「さらば長き眠り」夏への扉 キミのいる未来へ 梨剥く侍さんの映画レビュー(感想・評価)
さらば長き眠り
最近やたらと若いイケメンと女子を主役にした映画が多いのは、それだけ観客のニーズがあるのだろう(少女マンガの原作多し)。「夏への扉」は結構思い入れのある小説で、映画化と聞いて気になってはいたが、日本映画?という時点でかなり危惧していた。これは明らかにキャスティング先行の企画と思われる。前述の若者向け恋愛映画に極力寄せていて、小説の読後感とは完全に別物だった。
原作の主人公のイメージから山崎賢人は誰も思いつかないし、璃子の元になっているリッキィは小説では11歳である。そもそもリッキィは重要なキャラクターではあるが、終盤まで登場しない(例の修羅場の際には、ガールスカウトのキャンプに行っていて不在)。これはロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」よろしく、少女が恋愛対象となる年齢まで追いつく物語なのである。ただそのあたりは世情的になかなか難しい面もあるので、最初から女子高生というギリギリ恋愛要素を加味できる年齢にして、甘々のベールで包んでみたと推察する。
「夏への扉」は1957年に出版され、小説の舞台は1970年という“未来”で、30年後の2000年へ冷凍睡眠で旅立つ。小説では1970年に実現している家事ロボットや冷凍睡眠は現実には未だに存在せず、あるのはルンバぐらいだ。映画では設定を四半世紀シフトさせ、冷凍睡眠の目覚めを2025年に変えたわけだが、今から4年後にあんなヒューマノイドが闊歩しているとはとても思えないな。
過去へのタイムトラベルにヒューマノイドが同行するのは映画独自の展開で、あの藤木直人ヒューマノイドがそのまま30年後に連続しているとなると、因果律が破綻する(いつ作られたのか?)。「A.I.」のジュード・ロウの線を狙ったのかもしれないが、違和感しかない(人工物なのに老けている)。
ミスチルやLiSAなどの使い方も下世話で、こういった映画作りが受け入れやすいのだとしたら、とても残念だ。
p.s.昔、何代か前に飼っていた猫に、“ピート”と名づけていました。