「圧倒的ビジュアルイメージの奔流。異なる宗教間の対立を裏テーマにもつ伝説のカルト・ホラー!」ウィッカーマン final cut じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
圧倒的ビジュアルイメージの奔流。異なる宗教間の対立を裏テーマにもつ伝説のカルト・ホラー!
行ってきました、『ウィッカーマンfinal cut』日本最終上映。
それも、新宿K’sシネマさんでの最終日に。
金曜の真昼間? それがどうした。これも立派な人生のテレワークだぜ!
まさに「カルト教団」が世間の話題をさらっている昨今、『ウィッカーマン』こそは時代が要請するマストアイテムといっていいのではないだろうか??
僕が初めてこの映画を知ったのは、そう古いことではない。たしか、30代くらいではなかったか?
海外で編まれた「本当に怖いホラー映画50選」のような企画に入っていて、へえこんな映画あるんだ、と。
そのうち、ニコラス・ケイジによる本作のリメイクがあると聞き及び、先に観ておかないといかんなと廉価版のDVDを買って視聴、その衝撃的内容に文字通りひっくり返った。
噂通りの大傑作。映画史上に残る、真に恐るべき映画だった。
(なお、その後観たニコラス・ケイジ版は、テーマ改変の方向性といい、演出力の劣化度合いといい、概ね許しがたい要素しか見出せない、ゴミ・オブ・ゴミの聳え立つクソ映画だったが、その分元作のすばらしさは際立ったといえる。)
DVDの特典付録のドキュメンタリーを観て、いわゆる「オリジナル全長版」が存在することは知っていたが、これまで無精な性格で、スティングレイ盤をわざわざ買ってまで中身を確認したことはなかった。
今回上映された「Final Cut」版は、94分。
劇場公開版が88分で、オリジナル全長版が99分あるらしいから、ちょうどその中間くらいのボリュームである。
「Final Cut」版と、劇場公開版とで、観てすぐにわかる相違点は以下の通りだ。
●劇場公開版は冒頭に、「撮影に協力してくれた島とサマーアイル卿に感謝を捧げる」といった擬似ドキュメンタリー風の字幕が付くが、「Final Cut」版はケルトの太陽の顔がOPでアップになり、EDで遠ざかっていく構成で、特段のテクストによる説明などは付加されない。
●公開版では後段で回想風に一瞬挿入される、本土でハウイー警部が婚約者と教会でミサに参加するショットが、「Final Cut」版ではアヴァン・パートに若干長めの尺で挿入される。
●「Final Cut」版では、宿泊初日に、サマーアイル卿が若者を宿屋の軒下に連れてきて、ウィロー(宿屋の娘)に性の手ほどきを依頼するシーン(および象徴的なカタツムリの交合する映像)が復活している。
●同様に、宿屋のバーいっぱいにたむろする酔客たちが、ギターを弾きながら猥歌を歌ったり、踊ったりするシーンが、かなりの長尺で復活している。
●サマーアイル卿が林檎について講釈を垂れるシーンが復活している。
その他、記憶だけで書いているので正確なことはわからないが、総じて、島民たちによる歌謡シーンや宗教儀式シーン、ハウイーによる島内の捜索シーンが、追加されたり、尺が長くなったりしていたと思われる。なお、オリジナル全長版に存在するらしい、イギリス本土でハウイーが失踪した少女の捜索にとりかかるシーンは、今回の「Final Cut」版でも割愛されていた。
監督たちが口を極めて痛罵しているほどに、カットされた劇場公開版が「もともとの作品から骨抜きにされて、意味がわからなくなっている」とはしょうじき思わないが(真に重要なシーンはだいたい残っているのでは?)、「Final Cut」版のほうが、島の風俗のより土俗的で因習的で淫猥な面が強調されており、「ケルティッシュ・ミュージカル」としての音楽性と、キリスト教Vs自然崇拝の宗教対立的な部分が強められて感じるのは確かだ。
