「家で最期を過ごす提案」いのちの停車場 movie mammaさんの映画レビュー(感想・評価)
家で最期を過ごす提案
救急一本できた医師が、
事務員が点滴を打つという事態の責任をとって、
地元に戻り地域医療に携わると共に、
高齢の父親の安楽死を検討するという脚本。
テーマ自体は現代的で重いのだが、
ツッコミどころが満載すぎて。
点滴を打つという失態をした事務員野呂が、
吉永小百合演じる医師咲和子を追いかけて金沢までやって来て、地域医療のまほろばで働き始める。
いや本当に罪に問われてないのか?
そこでも懲りずに、
厚労省大臣だった癌患者の最期に息子のふりをしたり、
医師免許がないのに小児がんの子と何度も面会し親以上に打ち解けている。
咲和子先生は、救急上がりながら、カルテが全部、手書きの驚愕。
痛みからの解放を求める父親について相談しに、まほろばのメンバー行きつけのモンゴルびいきの料理店に寄り、まほろば院長に相談したら、視聴者への説明のためなのか、院長が、咲和子の言わんとしている安楽死について悟るまで何度も聞き返す。ボケたか?と思った。
「また家族を失うんですね」と泣く広瀬すずに、
「野呂くんは必ず医師になって戻ってくるわ」
と看護師の心模様をわかっているのはさすがだが、
野呂はこれから医学部受験→国家試験→研修医と最低でも10年近くかかる酷なお知らせ。
わざわざ院長に相談に行ったのに、一方的に店を後にし、嫌な予感がすると駆けつけて来てくれた看護師にも上記の慰めにならない慰めのうえ、父親の安楽死に向かう咲和子。。
「この国では安楽死は犯罪です」というゴールを院長がはっきり述べていて、そこゴールならありえない選択となるはずだが、「でもこれは何度も父と話し合った私の結論なんです」と私の結論が上回ってしまう、医師咲和子。辛い心境なのはわかるが、役柄上豊富な医師経験を持つだけに、思考に違和感。
結局、タイトルの通り、地元のバス停が家族を出迎える想い出の場になっていて、その頃を思い出して、踏みとどまる=いのちの停車場となるのだが。
現代化についていかれていないおじいさんが、心の機微だけを追って書いた脚本。という印象。
私ひとりでならできないけど、みんなでならできる気がして、と長年の介護の中で手が回らずゴミ屋敷化してしまった患者の家を片付けるところはとても良かった。
父の提案で、しほりに寄り道してダベ煮を食べる場面も、おそらく一緒に食べる人生最後のダベ煮だろうとわかりながらの心境と、背景で川沿いに風になびく加賀友禅らしき反物の描写が印象的で良かった。
先進医療を勧めた幼馴染が先進医療の影響で亡くなるのも、咲和子にはとても辛かっただろう。
ただし、咲和子は救急で咄嗟の判断を迫られる場が長ったからか、四肢切断なども医療の目線でさっさと決められる一方で、地域医療という最期までをいかに生き生きと過ごすかという視点では、結末を出すのが早い気がした。
患者本人の意思も、延命治療の要不要の本人の意思も大切なのだが、遺された時間を濃くいきいきと過ごすための医師の目線を咲和子はこれから学んでいくのかなと最後の日の出シーンで感じた。
看護師の言う、院長と咲和子さんは全然違うという意味はそこかなと。
治療はどんどん技術が進むが、身体に負担がかかる。
できそうな治療をするよりも、しない決断をする、
いのちのしまい方。進んでいくルートから降りる、いのちの休ませ方。降りた後、囲んでくれる人がいたら暖かい。そのような最期の過ごし方はどうでしょうという、監督からの提案を感じた。
モンゴルびいきの食堂ご主人が言う、「パオ包」の全てを包み込む概念は、家族でも血の繋がりはなくても、一緒にいて支え合うという安心と強みがあって、命のしまい方にも繋がるから作品に取り入れたのだろう。