「何の哲学もない独りよがりの作品」ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
何の哲学もない独りよがりの作品
日本では高度成長期の価値観は、結婚して家と自動車を買って二人か三人の子供を立派に育てるというものだった。やがて肥大しすぎた経済は実体のないバブルとなってマネーゲームを誘発し、屋根まで飛んだシャボン玉のように壊れて消えた。あとに残ったのは利益を貪欲に追求する一部の金持ちと文明を享受し、日々の享楽にうつつを抜かす大多数の人々である。家や自動車は一部の金持ちのステータスシンボルでもあり、高級住宅、高級車は今でも売れる。
21世紀の日本は家や自動車などあまり欲しいとも思わない社会になったようだ。それは少子化と密接な関係がある。一人暮らし、または夫婦二人の暮らしなら、一戸建ての家はいらない。生活に見合う広さの賃貸物件で十分だ。家が必要なのは子供がいる夫婦である。子供部屋がいるし、子供と一緒に出かけるのに自動車も必要だ。しかし晩婚化または未婚化、そして少子化の今の日本の社会は、家も自動車も必要としない。賃貸に住んでレンタカーを借りればそれで済む。自分が死んだあとには何も残らなくていい。墓も要らない。骨はそこら辺に撒いてくれればいい。
人生がうたかたのように消えてなくなるものであり、先祖の人生も同じようにうたかたであったのだと考えれば、家に対する執着はない。モノに対する執着もないだろう。生きている内に便利に使えるように実用的であればそれでいい。
そういう今の日本の状況と正反対だからなのか、家にこだわり、先祖の歴史に誇りを持つ本作品の主人公には、とうとう最後まで感情移入が出来なかった。黒人差別、環境汚染は会話の中にでてくるが、目が4つある魚以外は話だけだった。若い主人公の思い込みが優先されて抽象的な描写に終始した印象である。
金融機関に交渉に行くのにジャケットを着たりして社会に迎合するような部分もあり、自信のなさを窺わせる。主人公たちがどうやって生計を立てているのか不明だし、家を手に入れてその後どうするのかの展望もない。時代が変化しているのは分かっているようだが、家も同様に経年劣化してやがて朽ちていくことには想像力が働かないようだ。
個人との思い出もステレオタイプで、安っぽいホームドラマを観ているようだった。あいつはいい奴だったというノリだ。それにいまさら差別と戦おうと言われても、格差がありすぎてどうにもならない。劇中劇の観客以上にこちらが白けてしまう。独創性に欠けるのだ。
黒人同士が互いにニガーと呼びかけて差別を茶化して相対化するのも、もはや時代遅れだ。どのシーンにも何の哲学もないから、独りよがりの作品になってしまった。それでも映像の美しさと歌がよかったのでそれぞれ1点ずつ、2.0とする。