ギレルモ・デル・トロのピノッキオのレビュー・感想・評価
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親子の愛の物語り
ゼペットとピノッキオの愛が溢れる映画でした。
2人が本物の親子になるまでの、そして別れるまでの道のりを、ファンタジー色豊かに描いた、素敵で美しいストップモーションアニメーション映画です。
製作から完成までに13年かかった。
と、ギレルモ監督が語っていましたが、
メイキング「ピノッキオ手彫りの映画、その舞台裏」を観ると
成る程、気の遠くなるような手間と時間が掛かっています。
(このアニメーションは製作費が3千500万ドル)
この作品もNetflixの資本力で完成をみました。
私が以前観たピノッキオはテレビ映画だったのかもしれません。
ピノッキオは手のつけられないほどの悪戯っ子!!
ゼペットは手を焼いて振り回されて大騒動!!
そんな負のイメージを抱いていました。
ところがどうでしょう。
「ギレルモ・デル・トロのピノッキオ」は、
心根の優しい父親想いの〈ラブリーボーイ〉
いっぺんに好きになってしまいました。
ミュージカル・アニメ。
ピノッキオがカーニバルの団長ヴォルペ伯爵の策略に引っかかり
(子供ですもの)
借金を返すためにカーニバルに入るとき歌う、
「ミオパパ」
♪チャオ・パパ♪
♪ミオ・パパ♪
♪さよなら、またね♪
♪マイ・パパ♪
ピノッキオ役のグレゴリー・マンの歌声がチャーミングでとても心に沁みます。
ピノッキオやジュゼッペや他の出演者の歌う挿入歌は
とても美しく親しみやすいメロディラインです。
この映画の語り手であるクリケット(コオロギ)のセバスチャン。
ユアン・マクレガーが演じていますが、軽妙で実に多彩で多才なキャラクター。
ケイト・ブランシェットはスパッツァトゥーラという名前の市長の
ペットの猿の役です
ギレルモ監督のピノッキオなら、
「たとえ1本の鉛筆の役でも出たかった」と述べています。
猿ですのでキャガギャガの擬音だけで台詞はありません。
それでもどうしても出たかったそうです。
今までに観たストップモーションアニメの中でも、最高の出来栄え。
映像の美しさは極め付けだし、
夢溢れる異形のモンスターたちは美しくも怪しく楽しい造形です。
イタリアの町の美しさ。
教会の十字架に架けられたキリスト像。
何から何まで目を奪われます。
ピノッキオの顔そのものがなんとも愛らしい。
やはり松ぼっくりを連想しますね。
お約束の“嘘を吐くと鼻が伸びる“設定も健在で、
枝が伸びて茂り小さな葉をつける様は愉快です。
ピノキオといえば「星に願いを」が有名ですが、
その曲がかからないことを忘れているほど満足度が高い。
そして父親を一途に慕うピノッキオは愛らしく健気。
“木の人形なんか死んだカルロに較べたら、厄介な重荷“
とまでゼペットは言います。
深く傷つくピノッキオです・・・。
原作は19世紀の児童文学「ピノッキオの冒険」
とても反戦色が強く、学校に通う事の必要性を強く訴える内容とか。
今作の時代設定は第一次世界大戦下のイタリア。
ファシズム時代でムッソリーニが台頭。
ジュゼッペの息子カルロは戦闘機が機体を軽くするために
投下した爆弾で死んでしまいます。
ジュゼッペの悲しみは大きく、酒浸りで世捨て人。
酔っ払った勢いでカルロの形見の松ぼっくりが大きくなった松の木。
それをを切り倒して、木の人形を作って眠り込んでいると
〈木の精霊〉が魂を吹き込み名前をピノッキオと付けて、
言葉を話すようになる。
〈木の精霊〉を演じるのはティルダ・スウィントン。
後半では〈死の精霊〉の役割も果たして、ピノッキオを2度死から
蘇らせます。
青色にキラキラと輝きスフィンクスを思わせる姿は女神のようです。
声にエコーが掛かっているのと、低音で厳かに話すのでとても神秘的。
カーニバルに入ったピノッキオは、
ジュゼッペの借金を返す約束で、カーニバルのスターになり世界を巡業。
べニート・ムッソリーニの御前で芸を披露するものの、
「ムッソリーニをやり込める歌詞の歌」を歌い喝采を浴びる。
カーニバルの団長ヴォルペ伯爵をクリストフ・ヴァルツ。
ファシストの市長役は監督の盟友ロン・パールマン。
敵役で見応えあります。
今回はじめて知ったのですが、ギレルモ監督のお父様が誘拐され、多額の身代金を
要求されて、その身代金をジェームズ・キャメロン監督が一時的に肩代わりした・・
そんな経緯があったそうです。
そのときの辛い体験が、ピノッキオの父想いの優しさに繋がったのでしょうか?