また、ハウイーが最初に「隣室での他人どうしの性交」と「階下から聞こえる猥歌」に悩まされ、さらには翌日今度は全裸で踊り狂う宿屋の娘に誘惑されて苦しむという二段構えになっていることで、彼を聖アントニウス(砂漠で悪魔たちによる性的な誘惑に苦しめられた聖人)に擬する監督&脚本家の試みは、より理解しやすくなっているといえる。
何より、画質が市販DVDと比べて格段に良化したことで、サマーアイル島の風光明媚な美しさが際立ち、島のもたらす厄災と恐怖との対比が鮮烈になったのがうれしい。
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『ウィッカーマン』は、「伝説」級のカルト映画だ。
僕も、傑作だと思う。
では、これの何がそこまで素晴らしいのか。
とにかく、まずはホンの出来が良い。それが第一だ。
なにせ、最初に出てくるタイトルクレジットの表記は、
「Anthony Shaffer's The Wicker Man」。
要するに、この映画はただの『ウィッカーマン』ではない。
「アンソニー・シェイファーのウィッカーマン」なのだ。
アンソニー・シェイファーというのは、あの傑作ミステリ演劇(&映画)『探偵スルース』や、ヒッチコックの『フレンジー』、アガサ・クリスティ原作の『ナイル殺人事件』『地中海殺人事件』の脚本を担当した名脚本家だ。弟のピーター・シェイファー(『アマデウス』の脚本家)と合作で、「ピーター・アンソニー」名義の推理小説まで三冊も書いている、いわゆる生粋のミステリ・マニアである。
その彼が、DVD特典のインタビューでこんなことを言っている。
「私はかなり長い間、ハマープロの陳腐なホラー・フィルムを超えた、新しい映画を作ろうと思っていました。実際この作品以前に、『いけにえ』を題材にしたホラーはなかった。私はよくありそうな話をふくらませて、衝撃的な探偵物語に仕上げるため、『探偵スルース』のような舞台劇に仕上げようと試みました。そして衝撃的な結末にするため、古典的な方法を使って、今までの真実を正反対にひっくり返したのです。●●が●●れる話にね」
つまり、彼は本作を、ハマープロの衣鉢を継ぐ新機軸のホラーとして企図しつつも、それと同時に、「どんでん返しの仕掛けられた本格ミステリ劇」として練り上げていったわけだ。
実際、本作の「キモ」となっている「趣向」の根幹には、連城三紀彦の『戻り川心中』や城平京の『名探偵に薔薇を』と共通する部分がある(事件そのものが●●を●●するために仕組まれている、という大ネタ)。本作には、通常のホラー映画とは比較にならないくらいの「ミステリ・マインド」が満ちあふれている、と僕が考える所以だ。
しかも、『ウィッカーマン』はテーマにおいて、ジャンル映画の枠組みにとどまらない恐るべき「深み」を備えている。それは、先にも述べたとおり、本作が「宗教」と「宗教」のぶつかり合いを生々しく描き出しているからだ。
ハウイーは、敬虔なクリスチャンだ。
婚前交渉を汚らわしい営みとして、婚約者がいながら今も童貞を保っているなど、おそらく70年代の倫理観と照らしても、かなり保守的でストリクトな価値観をもった信徒だといえるだろう。
いっぽう、サマーアイル島を支配しているのは、古代ケルトの自然崇拝だ。
島民たちは領主の指導のもと、ドルイドの秘儀を復活させている。彼らはフリーセックスを信奉し、豊作を担保する手段として、豊穣の女神と太陽神への「供物」を捧げる。
当然、倫理的には、ハウイーの信じるキリスト教が「正義」の側にあり、島民の奉ずる邪教が「悪」の側にある。物語の表面上も、ハウイーは制服警官で探偵役、島民は得体の知れない不気味な犯罪集団として描かれる。
だが、作り手のスタンスは、必ずしもそういう明快な善悪二元論に立っているわけではない。
映画を観ていれば誰しも、ハウイーの父権的で支配的な性格と、強引で高圧的な捜査方式、頑なで狭量な道徳観に、ある種のいらだちを感じるはずだ。
いっぽうで、クリストファー・リー演じるサマーアイル卿は、奉じている宗教こそカルトだが、佇まいには知性と教養が感じられ、島民に対する姿勢もフランクで宥和的だ。明らかに、人物としてはハウイーより、領主のほうが「魅力的」だろう。
