「フランケンシュタインを念頭に置いて「リファイン」された、ギレルモ・デル・トロ印の「真・ピノッキオ」。」ギレルモ・デル・トロのピノッキオ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
フランケンシュタインを念頭に置いて「リファイン」された、ギレルモ・デル・トロ印の「真・ピノッキオ」。
今更ながらWiki で見て知ったんだが、ピノッキオの「ピノ」って「Pine」=「松」から来てるのね。
「松っ子」ってわけだ。なあるほど!!
ちなみに、森永の「ピノ」もイタリア語の「松ぼっくり」から来てるそうです。
ふと気づくと、意図せずして『マッドゴッド』『ノベンバー』『ピノッキオ』と、ストップモーションの映画を立て続けに三本も観てしまった。こういうのって、なんでか被るよね。
そのなかでも『ピノッキオ』のストップモーションは、ちょっと綺麗すぎるくらい綺麗で、どれくらいのCG補正がかかってるのかと疑わしくなるくらい。これだけ動かしまくった2時間の映画を1年でさくっと作っているところを見ると、やはりジム・へンソンのスタジオはガチで凄腕揃いなんだろう。
ただ、ここまで綺麗に仕上げちゃうと、ストップモーションにこだわって作った意味が、逆に薄れちゃってるような気もするなあ……。
意地になってストップモーションでの製作を貫いたって言ってるけど、その割には限りなく3Dグラフィックスに仕上がりが近づいてるわけで。なんだか、プロに任せてたら、最新技術のせいでなし崩しになにかの軍門に下ってしまったかのような……。
まあ、別にストップモーションだからと言って、「かくかく」してたり、「ハンドメイド感」にあふれてたり「しなければならない」道理も別にないんだけど、せっかく蚤の市に行ったのに、売ってる商品の作りがプロっぽすぎて、逆にレディメイドに見えて買う気が失せちゃった、みたいなところは正直あったかも。
でも映画の中身は、思っていた以上に普通に良いお話で、個人的には大いに愉しめました。
ギレルモ・デル・トロだから、もう少し強烈な「クセ」を出してくるかと思ったが、全然そんなことはなく、ほっこりと優しい気持ちになれる、ちゃんと子供でも楽しめる「まっとうな児童映画」にしあがってて感心。なんだ、意外にこの人空気読めるじゃないか!
と思ったけど、考えてみると前作『ナイトメア・アリー』でも、フリークスと奇術まみれの頭のおかしい原作に寄せて、もっと狂った作りにするのかと思いきや、結構まっとうなノワールに仕上げていて、一般向けにずいぶんと「自制」してる感じがしたものだった。
やっぱり、オタクの割には客層に合わせて空気の読める監督さんなんだな。
本作は意外なくらい「元ネタ」に当たるディズニー版の設定とキャラクターを素直に受け継いで作られている。というか、もともとの童話の『ピノキオの冒険』よりも、明らかにディズニー版のほうに依拠した「私的リメイク」になってる感じ。コオロギがメインキャラとして君臨してるところとかもそうだが、そもそも「ミュージカル」として作っていること自体、ディズニー・リスペクト以外の何物でもない。
ギレルモ・デル・トロ自身、ディズニー版への限りなき愛着を縷々語っていて、「原作」にあたるアニメを貶めるようなつくりにする気は、さらさらなかったようだ。
多少コオロギがリアル寄りでゴキブリめいていたり(作中でもゴキブリ呼ばわりされる)、ピノッキオの登場シーンがホラーじみてたりと、デル・トロっぽいっちゃデル・トロっぽいけど、チェコのストップモーションあたりの「エグみ」と比べれば、十分子供向けといっても通用するキャラデザだと思う。
とはいえ、時代設定をわざわざ第二次大戦前夜に移して、いかにも愚劣きわまるムッソリーニを出してみたり、興行主や町の有力者を戯画的なまでのろくでなしに描いてみたりと、彼らしい「改変」を加えては来ている。
『シェイプ・オブ・ウォーター』でも示した、権力者への過度の嫌悪感と、諸手を挙げての弱者肯定。個人的にギレルモ・デル・トロのそういうところって、単純に胡散臭くて気持ちが悪いのだが、トランプ憎しで作品全体が変な生臭さを放っていた『シェイプ・オブ・ウォーター』と比べれば、「勧善懲悪の子供向け寓話」のなかに自らの政治信条を落とし込んでいるので、観ているこちらも素直に飲み下せる。
『シェイプ・オブ・ウォーター』のような「大人向けの寓話」で、掃除婦と半魚人がナチスみたいな軍人に打ち勝つのは、しょせん荒唐無稽な夢物語に過ぎない。あの話は『パンズ・ラビリンス』同様、本来はアンハッピーエンドで「終わらせないといけなかった」作品だったと僕は今でも思っているし、そうしなかったせいで、ギレルモ・デル・トロの必死さ、余裕の無さだけが伝わってくる、ただの痛々しいオナニズムの映画になり下がってしまった。
一方、「子供向けの寓話」なら、いかに監督が「虐げられる弱者」に超人的な活躍の場を与えても、「もともとそういうジャンル」なので、ちっとも違和感がない。
考えてみると、「異形のクリーチャーと出逢った人間がお互いに心を通い合わせ、周辺の生活弱者と力を合わせて、巻き込まれた暴政と対決し勝利を収める」って意味では、ほとんど『シェイプ・オブ・ウォーター』の焼き直しみたいな企画なんだな、これ。
でも、格段に「語り口」と「説得力」は巧さを増している、と。
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『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』を語る視座は、いくつか存在するだろう。
まずもって、突き詰めて考えれば、これは「父と子」の映画だ。