〈死の精霊〉のおかげで2度も生き返るピノッキオ。
大きな魚の怪物に飲み込まれたゼペットも助かり、
瀕死のピノッキオも〈死の精霊=木の精霊〉に、
《本物の少年》として生きなさい、
とそう告げられますが、人間の少年になったという訳でもなさそう。
この辺の解釈はグレーゾーンだと思いました。
人は死ぬ
いつかは死ぬ。
限りない生を精一杯に生きなさいとのメッセージも。
コオロギのセバスチャンも死ぬ。
ピノッキオは世界周遊の旅に出る。
ピノッキオだっていつかは死ぬ。
エンドロールでコオロギのセバスチャンが、か細い足でステップを踏み
踊ります。
ユアン・マクレガーの歌声も軽やかで、ステップを踏むように伸びやかです。
観た後に愛に満たされるのはギレ・ルモ監督の優しさでしょうか。
至る所に優しさと愛がある。
感動せずにはいられませんでした。
松ぼっくりが落ちる。それで、人間である意味をこの映画は解いている。
『僕もパパも怖くない。戦争大好き』さて、ピノッキオはそう言うが、鼻が伸びなかった。伸びればなぁ!って思ったが。それは
兎も角
『幸せだった。だから、こんなに悲しいんだ。』って台詞が良かった。
原作の終わり方と違うが、それも良かった。
松ぼっくりが落ちる。それで、人間である意味をこの映画は解いている。命があるから人間で、命あるもの必ず死を迎えるって事だ。
姿が最後まで変わらないのが、彼らしい表現だ。そこが傑作たる所以だ。
ラストは違うけど良いラスト
ギレルモ・デル・トロの作品なんでダークファンタジーを想像していましたが
しっかりと素晴らしいピノッキオになっていました。
ミュージカルの要素も含みいい映画でした。
自分が知っているピノッキオとはラストがちょっと違うけど
良いラストじゃないでしょうか。
良かった!
人形が徐々に社会の理不尽さを学び自立していき、 本当の人間になるまでを描き、誠実に生きることの大切さが込められ、今日でも通用する普遍的な教育理念が多く詰まった作品 『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』。
悪趣味で奇怪なイマジネーションを、全く臆することなく具現化させ、魅惑の物語を成立させつつ、慣れ親しんだ童話をベースに、オリジナルの奇抜な解釈を付与させ、唯一無二の世界観を構築してきたという感じでした。また、 過酷を極める現実社会を幻想という名のベールで包み、 ゴシック調のホラーを漂わせながら、このうえない多幸感を丁度よく演出する能力にも長けていて、今作はその能力がピノッキオにバッチリハマっていた印象です。
19世紀を舞台にしていた原作とは異なり、時代を「国家ファシスト党」 が席巻する1930年代 (?) へと変更し、 木の人形にまつわる「死」と「不死」のテーマをダークに描き出していました。 木の人形であることを印象づける質感、生みの親も恐怖する不気味さ、それは怪獣やモンスターへの異様ともいえる愛情を持つギレルモだから出来た芸当。そして永久的に死ぬことがないという 利点と、時代を超えて生き続ける重荷を背負ってしまっていると いう過酷な運命にフォーカスし、 幾度となく現れる暗い死の世界 も相まって「死」 が強調されます。
ストップモーションというのもナイスな組み合わせで、 作画によ るアニメーションでは表現し難い “実体感"や、 実写的な温かみを 持つこの手法と、 生命のない人形が生命を得て動き出す「ピノッキオ」という題材と、強調された 「生死」がシンクロし、高い強度を持った映画に仕上がっていました。
“生きている”とは、何なのか。 生命は何のために生きようとするのか。それを「死」を強調することで逆説的に問い直すというのは、黒澤明監督の 『生きる』 を彷彿とさせます。 背景も1930年代近くになることで、ファシスト体制への批判的な視点も起動し、土壇場で自分の良心や、 本来の自分の考えを取り戻し、自身の生き方に誇りを持ち、自主性を持った選択をするドラマがより説得力を帯びている印象でした。
市民の人権を認めず、 国家主義によって反対する人々を弾圧して戦争に向かわせる独裁政治。 国家の目的と市民の目的を一体にさせようとする政治体制であるファシズム。 そこに個人の幸せはと も見いだせる状態ではないはずです。
だからこそ、善悪の問題や政治・信仰の問題を抜きに、 自分の持つ「良心」 や信仰心をもって“生”に意義を見出し、 自分が自分であることを認められ、 ありのままを愛される姿が感動的に見えました。人間ではない存在や、 差別される存在を、とりわけ深い愛情をもって描いてきたギレルモの愛情は、単にオタク的な嗜好だけでなく、彼らが抱える「悲しみ」 にも起因してるらしく、とりわけ日本の妖怪が文化に根付き、時に愛されるキャラとして描かれている美しさとパワーに影響を受けているようです。
故に何か得体の知れない、 奇怪な世界へ誘い込まれる喜びと恍惚感がありながら、 イノセンスと力強さ、 人間的な打算や葛藤とは無縁の率直さを感じ、心のなかで大拍手でした。
人間の「良心」をテーマにするだけではなく、それに連なる、生きることの意味や、 自分が自分らしくあることの意味を、 深い部分で描き出すことになった本作の試みに強く感動しました。以上!
