劇場公開日 2020年6月13日

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「「君」という表現は痛いところをついている。」なぜ君は総理大臣になれないのか shunsuke kawaiさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0「君」という表現は痛いところをついている。

2020年9月13日
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細かい話だか、タイトルの「君」というのは、小川議員を子供扱いしていてよくない。日本語はいろんな表現があって細かいから適切な表現がなかなか難しいが、「君」なんて聞くと政治家を志す若い大学生の話かと思ってしまっていた。

いかに小川議員が大変な思いをしているかが伝わってくる映画なのに「君」じゃあ、上から目線がもろに出てるし、敬意にかけていると思った。

なぜ、小川議員のような真底誠実で公共のために人生を賭ける人が、活躍の場を得られないのか。決定的に足りないのは本人いわく、偉くなりたい、栄華を満喫したいという、立身出世のための権力欲。たしかにそうだと思う点を自覚している。やはり政治家の本質は公共のためというより、自分のためが第一にあるのだろうか?

政治家になりたい、ましてや総理大臣になりたいという人は、なぜなりたいのか?それは権力の魅力を誰よりも理解している人だからなりたいのだろう。基本は自分のためにやっているわけだ。だから世間から気持ち悪がられ、嫌われるわけである。嫌われることよりも権力の魅力のが勝ると思っている人たちである。
それを必死に隠して、公共のためにやっているように見せるわけである。

だが、本当に権力欲がない政治家がいたとしたらそれは本当だろうか?本当に国や地域のためになることだけに生きがいを感じる人がいるのだろうか?

この映画で、そういう政治家がいたことを観客は知らされる。小川議員はそういうタイプの政治家であり、それこそが衝撃だった。そんな人がいるのだと思わされるわけだ。

政治家は、自分の権力欲を満たす人たちばかり、むしろそれはあたり前のことで、しかもそれが政治家の本質だとしたら、権力欲のない政治家は政治家に向いてないという話になってしまう。小川議員は何ものなのか?という話になってしまう。

公共のためと、立身出世欲のためは一見矛盾するようにみえるし、そりが合わないようにもみえる。実際、公共のためなど度外視している政治家が今現在もっとも権力を握っているかのように思える世の中だと思えなくもない。それこそが政治家の本質なのだし、それが当たり前だからということで、だんだんどうでもよくなってしまうという流れに世の空気がなっているように見えなくもない。

だが、そもそも、公共のために何かをしたいということと、立身出世欲や権力欲は矛盾するのだろうか?

それはありえないと思う。

だれでもかすかな権力欲はある。どんなにダメな会社、学校なんかの組織にいて、仕事ができない、もしくは勉強も運動も取り柄がなくて、その組織において、なんの存在意義もないと自分では薄々わかっていても、そこで自分に都合よく物事が進められたらだれでも嬉しい。どんなにバカでも能力がなくても生きる楽しみとして権力は欲しい。

論理的にも、当たり前だが、権力をもってして、自分のためにもなり、公共のためにもなるということはあるし、そこを狙って小川議員は政治をやってるはずである。小川議員は、群を抜いて勉強ができ、性格も溌剌として明るく曇るところがない。相対的に相当優れた人で元官僚で今は政治家なのだから、権力欲ゼロではないはすだ。むしろ普通の一般人よりも権力欲はあるはずである。ただ、政治家の世界では、その程度が低いだけだと思う。

もっと言えば程度の低い権力欲では本当に権力を握るのは、かなり困難で、強欲バリバリでないと権力は握れないということであり、この映画のタイトルの「なぜ」への答えは、極端な権力への強欲さを持ち合わせていないからということになるだろう。言いかえれば強欲であり権力をもつことが誰にとっても魅力的なことであれば世の中の誰もが総理大臣になりたいと思うし、政治も楽しくなるということだと思う。

この映画のタイトルは、なぜそんなおしとやかに政治なんかやろうとしてんの?というようにも聞こえる。誠実さや謙遜な小川議員な人柄を挑発しているようにも聞こえる。挑発的な表現として、小川議員を「君」扱いしているわけだ。

屠殺100%