「我慢しなくていいんだよ、いと。」いとみち 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
我慢しなくていいんだよ、いと。
「聞き取れるようになるまで30年かかった。津軽弁全部聞き取るのは、今も無理。」と、東京生まれの父は言う。まさに、容赦なく津軽弁で喋りまくるこの映画のセリフを全部理解するのは無理だった。だけど、だからと言って標準語に寄せた言葉でこの物語を観たならば、けして同じ感想を持たなかっただろう。これは、津軽弁だから良いのだ。ここまで津軽弁を押し通す潔さに、津軽に生きる本人たちだと感じさせてくれる。せっかく、その言葉の持つニュアンスや柔らかさとかあるのだから。東京から来た、もしくは東京で住んでいた者たちだけが、都会と地方の隔てられた壁の存在をあらわすために標準語を使うからこそ、津軽弁が活きる。それは閉鎖的という意味ではなく、地元に根付くアイデンティティの象徴として。たとえ、スマホを使いこなしても、メイド服をまとっても、まごうことなき津軽人なのである。
そこにいるのは、弘前の高校に通い、青森市までバイトに出かける高校生いと。いい名前。亡き母は、さぞ三味線が好きだったのであろう、さぞ娘にその思いを託したのであろう、という熱い思いが伝わってくる。その母が後ろ姿と遺影でしか登場しないがゆえに、幼い娘を残して先立つ無念さというものが伝わっても来る。母の思い出を語らない(深い悲しみのゆえに語れない)父と祖母がその印象を深くする。いとは、今の自分の居場所と将来を迷い悩んでいる。自分なりに前を向き、何かを試し、そして、自分の得意技で勝負する。その過程が若々しくて好感しかない。距離を置いていた家族とも、自分から歩み寄る。時に、自分の技で。時に、相手の土俵で。"雪解け"と"融和"。それは、いと自身が成したことだ。なんていい子なんだろう。こうして、いとは、この先も一つ一つしっかりと成長していくのだろう。
父役の豊川悦司は当然のこと、バイト先のシングルマザー役の黒川芽以が見事。なにより、祖母役の女優は何者なんだ?と刮目した。津軽弁は青森出身ならまだしも、役者にしては三味線が上手すぎる。逆に三味線のプロだとするなら、孫を愛するその演技はとても自然体で特筆ものだった。・・・・と、ここまで書いて、ならググればいいか、と検索してみて驚いた。なんと高橋竹山の最初のお弟子さんだった。やっとここで「津軽のカマリ」にも出てたのをうっすら思い出した。あの竹山のスピリットを受け継いでいるんだもの、上手いわけだよ。ずしんと来るわけだよ。苦労人の竹山を見てたんだもの、演技だって情が通うはずだよ。もう一度、"竹山の弟子"という視線で、この映画を観たくなった。
ちなみにこの映画を新宿で見たが、周りは平日のせいもあり高齢者ばかりで結構な入り。こっちがわからないセリフでも、よく笑う。おそらく青森出身の方々なのだろう。みなさん、あなた方の育った土地の良さは、余所者にもちゃんと届いてますよ、と言ってあげたい。
ご当地映画は千差万別。提灯記事ならぬ提灯映画は数知れず。だけど、これは、当りだ。