音楽を使った知ってるつもりで知らないピノッキオ。
内容は、イタリア🇮🇹の童話であるピノッキオを下敷きにしたギレルモ・デル・トロ監督による新たな解釈によるストップモーションアニメ作品。印象に残った台詞は『人生に意味を与える唯一のものーそれは儚さだ。』ピノッキオが死の世界に初めて行った時に精霊🧞に告げられる台詞。生き死の解釈についての物語を言葉で分かりやすく伝える場面は簡単で難しい様に感じましたが、そんなところが好きです。印象的な場面は、あらゆる場面で使われる青色表現の多様さに驚かされたとストップモーションとは思えないほどの素晴らしい滑らかさ。そしてキャラクターや美術の製作者の心意気と愛情が伝わって来そうな所が個人的に好きです。素晴らしくて制作日数15年の歳月を2時間で観るには苦惜しい感を覚えます。個人的にコオロギ🦗のセバスチャン・J・クリケットの部屋にショーペンハウアーの額が飾られている所は、この世界の根本は不条理で盲目的な意思であるとの厭世思想やペシニズムを感じとても楽しく観る事が出来ました。デルトロ監督の世界観と歴史的背景や人物背景には脱帽します。レイヤー構造的で物語の流れに様々な視点を盛り込みまとめ上げた素晴らしい作品だと思いました。ストップモーションアニメは、長い年月が掛かる分、キャラや世界観の作り込みに愛情や魂が乗り移るのて面白い作品が出来るのではと思います。本のピノッキオは最後に本物の人間になりますが、本作では人形のままでピノッキオに出会い関わった人が人形ピノッキオを人間として見る事になり、そこで人形ピノッキオは人間としての自分自身の在り方を見つけるからこそ死を迎えるのではという視点は個人的には好きです。自分はNetflixで見ましたが、特にピノッキオメイキングの30分作品『ピノッキオ手彫りの映画、その舞台裏』が非常に面白くもし見る事が出来るなら見た方が数倍面白くこの作品を鑑賞する事が出来ると思います。
知ってるようで見た事ないピノッキオ
ギレルモ・デル・トロが『ピノッキオ』を描く。
数年前に企画・製作を聞いた時から非常に気になっていた作品。だって、ぴったりの人選ではないか。
『ピノッキオ』と言うと、ディズニーアニメの印象でハートフルなファミリー・ムービーを思い浮かべるが、去年日本公開されたイタリア製の『ほんとうのピノッキオ』ではより原作の持つ風刺性やダークさも実はある。ディズニーアニメ版も教訓など込められていたが。
ダーク・ファンタジーと言えば、デル・トロ。『パンズ・ラビリンス』の無垢な少女、『シェイプ・オブ・ウォーター』の純愛などピュアな心もある。
まさに、うってつけ。デル・トロ以外だったら、ティム・バートン辺りか。
(一度でいいから、ティム・バートン×ギレルモ・デル・トロのコラボを見てみたい…)
映像化は数知れず。去年~今年にかけて本作含め3本も映画化され、『ピノッキオ』の話なんて一分で説明出来るくらい。
しかし本作は、デル・トロによる大胆翻案、新解釈などを加味。
そこら辺が重要ポイントにもなっており、知ってるようで見た事ない、新しく彫られ命を与えられたピノッキオとして生まれ変わった。
ピノッキオの誕生過程は…
木彫り名人のゼペットじいさんが喋る丸太を彫って…というのが、原作の設定。
ディズニーアニメでは、ブルー・フェアリーの魔法によって命を与えられて。
本作は新たな要素。
愛息子カルロと幸せに暮らすゼペット。息子設定が新要素。(尚、息子の名は原作者から取られているよう)
町の皆から愛されている仲睦まじい親子だったが…。時は戦時中。戦闘機の爆弾投下によって、カルロは犠牲に…。
悲しみに暮れるゼペット。息子が遺した松ぼっくりから生えた松の木から、今一度息子に会いたい為に、亡き息子に似せた木の人形を作る。
そんなゼペットの姿に心を痛めた木の精霊が、人形に命を与え…。
これまではただ“作る”だけだったが、本作ではそれに動機を与え、親子としての物語を色濃く打ち出している。
そう。これまでも擬似親子の物語ではあったが、本作はより一層、親子の物語となっている。
亡き息子を忘れられないゼペット。
そんな“パパ”の為に、カルロに変わって良き息子になろうとするピノッキオ。
一見するとハートフルな物語のようだが…
息子を亡くしたゼペットは酒に溺れ…。時々癇癪を起こしたり…。
ピノッキオの性格もより無邪気で腕白に。その口から生まれたようなお喋りさは、時々ゼペットもうんざりするほど。
これまでは本当の親子のように仲のいいゼペットとピノッキオ。
が、本作では苛立ちや本音などのリアルな感情も吐露。
ある時ピノッキオの起こした面倒により、苛立ちがピークに達したゼペット。つい口から出てしまう。
本当の息子じゃない。お前は重荷だ。…
ただ優しいだけじゃないゼペット。ただいい子だけじゃないピノッキオ。
弱さや脆さや欠点もあって。
ただのファンタジーの世界の住人ではなく、複雑な内面を持ち合わせた事により、共感や感情移入出来るキャラに。
そんな二人が試練を乗り越え、お互いを必要とし…。
ゼペットはピノッキオへの本当の愛に気付き、ピノッキオはパパの為に。
より深く彫られた親子愛の物語が胸打つ。
ピノッキオを襲う誘惑や試練。
口だけ達者な詐欺師キツネやロバの姿に変えられたり…。
本作では欲深い人形劇師。
ロバにはならないが、ファシズム派の市長により戦争へと駆り出される。
エゴの塊の大人たち。
生きている木の人形を気味悪がり、差別や偏見。
そんな社会や体制を風刺。
しかし、いつまでも抑えられ締め付けられているばかりではない。
ピノッキオと次第に友情を育んでいく弱者や子供。
人形劇師の奴隷のサル=スパッツァトゥーラは、当初は主人に忠実でずるがしこかったが、虐げられ、ピノッキオと反逆する。
当初はピノッキオが疎ましかった市長の息子。少年兵訓練の場でピノッキオと友情が芽生え、父親からの落胆と横暴に反発する。
小さな存在が何かを動かす。そのきっかけは、一握りの勇気と、不思議な木の少年…。
クライマックスはお馴染み、ピノッキオを探しに出たゼペットが、海で○○に飲み込まれ、同じくピノッキオも飲み込まれるも体内で再会し、脱出劇。
○○が鯨であったり鮫であったりするが、本作では怪物のような超巨大魚。そのグロテスクな造形が、いかにもデル・トロらしい。
クライマックスは大作も手掛けるデル・トロならではのスリルや迫力。
荒海の描写も素晴らしい。途中、本作がストップモーション・アニメである事を忘れてしまうほど。
本作、ストップモーション・アニメなのがさらに効果を上げている。
映画やアニメーションであると同時に、何処か人形劇のような演出。
ストップモーション表現により、ピノッキオの動きもユニークに。
ピノッキオの造形も特色あり。これまではもって可愛らしかったり人間に近いビジュアルだったが、本当に“木の人形”。ひょっとしたら、これまでで最も“らしい”ピノッキオかもしれない。
時々面倒起こす腕白だけど、健気でひたむき。その姿に、木の人形だろうと生身だろうと変わりない。
お馴染みコオロギのクリケットやグロテスクな巨大魚、より木の人形らしくなったピノッキオなど、ちょい不気味であったり異質なキャラ造形。死後の世界や死の精霊など、『ほんとうのピノッキオ』と通じるダーク・ファンタジー色。
風刺や死後の世界でトランプ遊びに興じるウサギなどのブラック・ユーモア。
それでいて、ディズニーアニメのようなハートフルやファミリー性もある。
アレクサンドル・デスプラの音楽やミュージカル要素。
豪華なボイス・キャスト。ケイト・ブランシェットはどのキャラの声?…と思ったら、あのサルのスパッツァトゥーラ役とは、何て贅沢!