島民たちも、奇妙な儀式や非科学的な教育・治療を奉じてはいても、基本おおらかで陽気で楽し気だ。サマーアイル島は、ペイガニズムに支配された「穢れた」場所かもしれないが、島民にとっては居心地のよい「楽園」であり、「ザナドゥ」なのだ。
これは、1973年という公開年を考えれば容易に察しがつくことだが、両者の宗教的な対立には、当時の保守派とヒッピー・ムーヴメントの対立が風刺的に反映されていると見ていい。
ここでの製作者たちのシンパシーは、必ずしもハウイーに代表される守旧的なキリスト教側に置かれていない。むしろ、自由で放埓で生の歓びに満ちた異教徒たちの生き方のほうへ、「憧れ」にも似た眼差しが向けられているのが感じられる。
さらに本作には、『地球最後の男』(『アイ・アム・レジェンド』)や、一連のゾンビ映画と同様の「価値観の逆転」に関する視座が存在する。すなわち、「主人公以外の全員がおかしいのなら、それは主人公だけがおかしいのと変わらない」という逆説だ。ハウイーは、決して絶対の正義と無謬性を手にした「名探偵」として作中に君臨しているわけではない。
異なる宗教世界の対立によって生み出される「謎」(ミステリ)と「恐怖」(ホラー)。
その二つの世界の正当性について、作り手たちは一方的な価値判断を持ち込まない。
だからこそ、『ウィッカーマン』の脚本には「深み」があるのだ。
ただ「脚本の良さ」だけで、あれだけの人々が『ウィッカーマン』に魅了されているはずもない。
なぜなら、多くの人は、筋を知る「前」に、すでにこの映画の虜になっているからだ。
岸壁に立ち、煙をあげて燃え上がる枝編みの巨大な人形。
メインのビジュアルイメージからして、すでに圧倒的だ。
動物の仮面をかぶった村人たち。戸外で裸で舞い踊るうら若き乙女たち。
顔のある太陽、酒場にかかるグリーンマンの看板、乱痴気騒ぎの祭列、古代の墓所やストーンヘンジ、蛙を娘に呑ませる母親、etc、etc.
散りばめられたアイコンだけで、もうノックアウトされてしまう。
これらの衝撃的なビジュアルには元ネタがあって、それは中世から近代にかけて遺されたケルトやドルイドの遺物と、研究書に描かれた図版や挿絵の数々だ。
これらの奇怪なアイコンを蒐集し、スコットランドでの入念なロケハンを経て、現代の村落に怪しげな習俗と呪物としてよみがえらせたアート・ディレクターこそが、シューマス・フラネリーである。
彼が本作で果たした役割の大きさは、もしかするとアンソニー・シェイファー以上かもしれない。
『ウィッカーマン』に登場する呪物のなかには、日本人の琴線にふれる民俗的共通項も見出せる。たとえば、五月祭の祭列をけん引する赤い木馬と道化。あれは、まさに日本でいうところの「獅子舞」ではないか(木馬に覆われると妊娠する、というのも、お獅子に噛まれると無病息災というのと似ている)。古代から続く風俗というのは、どこか文明を超えて地続きな部分があり、この原初性に我々は惹きつけられるのかもしれない。
同時にあの「赤い木馬」は、僕にニコラス・ローグの『赤い影』(73)に登場する「赤い雨合羽の少女」をも想起させる。
街角を前へ前へと、ハンミョウのように先行しながら主人公をいざない、やがて取り返しのつかない魔界のラビリンスの最奥部へと導く存在。
もちろん、両者には誰もが知っている有名な原型がある。
そう、『不思議の国のアリス』に登場するあのウサギだ。
考えてみると、『ウィッカーマン』と『赤い影』がどこかしら「イギリス的」な味わいを濃厚に漂わせているのは、祖型として両作が『不思議の国のアリス』を抱えているからかもしれない。
『ウィッカーマン』の重要なモチーフとして、「3月ウサギ(March Hare)」が登場するのも、たぶん偶然ではないはずだ。
『ウィッカーマン』と『赤い影』は73年作品だが、実は同じピーター・スネルがプロデューサーを務めている。失敗作の烙印を押された『ウィッカーマン』は、英国では翌74年に『赤い影』の併映作として封切られたのだった。『アリス』の衣鉢を継いだ伝説のカルト映画2作が、奇しくも併映作として世に問われたのだ。まさに不思議な因縁としかいいようがない。