「シンプルな情熱、その裏にある複雑な行動」シンプルな情熱 高橋直樹さんの映画レビュー(感想・評価)
シンプルな情熱、その裏にある複雑な行動
映画の冒頭には、監督がこれから語ろうとするエッセンスが凝縮されている。時代や登場人物たちが置かれた状況を端的に示し、観客を映画の世界へと誘うのだ。言葉で明示することもあれば、数分間のエピソードによって語られることもある。溝口健二のように、家に帰って来た主人の行動によって、彼を取り巻く人間関係と物語の舞台を共有してしまう達人もいる。この場合、映画の時制はストレートに流れ、フラッシュバックなどで過去がインサートされていく。
映画はホテルの外からひとりの男性を見つめる女性の「去年の9月から何もせず、ある男性を待ち続けた」と言うモノローグで始まる。過去を振り返る台詞で開巻し、言葉が発せられた瞬間に至るまでの過程を描いていく。男を待ち続けた彼女の狂おしい日々は、いかにして冒頭の独白へと至るのか。映画が進むにつれて観客が彼女の時間に追いつくという寸法だ。
激しくドアを叩く登場が強烈だった『若い女』(2017年)で、心が定まらず大人になりきれずに放浪する女性を演じたレティシア・ドッシュが、今度はバツイチのシングルマザーに挑む。大学で教鞭を執る大人の女性であるエレーヌは、あるパーティで知り合ったロシア大使館職員アレクサンドルと情事を続けている。原作は作家アニー・エルノーの実体験に基づいた小説で、監督はレバノン出身の女性監督ダニエル・アービッド。
素性がわからない恋人を演じているのは、天才ダンサーとして頂点に立ちながら、自由な表現を求めて英ロイヤル・バレエ団を飛び出したセルゲイ・ポルーニンだ。電撃的な退団に至った過程は、『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』(2016年)に詳しい。
アレクサンドルに溺れるエレーヌの姿は、友だちが指摘するように「恋に恋している」だけなのか、愛に酔っているのか、それとも取り憑かれたかのようにセックスに耽溺しているだけなのか。
電話を待つだけだった彼女は、いつ会えるか分からない男との情事のためにドレスを試着、下着も新調したり。連絡が途切れるとスマホに手が伸びる。やがて仕事も手につかなくなっていく。
この映画が描くのは、やり場のない「疼き」だ。身体の芯から込み上げる情熱が彼女の行動をエスレートさせていく。
窓越しにフォーカルする描写が効果的に使われ、衝動に対してピュアでありながらも、自分自身に不純を感じる彼女の複雑な心理が繊細に映しとられていく演出が効いている。
さて、冒頭で述べた時制が合致するタイミングはいつ訪れるのか。とくとご覧あれ。