これまでのそれぞれの『ピノッキオ』の要素や魅力を一つにしたような、唯一無二のピノッキオ。ギレルモ・デル・トロのピノッキオ。
『ピノッキオ』の映像化作品としては、ディズニーアニメと並んで印象や記憶に残る作品になっていくだろう。
星に願いを。夢は叶う事を信じさせてくれたこれまでの『ピノッキオ』だったが、本作はギレルモ・デル・トロ作品であり、親子の物語であり、もう一つ。
命の物語。
木の人形故、不老不死のピノッキオ。何度か死ぬが、その度に生き返る。
が、ある局面で迫られる。永遠の命か、一度きりの命か。ゼペットの命か、自分の命か。
限りある命や避けられぬ死があるからこそ、生きるとは時に悲しく切なく痛々しくも、尊く愛おしい。
試練や冒険を乗り越え、晴れて“家族”となったゼペットとピノッキオとクリケットとスパッツァトゥーラ。
いつまでも幸せにめでたしめでたし…ではなく、ゼペットが旅立ち、クリケットやスパッツァトゥーラも…。
一人残ったピノッキオ。切なくもあるが、彼のその後は…? 不思議な思いを馳せ、余韻を残す。
限りある命を。
ギレルモ・デル・トロはただのダーク・ファンタジー作家ではない。
ピュアなハートの持ち主である事を改めて感じさせてくれた。
誰かと一緒に見て
これほど、造り手に愛された作品は他にあるのだろうか?その存在が愛でしかない
劇場で鑑賞しやうと思ったのですが、時間がなくNetflixで視聴しましたが、今回はこれで正解でした
家族や好きな人と一緒に観て、お互い無言で染み込ませました
2022はこれで締めてしまおうか?と、思ってます
是非、ご覧になってください
現代風設定での古典再生産の繰り返しに辟易しているあなたに、は、言いすぎかな?w
質が高いアニメ
ピノキオの話をちゃんと知らないのでこんな話なんだ~と思ったけど、後から調べたら1800年代に作られてるからムッソリーニが出てくるわけ無いですね。でも原作のあらすじを読んだ限りこっちのほうが面白いはずだな。もちろん子供には難しすぎるけど。声優がやけに豪華だけど実写よりギャラが安いのかしら?そこが一番気になりました。
ワンダフルライフ
不死身の苦悩といえばザルドスを思い出すが、生死を客観視すると、こちらの判断基準にもブレも覚えて、不思議な感覚にとらわれる。ピノッキオの元の話はうる覚えであるが、ギレルモの脚色だろうか、2時間の尺を十分に使って仕立て直した秀作である。
ピノッキオの木質感がしっかり残る描写が面白い。
ピノッキオが好きな方にはぜひ。
今年363本目(合計638本目/今月(2022年12月度)16本目)。
ピノッキオをテーマとした映画としては、「ほんとうのピノッキオ」(2021)などがありますが、いかんせん「元のテーマ」は共通なので、どう「翻案して」描くか、がポイントになります。
他の方も書かれている通り、第一次世界大戦~第二次世界大戦(前)のイタリアを舞台とするので、そのリアル世界史(ファシズムの台頭、ムッソリーニ等)は求められますが、中学までの世界史の一般的な知識で十分かなというところです。
公式サイト等で比較的長めに予告など見られるので、行くいかないは結構参考にしやすいです。
若干わかりにくいセリフ(上記の通り、どうしても手薄になる分野が問われるため)があることは事実ですが、きのう(10日)からはnetflixを契約していれば無料でも見られるので、映画館で見て「???」と思ったところもそこで補うことができます(netflixは個別に課金してみることができないので注意)。
特に減点要素まで見当たらないのでフルスコアにしています。
それにしても、ピノッキオのように「評価・相場」がある程度決まっている映画でも、描く方や描き方によってまるで180度違う映画になるというのも面白いですね。
「ほんとうの~」はVODで見られるかはちょっとわかりませんでしたが(できなっそう?)、できるなら2つ見比べるのもおすすめです。
私たちが好きだったデルトロはもういない!!
