垢の表情が鮮やかにドラマを産んでいた。
お上のお達しに多くの小屋が閉めている中 岩波ホールで鑑賞
こんな時だから、映画館で地球の果てに旅したい いもやで美味しい天ぷらを味わいながら感謝した。
ブータンの景色には感動したが…
ブータンの美しい国土の描写は素晴らしかった。
が、ストーリーの方はありがちな展開で、深みを感じられず、期待を裏切られた。残念!
特に、最後のシドニー のシーン、「やっぱり若者は都会に出て行くのだ」って事位しか訴求してこない。
ブータンの抱える地方と、首都の格差や人々の思いの段差などをもう少し炙り出して欲しかった。
風の音を聴け
教師がサッカーの香川選手に似ていて、気を取られてしまうのには参った(笑)。
「僻地で苦闘する教師の物語」を予想していたので拍子抜けしたし、正直なところ、退屈して居眠りしてしまった。
足りないのは物質面だけで、心の面では他のどの場所よりも、やりやすかったにちがいない。
ただ、都会では落ちこぼれの若い教師が、村人に「先生」と持ち上げられて歓待されるのは、いささか滑稽だ。
「求められたから、頑張れた」というのは分かるが、キャラの造形が弱すぎる。この教師なら、それまでの4年間において「教師に向いていない」となっていたのは不自然だ。
ラストの別れのシーンの“お涙頂戴”はいただけない。
泣かせたいなら中身で泣かせなさい、というのが自分の感想だ。
この映画の主張は、おそらく牧歌的な「山の教室」を描くことそのものではなく、現代化で変わりゆくブータンの姿に対する、“時代錯誤”的とも言えるアンチテーゼではないのか?
終映後のトークによれば、首都ティンプーでは、スマホが普及し、車も一家に一台だそうだ。しかし、ルナナ村の子供は「Car」を知らないのである。
今や農業人口は5割に減少し、ホワイトカラー希望が多いという。
教師が英語の本を読み上げて、生徒が分かっているのでビックリした。
かつて教師不足のために、インドから大量に教師を呼んだ経緯で、小中高そして大学まで、英語で授業が行われているそうだ。
「ゾンカ語」という公用語をネイティブに話すのは、76万人いる国民の3割に過ぎず、英語が共通語としての機能を果たしているのかもしれない。
しかし、確固たる共通言語を持たないとすれば、一国としてのアイデンティティを維持するのは容易ではないはず。南部のネパール系住民の問題もあるようだ。
自分は全く気付かなかったが、この映画はルナナ村のようなハイランドならではの、“強い風”の音が聞こえるという。
風の音を聴け、である。
先生は未来を教えてくれる
場所を日本に替えても、僻地の若者が東京に憧れるのは同じだ。だけど、そうやって出てきた都会の生活の中でふと自分は何者であるかと振り返ることがある。(もちろん、日々の生活に流されるか、自分は都会の人間になったと勘違いしたまま振り返らない人もいるが。)
振り返ることができた人は幸せだ。たとえその感情が郷愁にも似た、ネガティブなものだとしても。そこには、形にはならない何かが存在する。迷ったり不安になったりした時に、自分の中に拠るべき何かがある。ラスト、ウゲンが歌いだしたとき、彼の胸中に去来した感情は、例えようのないそんな「何か」なのだろう。
そうやって見聞を広めた人間が、ひとつの土地(ルナナ)に根付いて生きてきた人たちと交わう。その意義を知っているからこそ、村長たちは若いウゲンにさえも敬意をもって先生と呼ぶのかもしれない。そんなルナナの人たちは「先生は未来を教えてくれる」と言う。彼らこそ、人生の生き方を身をもって教えてくれている気がした。
幸せの教科書
世界一幸せな国と言われているブータン。それは人それぞれの主観で、もっと幸せな場所は他にもあるだろう。
ただ「国民総幸福量(GNH)」を導入し数値化しようとした、その決断と思考が人の心を掴むのだと思う。
そんなブータンの実際の村を舞台に撮影された。歩いて6日間もかかる僻地中の僻地だ。
電気も通ってなく、太陽光発電も安定していない。「KITCHEN」と書かれた、土に穴を掘ったポットン便所があるぐらい。決してお世辞にも恵まれた環境とは言えない。
そういう原始的な暮らしを生理的に受け付けない人も多いだろう。特に衛生的で便利な日本に暮らしている人たちはなおさら。
でもそこには「ない」が「ある」のだ。
インターネットも届いてなくスマホもないから、暮らしにすべての神経を集中できる。流行りの丁寧な暮らしやパーマカルチャーを地で行っている。
それは生きていくために本当に必要なものが鮮明になるということ。
勉強を嫌がる先進国の子どもたちとは裏腹で、生きていくため、夢のために学びたいと目を輝かせるその村の子どもたち。
そこに望まず赴任された新米教師の心の変化で、それらの大切さを改めて痛感させられる。
目をキラキラさせるペン・ザムがかわいい。笑
そして何より景色がきれい。
学校の教材として子どもたちのみならず、大人たちにも観せたい作品。
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