「日本の状況はもっと酷い」スペシャルズ! 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
日本の状況はもっと酷い
ヴァンサン・カッセルを初めて見たのはナタリー・ポートマン主演の映画「ブラックスワン」の演出家役で、主人公ニナを狂わせる独特の世界観の持ち主だった。次は「たかが世界の終わり」で、少しでも自分のことに踏みこんで来られると、怒りの感情を爆発させてあることないこと怒鳴り散らす難物を演じていた。私生活ではイタリアの宝石と呼ばれる女優モニカ・ベルッチと結婚。母国語フランス語の他に英語の台詞も流暢である。
本作品では、公式の施設で受け入れてもらえない重症の自閉症患者を無条件に受け入れる無認可のケア施設の経営者ブリュノを好演。自閉症患者たちが病気を克服して社会に出て自力で生きていくようにするのが彼の大目標だ。そのためにはひとりひとり全く異なる患者たちに個別の対策を講じなければならない。
公式の施設は予算と規則で縛られており、自閉症が重症であるほど入所を拒まれる。熱心な職員はブリュノに受け入れを依頼することになる。管轄官庁の役人たちは現場を知らず、無認可のブリュノのケア施設が無認可というだけで排除しようとする。しかしブリュノは自分たちを排除することは重症の自閉症患者を排除することであることを知っている。
物語の主要な部分はブリュノたちのケアの現場である。自閉症は知的障害を伴うから、言葉による意思の伝達は難しい。最終的には言葉でのコミュニケーションが出来て仕事が出来て自立が出来るのが理想だが、それまでは言葉に頼らず、言葉以外の手段で情報をやり取りする。自閉症は脳の異常であり、脳は体からしか情報を得られない。見せる、聞かせる、臭わせる、触らせる、食べさせる、体を動かさせるといった、身体への働きかけによって、脳は次第に情報の処理ができるようになる。ブリュノたちのやり方は理に適っているのだ。
慣れたケア担当者は患者の暴力に怯まない。いちいち反応すると暴力によって何らかの影響を及ぼすことが出来るという体験になってしまう。幼児を見ているとすぐに分かるが、押したら音が出るものなどがやたらに好きである。非常ベルを押したらけたたましい音と一緒に人々が騒ぎ出す。だから非常ベルを押す。人を殴ったら痛いと大声を出したり泣き出したりする。だから殴る。言葉を発せられないから言葉の代わりに殴るのである。何度も殴らせないためには反応しないことだ。
ブリュノたちの施設に集まる人もまた問題を抱えている。多くの人が見向きもしない自閉症患者の施設に来て働こうというのは、それなりの覚悟をしてきた人たちだ。患者に殴られても平気な顔をし、労働時間が長くても給料が遅れても、患者のために努力する。彼らをまとめるブリュノは休みなしだ。おかげで結婚もままならない。それでも患者とその家族が笑顔を取り戻すために寝食を忘れて働く。しかしブリュノたちの施設は無認可のままである。
社会が自閉症患者を見捨てようとし、実際に排除されてしまった重症患者をブリュノたちみたいな人間が多大な犠牲を払って面倒を見る。そんな社会はやっぱりおかしい。重症の自閉症患者を抱える家族には健康で文化的な最低限度の生活が保障されないのだ。税金はまずそういうところに投入されるべきだろう。弱者を公助で救う。金持ちや成功者はそれこそ自助で生きていけばいい。
日本では自助、共助、公助の順を政策として掲げる冷酷な政治家がトップになろうとしている。真っ先にに見捨てられるのが弱い人々であることは目に見えている。国民を個人として尊重するのではなく、グロスで処理しようとすると、最も恩恵を受けるのは富裕層であることは自明の理だ。消費税の逆進性と同じことである。弱者を切り捨てる残虐な政治家が首相になる日本では、ブリュノたちと同じように弱者のケアに頑張っている人々の努力も、いずれは切り捨てられるだろう。仕方がない。日本の有権者がそれを望んだのだ。
最後にタイトルについて。原題の「Hors normes」は解釈が難しいが、当方としてはブリュノの施設が無認可であることから「無認可施設の日々」とでもつけたい。邦題の「スペシャルズ! 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話」は原題からかけ離れすぎている上に「男たちの」という限定もおかしい。ブリュノとマリクの施設には女性も働いていた。それに物語の主眼はブリュノたちがどんな思いで日々努力しているかであって、政府から施設を守ったことではない。配給会社のギャガの人がつけた邦題かもしれないが、早急に改めるのが懸命だと思う。