デルトロはアカデミー監督として有名人になってしまったので、往年のダークファンタジーや作家性を期待すると、ごく普通のピノッキオで裏切られます。原作寄りの残酷なストーリーでもなく、ピノッキオは生まれたばかりなのに生意気で終始落ち着かない性格の為、愛着が沸きません。やたら戦争に行きたがっているので、戦場を経験してくれば良いのではないでしょうか。同時期のネトフリ「スクルージ」と同じく、時折とりあえず作ったような親しみ難い歌のシーンで尺稼ぎをしているのも、こちらは全く楽しい気分ではないのでイラつきます。ピノッキオを題材にして、ディズニープラスを出し抜こうとして失敗した印象です。
ちょっとこの映画についてアニメーターと語り合いたい。
去年同タイトルのイタリア映画を観てたんで、迷ってたのですが「かなりアレンジしてるよ」と勧められてみに来ました。
やっぱデルトロただじゃ済まないね。ちょいミュージカル要素入れつつ戦争絡めて重めの設定です。
私は特にストップモーションの技術的な所でびっくりしちゃいました。一回役者で撮影してるんじゃないかな?と思う様な自然な動き。ピノキオの目は置き換えてるのわかるんだけど、人間の表情は置き換えにしてはスムーズすぎてCGかもと思った位。この辺はメイキングさがして日本の技術者と話し合いたいレベル。(後日メイキング観て人物の顔は中にアーマチャ入ってて表面がシリコン製なねがわかった。それで表情滑らかなのね)
デルトロの映画はいつもファシズムへの怒りと絶対的父性への反抗心が織り込まれていますが今回もガッツリです。アニメなんで得意の口裂けもありません。
妖精姉妹の声はティルダ様とガラドリエル様で泣く子も黙るこれ以上ない贅沢な布陣。
コオロギというより、、ツチハンミョウみたいだったなぁ。
ギレルモ・デル・トロ監督による新しいピノキオ像
独特の作風がおなじみのギレルモ・デル・トロ監督によるピノキオのストップモーションアニメ映画。
大筋はお馴染みのピノキオのお話なのですが、そこに独自の要素がちりばめられていて
その部分が非常にこの監督さんらしいと思いました。
ストップモーションアニメを用いた人形劇のようなタッチの映像がピノキオという題材にとてもマッチしていて妖しい美しさを醸し出しています。
正直上映館数が少なくてもったいない!
もっと多くの観客に見てもらいたい秀作です。
まさに「ギレルモ・デル・トロの」ピノッキオ
まず、これぞギレルモ監督作品だなと感服。
ダークで悲惨で物悲しい。だけどちゃんと救いもあって、クスッと笑えるシーンもある。
監督の作品が大好きで過去の作品はすべて見ていますが、結末は一番温かい気持ちになれた。
物語始めの仲の良い父ゼペットと息子カルロの生活がとても微笑ましいけど、第一次世界大戦時の話だし、そもそもギレルモ監督だし、どこかで一気に悲惨なことになるはず…とびくびくしていたら案の定。教会にピンポイントで…というのも悲劇。
愛する息子を失った悲しみ(とやや憎しみ?)に塗れながら作った木の人形に、妖精が命を吹き込んで生まれたピノッキオ。
誕生したばかりのピノッキオは歩き方・動き方がおぞましく、顔もちょっと異形寄り(個人的な感想です)。素直にかわいいとは言えないのだが、物語が進むにすれてめちゃくちゃかわいく見えてくる。
自分が誕生したことをとても喜び、色々な物に興味をひかれて、楽しい面白いと歌うピノッキオ。
当然だがピノッキオは世間をまったく知らず、突飛な行動ばかりするので、ゼペットはちょっと困り気味。
ピノッキオに愛する息子カルロのように育って欲しいと願うゼペットじいさん。
カルロではないしカルロにはなりたくないピノッキオ。
どちらの思いも分かるから、すれ違ってしまうのは悲しかったな…。
印象的なシーンはピノッキオがゼペットじいさんの元を去るシーン。
ゼペットとの約束を守らず学校に行かず、甘い言葉に誘われてカーニバルへ行ってしまい、結果大事故が起きてしまう。
あまりのショックと疲労感からか、怒ったゼペットがピノッキオに「なんて状況にわしを追い込むんだ。どうしてカルロのようになってくれないんだ。おまえはとんでもない重荷だ」と暴言を吐く。
当然、ゼペットじいさんは人間なので嘘をついても鼻は伸びないが、ピノッキオはそれを知らない(自分と同じで嘘をつけば鼻が伸びると思っている)ので、ゼペットの鼻は伸びなかった=本音を言ってるんだと思ってしまう。
生まれたばかりのピノッキオが「パパを傷つけてどならせたくない。パパの重荷になりたくない」と家を出ていくシーンは本当に悲しかった。
人間ではないし、血が繋がった息子でもないけど、子どもの口から出る「重荷」という言葉がこんなに辛いとは…。
ピノッキオを慰めるセバスチャンの「父親も絶望することがあるんだよ。そして一時の感情に任せていろいろ言ってしまう。だがやがて気付く。本気じゃなかったと」という台詞は、多くの人が身に覚えのあるものじゃないかと。
後々この台詞がまた出てくるシーンがあるけど、そこも切なかった。
個人的にはセバスチャンによく頑張ったで賞をあげたい。
そしてキャンドルウィックにも幸せになって欲しい(生きてるよね?)