監督自身が示唆しているとおり、ピノッキオの物語は、「フランケンシュタイン」とある種、同じ構造を持っている。両作とも、勝手に作られた人造人間が、創造主から「善の心」を期待されながら、悪さばかりする話だ。あるいは、その異形性ゆえに差別され、迫害され、「父の期待に応えられない自分」に傷つく話だ。
本作には、母親不在の「父子」が三組登場する。
ジュゼッペ爺さんとピノッキオ、町の有力者(軍人)とその息子、興行主と手下のサル。
「息子」たちは皆、つねに父親の愛を渇望している。
でも、思った通りの愛情を返してもらえない。
三人が「悪いこと」をするのは、それぞれに若干原因に相違がある。
ピノッキオは持って生まれたADHDの傾向によって。
有力者の息子は運動音痴の劣等感と、父に認められない苛立ちが嵩じて。
サルは主人に対する独占欲とピノッキオへの嫉妬心によって。
有力者と興行主の子どもへの接し方は論外だが、ジュゼッペもまた、「亡き子の身代わり」としてピノッキオを観ているという意味で、ずいぶんと残酷な仕打ちをしているともいえる。
結局、改心できたジュゼッペは幸福な余生を約束され、できなかった二人は相応の結末を迎えることになるわけだ。
ちなみに、親子の情愛の意味合いを探るタイプの映画で、ここまで女性性が排除されている作品も珍しい気もする。いやたとえば『キッド』とか『自転車泥棒』とか『ペレ』みたいに、片親で苦労して子育てしてる父親の話ってのはたくさんあるのだが、三組出してきていずれも母親不在ってのは明らかに「意図的」な作りで、よほどギレルモ・デル・トロは「父性とは何か」に焦点を絞って作品を作りたかったように見える。あえて「母性」は夾雑物になるので除外したのか、それとも「母性」については語りたくない/語れない何らかの理由があるのか、そこのところはよくわからないが。
『ピノッキオ』を語る第二の視座は、「主人公の異形性」をどう扱うか、という問題である。
先に、監督自身が『ピノッキオ』と『フランケンシュタイン』の類似性について言及していると述べたが、本作のピノッキオもまた、「木の人形」という人ならざる「木偶」として生み出された存在だ。森の妖精によって、命を吹き込まれたといっても、人形は人形。モンスターと変わらない。
さらには、生まれついてのお調子者で、モノは片端から壊すわ、くるくる関心の対象が目移りするわ、どう見ても現実の「多動児」をイメージしたキャラづけになっている。
ポイントは、「こういう子をどうするか」という一点において、原作およびディスニー版と、ギレルモ・デル・トロ版には大きな違いがあるということだ。
原作&ディズニー版の場合、もともと「優しく正しい、いい子になろう」という道徳的な教訓譚の側面が強く、だからこそピノキオは噓をついたら鼻が伸びたり、誘惑に負けるとロバになりかけたりするわけだ。物語の最終的な目標は、「いい子になって、本当の人間にしてもらおう」という妖怪人間ベムみたいな宿願である。なにせ原作に関しては1970年代に、障がいのあるキャラクターが「落伍者」として扱われ、「五体満足で利口」な主人公が「期待される子供像」とされているとして、差別的だと回収裁判が起こされているくらいだ。
だが、ギレルモ・デル・トロ版は、かなり毛色が異なる。
本作では、むしろ「ありのままのピノッキオ」を「周囲(とくにジュゼッペ)が認め、受け入れる」ことこそが、最終的な目標として呈示される。
木の人形は、木の人形のままでいい。人間の子になったりしなくていい。ピノッキオは、死んだ息子の身代わりではない。生まれたままの個性を伸ばして大きくなればいい。
(怪魚からの脱出においては、むしろ「良い嘘をたくさんつく」ことが称揚されるのだ!)
そのことに、「大人の側」が気づくことで、初めて「幸せな結末」が見えてくる。
その意味で、本作はきわめて現代的な価値観で旧作をリファイン(?)した作品だといってよい。
『ピノッキオ』の第三の視座は、「死にまつわる思索」という側面だ。
「ピノッキオは、人ではないから、死なない」。
ギレルモ・デル・トロは、この新たな「決まり事」を前提として、どういったことが作中で考えられるかを、いろいろと模索してみせる。「不死のメリットとデメリット」を巡る思索だ。
「死なないなら、兵士としては最適ではないか」
「死なないなら、あまり死を恐れないのではないか」
「死なないなら、回りから先に死んでいくのではないか」……。
お話は、「ロボット戦」の概念から始まって、やがて「八百比丘尼」のような話に行きつく。
僕たちは、無垢なるピノッキオとともに、一度さまざまな「先入観」を捨てて、「死」という概念と白紙の状態からもう一度、向き合うことになるのだ。
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とにかく個人的には、「ミュージカル」としてちゃんと成立していたのが、何より一番良かったと思う。
ピノッキオ役の少年(グレゴリー・マン)は、やんちゃな多動の少年を生き生きと演じていて、歌も『ビリー・エリオット』みたいで耳に残ったし、胸にも残った。♪ミ~パパ~、ミ~パパ~(涙)
ユアン・マグレガー(まったく気づかなかった)のコオロギも、素晴らしい歌と演技を披露。なんどぺちゃんこにされても復活するという意味では、彼もまたカートゥーン・キャラとしての「不死性」を担った存在だった。
あと、サルってケイト・ブランシェットだったんだな。マジわかんねーよ……(笑)。
総じて、大人が観ても考えさせられ、子供が観ても純粋に楽しい、個性的なエンターテインメントに仕上がっていると思う。
クリスマスの夜長に、「パパと息子」で観るのなんかがおすすめです。