「モヤモヤがいつまでも心にわだかまる」空に住む 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
モヤモヤがいつまでも心にわだかまる
多部未華子の直実、岸井ゆきのの愛子、それにムミラ改め美村里江の明日子の3人の現代女性の心模様を描いた作品である。多部未華子に可愛らしさを封印させた演出は賛否が分かれると思うが、本作品を文学作品と見るのであればこういう演技もありかなとは思った。
同じマンションに住む若手俳優時戸森則と直実との間で文学的な会話が繰り広げられるのだが、この会話がどうにも頭に入ってこない。言葉が上滑りしていて真実味が感じられないのだ。自分の言葉で話していないからだと思う。敢えてそういう演出にしているのだろうとも思う。
ひとつだけ「地面に足がついていない」という時戸森則の言葉が印象に残る。タイトルの「空に住む」に呼応するような言葉であり、つまりは生と死、現実を実感として受け止めきれていないという意味に理解できる。
直実にとっての現実は両親の死である。墓に納めた両親の骨よりも遥かに高い39階に住むことで、両親の死が抽象的になってしまう。本作品の直実は両親が事故で死んでも泣くことが出来なかったことを悩む。しかし文学的な人にありがちな話で、親の死を無意識に相対化して抽象化することで、悲しいという感情に結びつかなくなってしまう。
当方は高校時代に国語教師から「親が死んで泣かない奴は人間じゃない」と言われたことがあるが、アルベール・カミュの「異邦人」は「Aujourd'hui, maman est morte.」(「今日、母が死んだ」)ではじまる。母が死んでも悲しまないムルソーが非難される話で、カミュはこの小説によって「親が死んで泣かない奴は人間じゃない」という短絡的なパラダイムの終焉を告げたのだ。
「異邦人」は社会と人間関係のありようの変化について書かれた小説でもあり、それは現在日本の冷血とも言えるSNS社会を予言したかのようでもある。本作品では、地面に足がついておらず、情緒が貧弱になって、自分でも信じていない上滑りのする言葉を呟きながら生きていく、そういう「異邦人」のような精神性に対して、現実を受け入れて生と死を実感する体験を対比させることで、脆弱な現代人のありようが浮かんでくる。モヤッとした作品でありながら、そのモヤモヤがいつまでも心にわだかまる、なんとも不思議な映画だと思う。