ホットチョコより熱くて、胸の中にあるもの…現実を捉える命を吹き込む!デルトロらしさを堪能できる手作りな魔法
そのままを受け入れて進む。いい子だから。親から子、子から親への愛。無理に変えようとしなくていい。命とは美しいものだから。起こるべくことが起こって誰もがこの世を去る。けど胸を張って言いたい、本当の自分が好き!!
良心と誘惑、生きることは楽しいことばかりじゃなく痛みが伴うものだ。『ナイトメア・アリー』に続いて"見世物"としてのそれ。きっとより原作の精神に忠実な教訓やメッセージに満ちたダークな面にミュージカル要素。なんて魅力的な造形とストーリーテリングの融合、手作りならではの温かさが毎フレームに命を宿す。生き生きと美しく目を奪われるストップモーションアニメによって紡がれる普遍的な物語に心奪われる心に棲み憑く魔法。みんな大好きギレルモ・デル・トロの自分の中で幻になりつつあった企画、『パンズ・ラビリンス』的でもあって創造の幅に驚かされる。楽しそうだもん。ねぇ、これは何?何に使うもの?いいね!興味津々にそそられる冒険、命の探検へと旅立つ。
父と息子の物語。普通の男の子がいい!甘い言葉…学校に行くよりみんなに好かれたい!ウソをつくとこうなる。どうしてカルロ(息子)のようになってくれないんだ!お前はとんだ重荷だ。署名も書き置きもニコちゃん太陽、パパのことが大好きだし重荷になりたくない。見るもの触れるもの全て新鮮に映る子供らしい純粋無垢な真っ直ぐさが世の中に疑問符を投げかける。自分の都合で、利益のために群がる周囲の大人たち。戦争など間違ったことを間違っていると言えない風潮、誰も疑問を挟みさえしない集団意識。…全財産あげるから、ひと目"息子"に会いたい。ボイスキャストが適材適所すぎる!その一例としてユアン・マクレガーの役柄は、彼がディズニー俳優である中でも、昨今の実写化ブーム火付け役『美女と野獣』や、導くという意味ではかのオビ=ワン・ケノービも思い出すかも?
勝手に関連作品『ピノキオ』『パンズ・ラビリンス』『ナイトメア・アリー』『ジャイアントピーチ』
フランケンシュタインを念頭に置いて「リファイン」された、ギレルモ・デル・トロ印の「真・ピノッキオ」。
今更ながらWiki で見て知ったんだが、ピノッキオの「ピノ」って「Pine」=「松」から来てるのね。
「松っ子」ってわけだ。なあるほど!!
ちなみに、森永の「ピノ」もイタリア語の「松ぼっくり」から来てるそうです。
ふと気づくと、意図せずして『マッドゴッド』『ノベンバー』『ピノッキオ』と、ストップモーションの映画を立て続けに三本も観てしまった。こういうのって、なんでか被るよね。
そのなかでも『ピノッキオ』のストップモーションは、ちょっと綺麗すぎるくらい綺麗で、どれくらいのCG補正がかかってるのかと疑わしくなるくらい。これだけ動かしまくった2時間の映画を1年でさくっと作っているところを見ると、やはりジム・へンソンのスタジオはガチで凄腕揃いなんだろう。
ただ、ここまで綺麗に仕上げちゃうと、ストップモーションにこだわって作った意味が、逆に薄れちゃってるような気もするなあ……。
意地になってストップモーションでの製作を貫いたって言ってるけど、その割には限りなく3Dグラフィックスに仕上がりが近づいてるわけで。なんだか、プロに任せてたら、最新技術のせいでなし崩しになにかの軍門に下ってしまったかのような……。
まあ、別にストップモーションだからと言って、「かくかく」してたり、「ハンドメイド感」にあふれてたり「しなければならない」道理も別にないんだけど、せっかく蚤の市に行ったのに、売ってる商品の作りがプロっぽすぎて、逆にレディメイドに見えて買う気が失せちゃった、みたいなところは正直あったかも。
でも映画の中身は、思っていた以上に普通に良いお話で、個人的には大いに愉しめました。
ギレルモ・デル・トロだから、もう少し強烈な「クセ」を出してくるかと思ったが、全然そんなことはなく、ほっこりと優しい気持ちになれる、ちゃんと子供でも楽しめる「まっとうな児童映画」にしあがってて感心。なんだ、意外にこの人空気読めるじゃないか!
