「【普通】」まともじゃないのは君も一緒 ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【普通】
僕は人に対して、
「普通じゃないよ」
と言ったことは、ほとんどない気がする。
考え方に対して、「変だ」ということはあっても、相手の性格なんかを、変だとか、普通じゃないと言うのは、人格否定になるかもしれないと思っているので、よほど頭に血が登ってない限りは言わない。
少し変わってても、良い面があると思った時に、ある女性に「エキセントリックだね」と言って、どういう意味ですかとギロッと睨まれたことがあって、慌てて具体的に説明して、誤解を解いたこともある。
NHKのドラマ「ここは今から倫理です」で、引用されていたショーペンハウワーの言葉に、前に映画「Miss」でも紹介した「我々は他人と同じになるために、厳しい自己放棄によって、自身の四分の3を捨てねばならない」と云うのがあった。
この映画を観て、再び、確かにそうだと思う反面、僕達が、如何に曖昧な普通という価値観の中で、翻弄されながら生きているのかと、可笑しくなって、映画の間中、クスクス、たまに、ガハハと笑ってしまった。
僕が社会人一年目から働いていたアメリカの日本法人では、協調性の有無という人事評価は、上司が最もやってはいけない評価だった。
日本の会社から転職して来る人が、これに凄く戸惑うのを見て、やれやれと思っていた。
要は、評価は具体的じゃないとダメだということなのだ。
さもないと、改善点を指摘してあげることも出来ない。
でも、協調性という言葉の好きな人は、協調性を持ちなさいと云うのが改善点だと強調する。
やれやれだ。
僕達の周りには曖昧なものが溢れている。
昔、セミナーと称して、客寄せパンダにと著名な経済評論家を呼んで講演してもらったことがあった。
無茶苦茶な講演料でビックリした。
お前の中身のない1500円の本を買って、読んで、レジュメを作った方が、よっぽど安くて、分かりやすいよと思った。
こうした人は、講演でも絶対に具体的なことは言わない。
具体的な解決方法は言わないのだ。
というか、きっと、ないのだ。
そう、言ってみて間違ったら、もう講演など出来なくなるから、無い方が良いのだ。
原発反対で全国各地を講演して回っている小泉純一郎さんだって、「汚染水はどうするのが良いですか」と記者に聞かれて、「それは、住民とよく話し合って、理解を得て…」とか、そんな程度だ。
まあ、汚染水の責任を、この人に全部擦りつけるのは気の毒な気もするが、基本的には昔からなんだって人任せな人だ。
郵政民営化だって、やったら人任せで、今や簡保不正で、郵政を信用してる人は少なくなった。
最後まで責任を持つなんてことはないのだ。
だから、大野と香住のように、自分たちで、具体的に作戦を練って行動してみるのは良いことのように思う。
まあ、程度にもよるが。
そうすれば、僕達が如何に曖昧な世界の価値観に翻弄されているか判るだけじゃなくて、本当の自分の気持ちや、為すべきことに気がつくかもしれないからだ。
「ヘンテコな普通」に雁字搦めにならないで、あれやこれやチャレンジしてみて、実は多様なのが普通だと気がつくのがベストなのかもしれない。
そうすれば、あの大野の(普通じゃない)笑い声だけじゃなくて、同性を好きになるとか、名字は自由にしていいとか、そんなことも全部普通になるかもしれない。
多様な森こそ、普通なのだ。
コミカルなストーリーに好感が持てたし、この主演の二人の演技が光ってた気がする。
楽しかった。