「【不思議な魅力、「本気のしるし」について】」本気のしるし 劇場版 ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【不思議な魅力、「本気のしるし」について】
この映画は不思議だ。
「なぜ?」という問いに向き合いながら、4時間近く飽きずに見続けることが出来る。
人をこうも惹きつける浮世の不思議な魅力とはなんだろうか。
この作品に惹きつけられる理由を理解するためにも必要な問いだった。
(以下ネタバレあります。)
↓
寂しげに見えるが、本当にそうなのか分からない。
すごい美人ではないが、気になってしまう。
人物背景が判然としない。
子供のおもちゃを買う。
死にかけたのに、自覚がない。
善意で助けてあげても、嘘をつく。
追いかけると逃げる。
突き放そうとすれば寄り添おうとする。
やくざに売られそうになっても助けを求めるでもない。
助けるのを止めようとすると、助けて欲しいと懇願する。
意を決して働いても続かない。
普通であれば、こんな期待と反対方向の行動パターンにイライラが募るはずだ。
どこの誰とも分からない人間に、交通費を貸したりしないし、ましてや、やくざに大金を渡して身元を引き受けたりしないだろう。
それが当たり前だ。
だが、実際にこうした人がいて、脇田が言うように、出会ってしまったが最後、深い海に引きずり込まれるれるように落ちていくしかないのだろうか。
もしそうだとしたら、ちょっと会ってみたい気がする。
興味が湧いてしまう。
それは難しいだろうから、この映画を通じて追体験したいと、覗いてみようと、惹きつけられるのだ。
音楽や絵画でも揺らぎは、人を惹きつける重要な要素だ。
この映画では、浮世のキャラクターの矛盾ともとれる行動と、更に、実際、こんな人がいるのかと、でも、いるのであれば、会ってみたい、覗いてみたいという気持ちが、浮世と映画のストーリーの間で相互に揺らぎとなって、魅力を増していく。
一方の辻はどうだろうか。
複数の女性と付き合い、セックスはするが、実は相手を愛しているかは曖昧だ。
浮世を助けてあげるが、セックスを求めるようなことはしない。
深みにはまってはいけないと思っているのだろうか。
だが、最大限の援助を常にする。
なぜ?
辻は、実は、浮世を通して、人を好きになるということと向き合っているのではないのか。
そして、浮世の背景が次第に明らかになっていく。
僕は、シャボン玉のおもちゃは、浮世を我が子と結びつけるアイテムで、しっかり繋がりを求める気持ちがあるのだと…、ただ漂っているだけではないのだと感じた。
また、阿部純子さん演じる浮世の友達(名前は忘れました)の言葉で、浮世は、人を好きになるということが、どのようなことか理解できていなかったのだと、そして、それを自ら求めてもいなかったのだと思った。
でも、気持ちと行動という意味では曖昧だ。
だが、エンディングに向かって、浮世の娘との散歩のシーンや、仕事を地道に続けている場面を見て、「好き」という感情が前向きに生きるための変化となったのではないかと確信するようになる。
葉山や峰内に対して、受け身で演じていたものとは違うものだ。
そして、これは、僕達も実は似たようなものではないのか。
相手を好きだという理由を自分で突き詰めて考えたことはあるだろうか。
財政や家柄だったら、それは、それ自体が目的だ。
フィーリング。
優しい。
真面目。
女性(男性)らしさ。
かっこよさ(かわいらしさ)。
育った環境が似ている。
よく考えると、実は、どれも曖昧ではないのか。
だが、当たり前だ。
好きという感情が先行して、いつも理由は、追いかけるようについてくるだけだ。
葉山や峰内は、こうした感情に従順だった。だが、何か行動が伴わなかったのだ。
悩み事の相談にのって、付き合ってしまうことはある。
告白されて、言われるがまま、付き合ってしまうことはある。
成り行きでセックスして、付き合ってしまうことはある。
いつかは変化して「好き」になるのかもしれないが、初めから「本気の好き」ではないことは多いのではないのか。
この物語は、浮世をはじめとする登場人物を通じて、僕達の曖昧な好きを見せているのだ。
曖昧さは、確固たる理由がないという意味で弱点でもあるが、曖昧さは、僕達の人間らしさでもあるはずだ。
だから、この作品の締めくくりは、浮世と辻の再会を通して、これを肯定して見せたのだ。
曖昧だった好きが、様々なステップを通じて、本気の好きになり、何か人生の芯のようなものになっていく。
必要なのは「本気のしるし」なのではなく、「本気」なのではないのか。
「本気」から生まれる行動が「本気のしるし」になるのではないのか。
そして、それは、とても大切なことだと、今は思う。