と思ったけど、考えてみると前作『ナイトメア・アリー』でも、フリークスと奇術まみれの頭のおかしい原作に寄せて、もっと狂った作りにするのかと思いきや、結構まっとうなノワールに仕上げていて、一般向けにずいぶんと「自制」してる感じがしたものだった。
やっぱり、オタクの割には客層に合わせて空気の読める監督さんなんだな。
本作は意外なくらい「元ネタ」に当たるディズニー版の設定とキャラクターを素直に受け継いで作られている。というか、もともとの童話の『ピノキオの冒険』よりも、明らかにディズニー版のほうに依拠した「私的リメイク」になってる感じ。コオロギがメインキャラとして君臨してるところとかもそうだが、そもそも「ミュージカル」として作っていること自体、ディズニー・リスペクト以外の何物でもない。
ギレルモ・デル・トロ自身、ディズニー版への限りなき愛着を縷々語っていて、「原作」にあたるアニメを貶めるようなつくりにする気は、さらさらなかったようだ。
多少コオロギがリアル寄りでゴキブリめいていたり(作中でもゴキブリ呼ばわりされる)、ピノッキオの登場シーンがホラーじみてたりと、デル・トロっぽいっちゃデル・トロっぽいけど、チェコのストップモーションあたりの「エグみ」と比べれば、十分子供向けといっても通用するキャラデザだと思う。
とはいえ、時代設定をわざわざ第二次大戦前夜に移して、いかにも愚劣きわまるムッソリーニを出してみたり、興行主や町の有力者を戯画的なまでのろくでなしに描いてみたりと、彼らしい「改変」を加えては来ている。
『シェイプ・オブ・ウォーター』でも示した、権力者への過度の嫌悪感と、諸手を挙げての弱者肯定。個人的にギレルモ・デル・トロのそういうところって、単純に胡散臭くて気持ちが悪いのだが、トランプ憎しで作品全体が変な生臭さを放っていた『シェイプ・オブ・ウォーター』と比べれば、「勧善懲悪の子供向け寓話」のなかに自らの政治信条を落とし込んでいるので、観ているこちらも素直に飲み下せる。
『シェイプ・オブ・ウォーター』のような「大人向けの寓話」で、掃除婦と半魚人がナチスみたいな軍人に打ち勝つのは、しょせん荒唐無稽な夢物語に過ぎない。あの話は『パンズ・ラビリンス』同様、本来はアンハッピーエンドで「終わらせないといけなかった」作品だったと僕は今でも思っているし、そうしなかったせいで、ギレルモ・デル・トロの必死さ、余裕の無さだけが伝わってくる、ただの痛々しいオナニズムの映画になり下がってしまった。
一方、「子供向けの寓話」なら、いかに監督が「虐げられる弱者」に超人的な活躍の場を与えても、「もともとそういうジャンル」なので、ちっとも違和感がない。
考えてみると、「異形のクリーチャーと出逢った人間がお互いに心を通い合わせ、周辺の生活弱者と力を合わせて、巻き込まれた暴政と対決し勝利を収める」って意味では、ほとんど『シェイプ・オブ・ウォーター』の焼き直しみたいな企画なんだな、これ。
でも、格段に「語り口」と「説得力」は巧さを増している、と。
ー ー ー ー
『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』を語る視座は、いくつか存在するだろう。
まずもって、突き詰めて考えれば、これは「父と子」の映画だ。
監督自身が示唆しているとおり、ピノッキオの物語は、「フランケンシュタイン」とある種、同じ構造を持っている。両作とも、勝手に作られた人造人間が、創造主から「善の心」を期待されながら、悪さばかりする話だ。あるいは、その異形性ゆえに差別され、迫害され、「父の期待に応えられない自分」に傷つく話だ。
本作には、母親不在の「父子」が三組登場する。
ジュゼッペ爺さんとピノッキオ、町の有力者(軍人)とその息子、興行主と手下のサル。
「息子」たちは皆、つねに父親の愛を渇望している。
でも、思った通りの愛情を返してもらえない。
三人が「悪いこと」をするのは、それぞれに若干原因に相違がある。
ピノッキオは持って生まれたADHDの傾向によって。
有力者の息子は運動音痴の劣等感と、父に認められない苛立ちが嵩じて。
サルは主人に対する独占欲とピノッキオへの嫉妬心によって。
有力者と興行主の子どもへの接し方は論外だが、ジュゼッペもまた、「亡き子の身代わり」としてピノッキオを観ているという意味で、ずいぶんと残酷な仕打ちをしているともいえる。
結局、改心できたジュゼッペは幸福な余生を約束され、できなかった二人は相応の結末を迎えることになるわけだ。
ちなみに、親子の情愛の意味合いを探るタイプの映画で、ここまで女性性が排除されている作品も珍しい気もする。いやたとえば『キッド』とか『自転車泥棒』とか『ペレ』みたいに、片親で苦労して子育てしてる父親の話ってのはたくさんあるのだが、三組出してきていずれも母親不在ってのは明らかに「意図的」な作りで、よほどギレルモ・デル・トロは「父性とは何か」に焦点を絞って作品を作りたかったように見える。あえて「母性」は夾雑物になるので除外したのか、それとも「母性」については語りたくない/語れない何らかの理由があるのか、そこのところはよくわからないが。
『ピノッキオ』を語る第二の視座は、「主人公の異形性」をどう扱うか、という問題である。
先に、監督自身が『ピノッキオ』と『フランケンシュタイン』の類似性について言及していると述べたが、本作のピノッキオもまた、「木の人形」という人ならざる「木偶」として生み出された存在だ。森の妖精によって、命を吹き込まれたといっても、人形は人形。モンスターと変わらない。
さらには、生まれついてのお調子者で、モノは片端から壊すわ、くるくる関心の対象が目移りするわ、どう見ても現実の「多動児」をイメージしたキャラづけになっている。
ポイントは、「こういう子をどうするか」という一点において、原作およびディスニー版と、ギレルモ・デル・トロ版には大きな違いがあるということだ。
原作&ディズニー版の場合、もともと「優しく正しい、いい子になろう」という道徳的な教訓譚の側面が強く、だからこそピノキオは噓をついたら鼻が伸びたり、誘惑に負けるとロバになりかけたりするわけだ。物語の最終的な目標は、「いい子になって、本当の人間にしてもらおう」という妖怪人間ベムみたいな宿願である。なにせ原作に関しては1970年代に、障がいのあるキャラクターが「落伍者」として扱われ、「五体満足で利口」な主人公が「期待される子供像」とされているとして、差別的だと回収裁判が起こされているくらいだ。
だが、ギレルモ・デル・トロ版は、かなり毛色が異なる。
本作では、むしろ「ありのままのピノッキオ」を「周囲(とくにジュゼッペ)が認め、受け入れる」ことこそが、最終的な目標として呈示される。
木の人形は、木の人形のままでいい。人間の子になったりしなくていい。ピノッキオは、死んだ息子の身代わりではない。生まれたままの個性を伸ばして大きくなればいい。
(怪魚からの脱出においては、むしろ「良い嘘をたくさんつく」ことが称揚されるのだ!)
