劇場公開日 2020年11月13日

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「ポルト・サン=マルタン座の観客のひとりになった気分になる」シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5ポルト・サン=マルタン座の観客のひとりになった気分になる

2020年11月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 観ている間ずっと楽しく、思い出しても愉快な傑作である。登場人物が一癖も二癖もある人間ばかりで、それぞれをアップで撮ったり引きで撮ったり、または人物の周りをカメラがぐるぐる回るようなカメラワークが秀逸で、登場人物の典型が更に引き立つ。
 音楽もよかった。ラヴェル作曲の「ボレロ」は、毎年正月にオーチャードホールのニューイヤーコンサートで聞いているが、延々と続く小太鼓の軽快なリズムに乗って同じメロディが楽器を変えて繰り返され、最後はすべての楽器の大合奏になるという、大変に盛り上がる曲である。本作品ではいよいよ大団円を迎えるというシーンでこの曲が流れる。観ている方も弥が上にも気持ちが高揚してくる。とても上手な演出だ。

 詩人で劇作家というと、亡くなった寺山修司を思い出す。「さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう」ではじまる「幸福が遠すぎたら」という詩や、劇団天井桟敷の主宰で有名だった。大江健三郎と同じ1935年生まれで、47歳の若さで亡くなっている。「幸福が遠すぎたら」は、井伏鱒二が翻訳した漢詩の一節「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」に触発されて書いたもので、その結びは「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」である。
 本作品の主人公である詩人で劇作家のエドモン・ロスタンは寺山ほど尖っておらず、むやみに他人に体当たりしていくこともない。寧ろ気を遣うことで疲れてしまう面さえある。しかし人間関係など物ともせず、才気煥発で、見るもの聞くもの触るもの、五感のすべてから溢れるように言葉を紡ぎ出すことができる。稀有な才能だ。
 詩や小説を書いたことがある人ならご存知だと思うが、白紙を前にして暫くは産みの苦しみが続くが、あるとき突然、想像力が入道雲のようにすごい勢いで湧き出して、筆が止まらなくなることがある。憑かれたように書くという言い方が一番近いと思う。筆が勝手に走り出すのだ。今ではタイピングの指が自動ピアノのように動くとでも言うのだろうか。恍惚として、とても幸福な時間である。
 ロスタンが脚本を書く場面では常にそんな幸福感が彼を取り巻いている。描くのは悲劇でも喜劇でもいい、とにかく人間を描くのだ。自分自身の内面を見つめ、欠点を暴き悩みを抉り出す。慢心や油断、虚栄といった感情もすべて掴みだして、それぞれを登場人物に当てていく。人間は多面的だ。登場人物がどれだけいてもいい。ひとりひとりに委ねるべきものは必ずある。あとは大団円に向けて物語を綴るだけだ。
 熱に浮かされるようにして書かれた芝居だが、ロスタンを取り巻く人々の熱も相俟って、壮大な恋愛物語が出来上がる。最後の通し稽古。そして本番。「ボレロ」のようにリズムを取りながら役者たちが「シラノ・ド・ベルジュラック」を演じる。合奏することでそれぞれの楽器が互いを補完して迫力のある音が生み出されるように、役者たちの演技が昇華してひときわ輝く舞台となる。
 観る人すべてをまるで映画の中の劇場ポルト・サン=マルタン座の観客のひとりになったかのような気分にする素晴らしい作品であった。

耶馬英彦