「AI軍事利用の恐ろしい予感におののく」AWAKE 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
AI軍事利用の恐ろしい予感におののく
1997年にAIがチェスの世界チャンピオンに勝った。その当時は、将棋は奪った駒を使えてチェスより複雑だから、当分はAIが将棋で人間に勝つことはないだろうと言われていた。しかしそこから20年後の2017年にはAIのPonanzaが現役の名人に2番勝負で、先手でも後手でも勝った。この時点で決着が着いたと誰もが思った。つまり将棋では人間よりAIのほうが強いのだ。以後は将棋の解説にAIが登場して、藤井聡太八段の指した奇手が、実はAI評価の最も高い手と一致したなどと言っていることが多い。
あまり触れたくない話だが、将棋とAIのことを論ずるには、2016年の三浦弘行九段の事件を書かないのは片手落ちとなる。ざっくりと説明すると、ある対局の日に体調を崩していた三浦九段が度々席を外すのを、スマートフォンで将棋ソフトを見ているのではないかという嫌疑がかかり、出場停止の処分がくだされたというものである。その後は三浦九段の嫌疑が晴れて関係者が謝罪したらしい。この事件の肝は、2016年の段階で既にAIのほうが棋士より強いと将棋界全体が考えていたということである。でなければカンニングを疑われることはない。
さて本作品は青春群像の映画だが、AI将棋と人間の棋士との相克もあって、あまり爽やかな物語とはならなかった。そもそも大したストーリーはないし、人物像の掘り下げも人間関係の悩みもない。勝負だから弁慶の泣き所を攻撃するのは当然で、そこをやられたら諦めるしかないのも当然である。観ているうちに、本作品の人間模様よりもAIと人間社会の未来のほうが気になった。
今後は、暗算大会に電卓が参戦しないのと同じように、棋士はAIに勝てないということを認めた上で、人間同士の遊びとしての将棋をひとつの文化として継続していくことになる。偶然の要素が高い麻雀でさえもAIが人間を凌駕しつつあるが、麻雀にAIを参加させる必要はない。野球の試合で時速230キロのピッチングマシンを投手にしないのと同じことである。
AIの定義は難しいが、AI自身がアルゴリズムを作って進化させていくようなプログラムを持てば、将棋でも麻雀でも、放っておけばどこまでも強くなる。同じことは他の分野でも言える訳で、既に将棋だけでなくビジネスの分野にもAIは進出している。経理や労務など、手順が決まっていて、毎年改正される法律に従って変更が必要になる業務では、人間よりもAIのほうが向いている。
通信がいま以上に発達すれば役所もAI、企業もAIで、互いに通信しあって、すべての手続は電子的に自動的に行われるようになるだろう。年末調整も給与支払報告書の提出も確定申告も決算申告も一瞬で終わる。会社の経理や労務担当者は職を失うだろう。同時に税理士や公認会計士、社会保険労務士の仕事もなくなる。役人の数も大幅にカットされる。
何しろアルゴリズムを自分で作っていくわけだから、どんな分野にでも進出できる。金融や証券の分野では自動的に利益を生み出すようになるが、一方で自動的に損失も生み出すから、アンバランスが生じないように金融の安定を図るアルゴリズムを作るだろう。金融は自動的に安定し、株価の暴落や高騰は生じない。もはや兜町もウォール街も用なしだ。
便利だからといってAIの活用範囲を見境なく広げていくと、間違いなく軍事の分野に至る。AI搭載の無人飛行機、無人戦車などが生まれ、的確に敵を殲滅する。敵も同じようにAI搭載の兵器を使えば、もう戦争はゲームのように兵器同士の壊し合いになる。しかもそこに人間は介在せず、AIが判断して命令する戦争になる。司令本部はAIだからである。
万が一、政治の分野にAIが進出すれば、政策はAIが決める。そして一番不合理な存在が排除されることになる。つまり人間である。ジェームズ・キャメロン監督の映画「ターミネーター」が公開されたのは1984年。AIが発達しすぎると人間が否定されるという世界観を2020年の今から36年も前に発表したことの意義は大きい。
道具としてのコンピュータ、手続きでのAI利用といった程度にとどめておくのが賢い判断だろうが、軍需産業関係者の残虐な欲望がAIの軍事利用をやっていないはずもなく、恐ろしい予感におののくばかりだ。