そのことに、「大人の側」が気づくことで、初めて「幸せな結末」が見えてくる。
その意味で、本作はきわめて現代的な価値観で旧作をリファイン(?)した作品だといってよい。
『ピノッキオ』の第三の視座は、「死にまつわる思索」という側面だ。
「ピノッキオは、人ではないから、死なない」。
ギレルモ・デル・トロは、この新たな「決まり事」を前提として、どういったことが作中で考えられるかを、いろいろと模索してみせる。「不死のメリットとデメリット」を巡る思索だ。
「死なないなら、兵士としては最適ではないか」
「死なないなら、あまり死を恐れないのではないか」
「死なないなら、回りから先に死んでいくのではないか」……。
お話は、「ロボット戦」の概念から始まって、やがて「八百比丘尼」のような話に行きつく。
僕たちは、無垢なるピノッキオとともに、一度さまざまな「先入観」を捨てて、「死」という概念と白紙の状態からもう一度、向き合うことになるのだ。
ー ー ー ー
とにかく個人的には、「ミュージカル」としてちゃんと成立していたのが、何より一番良かったと思う。
ピノッキオ役の少年(グレゴリー・マン)は、やんちゃな多動の少年を生き生きと演じていて、歌も『ビリー・エリオット』みたいで耳に残ったし、胸にも残った。♪ミ~パパ~、ミ~パパ~(涙)
ユアン・マグレガー(まったく気づかなかった)のコオロギも、素晴らしい歌と演技を披露。なんどぺちゃんこにされても復活するという意味では、彼もまたカートゥーン・キャラとしての「不死性」を担った存在だった。
あと、サルってケイト・ブランシェットだったんだな。マジわかんねーよ……(笑)。
総じて、大人が観ても考えさせられ、子供が観ても純粋に楽しい、個性的なエンターテインメントに仕上がっていると思う。
クリスマスの夜長に、「パパと息子」で観るのなんかがおすすめです。
反骨精神と精神的成長を持ち合わせたモンスター
デル・トロさんのモンスター趣味全開で、キャラは不気味さに溢れておりました。
ムッソリーニのファシスト党支配時代が舞台で、国を戦禍が覆っている中の物語なのが、ダークさをマシマシ。
幼い少年らしい我儘で欲望に弱く、すぐ騙されちゃうピノッキオですが、
反面大人が戦時下に決めたルールに盲目的に従わない賢明さを持っています。
その成長しない肉体とは別に、早々に自立し自由を求めるという「精神的成長」を持ち合わせているのです。
これには、独裁者には従わないというメッセージが込められていると思いました。
また、「神が気まぐれに与えたかりそめの命ゆえ不死」という設定があり、これを生かして危機を乗り越える頭のよい子でもあります。
そんなピノッキオの性格と設定が物語の核になっていたため、よくあるおとぎ話の「人間になって幸せに暮らしました」で終わらなかったのもよかったです。
動きも滑らかで 素晴らしいですね。
大好きなモーションピクチャーで たーまーりーまーせーん。(^Q^)/゚
悪役が 良いので(笑) 引き立ちますね。
自己犠牲の場面は ちょびっと泣けました。(T_T)
文部省推薦にして欲しいものです。
魔女も 見た目は「悪」ですが なかなか良かったです。
ムッソリーニをおちょくった処や怪魚の造形などデル・トロらしいが、基本的にはデル・トロ作品には珍しいストレートな人情劇。ラストクレジットに流れる曲・音楽はまるで往年のハリウッドミュージカルの様。
①ラストクレジットで錚々たる面々が声を当てているのにビックリ。ユアン・マクレガーが『ムーラン・ルージュ』以来(私にとっては)朗々たる歌声で歌い上げてくれる。
②2019年の『ほんとうのピノッキオ』では結構説教臭い話だったんだと思わされたが、本作では説教臭さは殆どなく風刺精神は残しつつエンタメ(ミュージカルな味付け)+ファンタジーとなっている。
③時代背景をイタリアがファシズムに席巻された第一次世界大戦と第二次世界大戦との間の時期にし、原作の悪辣な商人によって子供達がヤギに変えられるところをファシストが子供達を戦士にする設定に変えたところも巧い改変。
④ピノッキオはいい子に成ろうとは言うが、(妖怪人間ベム・ベラ・ベロのように)“人間に成りた~い”とは言わない。最後まで人間の子供には成らず、木の人形のままというのも『シェイプ・オブ・ウォーター』を監督し異形好きのデル・トロらしい。
⑤ピノッキオが木の人形なので何度も生き返る(死なない)ところや、死の国、死を司る精霊が登場するところは『パンズ・ラビリンス』に通ずるダーク・ファンタジーの味。
⑥本作のピノッキオは良い子と悪い子との間をあまり言ったり来たりしないし、クリケットもピノッキオのガイド役というよりもコメディリリーフ役に近いが、ピノッキオの胸のところの洞(うろ)が家というところが、『人造人間キカイダー』(ピノッキオの物語がモチーフ)のジェミ二(良心回路)を思い起こされて懐かしい。
⑦嘘をつくと鼻が伸びるピノッキオの有名な弱点を逆手にとったクライマックスの工夫も上手い。
⑧『ナイトメア・アリー』にはガッカリさせられたが、本作は良かった。ややベタなラストにも泣かされたし。
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