「作品時間を収めるということ」ミッドサマー ディレクターズカット版 いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
作品時間を収めるということ
勿論、監督や制作現場に携るスタッフ、そして演者にしてみたら撮影されたカットは何一つ落とさずに利用して繫げて欲しいというのが願いであろう。編集は、そのカットをストーリーとして構築していく為の作業であって、チャゲ飛鳥じゃないけど♪余計なモノなどないよね♪的な不必要なカットを削ぎ落とすなんてチョイスはしたくない。しかし冗長はしばしば観客に飽きと集中力の低下を招く。そしてそれが直接的に評価へと繋がる。そもそもがストーリーをリアルタイムの時間軸で組み立てることにリアリティが生まれるのかと言えば、それは“NO”である。生放送のテレビドラマは以前はたまに放映されていたが、あくまでもシチュエーションドラマの枠内だ。ノーカットのワンショット撮影(風)の作品も注目され、それはそれでスペクタクル性がとんでワクワク感が増す演出だ。ただ、その大半は綿密に構築された撮影プロットや脚本の積み重ねにより、整理整頓された形で観客に提供される。所謂“過不足なく”だ。“過不足”の基準は一体何だろうか?正に前述の評価に繋がる冗長さを精査しての作品全体を統括するプロデューサーの千里眼に他ならない。勿論、映像作品全てには当てはまらないが一般論としてだ。とはいえ、フィルムからデジタル媒体へと記録先が劇的に変化した現代は、その真剣さも薄れつつあるのも事実であろう事は承知している。
前段こそ冗長で申し訳ないが、その葛藤に於いて、監督は自身の思い描く表現を余すところ無く披露したい欲求にブレーキを掛けなければならない。難産の末に生まれた映像カットをだ。今作のアリ・アスター監督も苦悩を吐露していたようである。そして、その監督が完全版と自信をもって上映されたのが、今作のディレクターズ・カットである。
正式版では伝えきれない、本来存在する細かな加筆部分も数箇所あるが、何回も鑑賞していないのでどの部分がその場所なのかは、ネット上の考察まとめで確認するという、本末転倒的な行為に恥ずかしさを感じているが、それでも直ぐに気付いたシーンがある。コミューン内の少年が生贄の為、体中に錘を付け洞窟内?それとも希少な夜時間?の池の中に投下される件だ。正にその前段階での壮絶な“アッデスパン”の精霊行事を見せつけられての、今度は子供迄も犠牲になる究極の狂気に狩られた村の蛮行に、主人公達のストレスもピークに達する演出だ。但し、それは神の前で繰広げられる“劇”であり、村の女性達からの救いの懇願により沈めることを止めるというところまでが芝居内容である。そのジェットコースター的感情の起伏を喰らい続ける観光グループ達の不安、不信、安堵、そしてこの世界での寄る辺の無さという無常観に、一気にたたき落とされるのだ。そう、子供を池に投げ入れるのではない、自分達がこの村という“池”に投げ落とされてしまった決定的瞬間なのだ。
このシーンの重要性は、観客それぞれが感じ取るものであろう。カットされても確かに直接的なストーリーの齟齬はない。但し、感情のメーターの往復数が違うだけで、以降のシーン又はシークエンスへの布石がどれだけ違うか、強力な楔という意味合いを改めて考えさせられた大事なシーンであると自分は強く感じる。ストーリーを積み上げる上で、あの演出(又は騙されたと言っても良い程)の壮大な“フリ”は、地獄で黄色いタンポポをみつけたようなそんなホッとした優しさを、実はそれも企てられた罠とは知らずに受容れてしまう悲しい人間の性を描いた、心を惑わされる悪魔の演出なのである。