「構図や演出の決まったプロパガンダ映像を、より劇映画的に編集することによる皮肉!!」国葬 バフィーさんの映画レビュー(感想・評価)
構図や演出の決まったプロパガンダ映像を、より劇映画的に編集することによる皮肉!!
日本では、ことごとく未公開扱いにされていた、ロシアのドキュメンタリー作家セルゲイ・ロズニツァの「群衆」にちなんだドキュメンタリーを劇場公開するという企画が、遅れて名古屋でも公開されたが、流石に3作品を一気に観るのには体力がもたないということで、とりあえず観たのが、現時点では最新作である『国葬』だ。
プロパガンダ的記録映像の中にある、計算しつくされた構図や演出から劇映画的要素をあえて寄せ集め、俯瞰的に、いかに茶番であったかをみせるドキュメンタリーだと解釈して良いのだろうか。
北朝鮮の将軍様を死を悲しむ国民のフェイク映像、国外に向けたプロパガンダを連想させるようだ。
映画的構図と群衆たちの葬儀参列映像を垂れ流しにする中での、ひとりひとりの悲しみの表情が、バックボーンを想像させてしまうという構造は、演出的には見事と言うべきかもしれないクオリティであると同時に、国民なのかエキストラなのかは不明だが、一般人たち?が実に多種多彩な表情をみせている。
セリフがあるわけでもないのに、スターリンの死亡記事の載った新聞を買うために、子どもから老人までもが列をなす様子から、国民の動揺や不安感を演出してみせているのは、下手な劇映画よりも映画的である。
この大量のアーカイブフィルムは、『偉大なる別れ』というプロパガンダ映画の素材であったため、200人以上ものカメラマンが撮った素材がかなり豊富であり、また様々な視点、角度からの映像が存在していて、つなぎ合わせるていることで、モノクロとカラー映像が入り混じりはするのだが、逆にそれがアート的効果となっている、
意図的な構図のプロパガンダかもしれないが、皮肉にも当時の時代背景を切り取った、美しいポートレート的側面も見所である。
普通だったら、「こんなところまで撮影しているのはおかしい」というような、労働者たちの表情の切り取り方は、アートでしかない。
ナレーションが入るような、解説ドキュメンタリーではないため、なかなか忍耐力のいる作品ではあるが、スターリンの葬儀参列を疑似体験できるという、なかなかない様なおもしろい体験ができる。
余談ではあるが、スターリンの死とその周りの権力争いを風刺漫画的に描いた2018年の映画『スターリンの葬送狂騒曲』を思い浮かべて観ると、別の意味でおもしろい部分がたくさいあったりもする。
本来ドキュメンタリーというのは、記録映像のことであり、ただ労働者が工場から出てくるところを撮り続けていることで、一見ホームビデオ的ではありながら、登場の労働者がおかれていた環境を切り取っている、リュミエールの『工場の出口』のようなもののことを示しているだけに、記録映像を編集してプロパガンダであることが、わかりやすく現れている部分をあえて再構築していくことで、一周回ってプロパガンダという特徴を利用し、風刺作品にしてみせているという荒業をやってのけている。
当時のプロパガンダを再構築して、観やすい様に編集しているだけであれば、ベネチア国際映画祭で評価されることはないだろう。
ドキュメンタリーというのは、一定の偏った層の観る映画であって、一般的にあまり定着しないという中で、長年の間、日本では日の目を浴びていなかったドキュメンタリー作家が発掘されていくというのは、嬉しい限りではある。
それは劇映画が公開延期になる中で、すでに海外では公開れていながら、日本では未公開の山のようにあるドキュメンタリーが空きを繋ぐという役割も果たしているのだが、自粛期間中にネットフリックスのドキュメンタリー作品が多く視聴されたということにも影響されているのかもしれない。