「戦争映画は有用有急のコンテンツなのだ」ジュゼップ 戦場の画家 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
戦争映画は有用有急のコンテンツなのだ
スペイン内戦と聞いてすぐに浮かぶのはピカソの「ゲルニカ」であり、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」である。いずれも人間がどうしてこんなに愚かしいことをするのかを嘆き、あるいは諦観している。芸術家は人類を鳥瞰してみる面があるので、単純な怒りを作品にすることはない。
本作品の主人公セルジュはそんな芸術家を異国の憲兵として見守る。スペイン内戦は政府軍と反乱軍という単純な構図ではなく、それぞれの勢力に内紛が絶えず、排除の論理だけが怒りの感情となって武器に現れるという最悪の推移であった。フランコは政権を握ってからも元政府軍を弾圧したから、カタルーニャやバスクの人々はピレネーを越えてフランスに逃れたのだが、それはドイツ軍がフランスを制圧するという最悪のタイミングであった。最悪と最悪が重なって、収容所で苦痛の日々を送るジュゼップだが、自分の不幸まで客観視するようにひたすら絵を描き続ける。
憲兵のセルジュが心を敲たれたのはジュゼップの絵ではなく、そういうジュゼップの生き方だと思う。セルジュはジュゼップと対峙するのではなく、横に並んで一緒に作品に向かい合うような、そういう接し方をしている。それはセルジュの優しさなのだろう。
優しい人間にとって戦争は苛酷だ。自殺しない限りは、戦争の中で何らかの役割を果たさなければならない。それは支配する側だけでなく、収容所で餓死したり、病死したり、あるいは憲兵から殺されたりする難民も含まれる。殺し殺され、いじめいじめられ、という酷薄な関係だけが戦争だ。
夏は日本にとってだけではなく、世界にとっても第二次大戦が集結したことを思い出す季節である。この時期には多くの戦争映画が公開されるが、本作品は新しい切り口で戦争を描き出してみせた。難民問題という現在の問題がすでに昔から繰り返されてきたことも表現している。そして芸術家がどのように現実を捉え、どのように作品に昇華させるのか、戦時下の人々がそれぞれどのように芸術と向き合ったかを教えてくれる。
戦争という最も凄惨な状況にあっても、芸術は必要だ。それは絵だったり詩だったり小説だったりする。映画であることもある。コロナ禍でも戦争は常に振り返る必要がある。戦争映画を観に行くことは決して不要不急の行動ではない。コロナ禍に乗じて国家主義を浸透させようとする族(やから)たちがいる限り、戦争映画は有用有急のコンテンツなのだ。