「詩のような映画」海辺の家族たち きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
詩のような映画
予定通りにいかないのが、家族ってものなのかもしれない
頭上の高架鉄道が印象的な映画でした。
トラック乗りの僕、
毎日高速道路を走ります。
そのコースはおもに長野道~中央道~名古屋方面。
山と谷を縫って走るあの道路には、数ヵ所に非常に深い谷があり、恐ろしく高い高架から下の街が見おろせます。
どんな人が住んで、どんな暮らしがあそこにあるのか。
そして逆に、あの豆粒のように見える小さな家からは、天を突いて立つコンクリートの橋脚と大空に蓋をする道路の腹が、そしてそこを通過する車の姿が、どのように彼らには見えているのだろうか。
山肌の傾斜地に、まるでひどく狭いあの土地に、しがみ付くように貼り付いている村。すぐ目の前が海になっている村。
この映画「海辺の家族たち」が映し出すこの村のシチュエーションは、奥行きは無い。ものすごく奥行きが狭い。
空も狭い。高いけれど、でも途中で空が終わっている。
視界を遮る高架の存在が、村の生活にガラスの天井を架けている。
脱出しようにも、目の前が海で、道は途切れている。
閉ざされています。
四面楚歌の風景。
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高架の下に住む村人の物語でした。
フランス南部の大都市=マルセイユと、首都のパリを結ぶ鉄道です。発展から取り残された入江の村の頭上を、列車は通過するばかり。
映画は、
少子高齢化や、ボートピープルの問題をからめ、高齢の親たち、そしてそのような親を置いて故郷から脱出して行こうとする息子世代・娘世代が諍う、小さな漁村のおはなし。
原題はLa villa. 「別荘」。
南仏の映画は、北部パリの都会物と違ってストーリーが、より叙情的ですし、空気に湿り気があるので僕は好きです。
老いていく者、
落ちぶれていく兄妹。
そして
死んでいく者があり、看取るためにキャリアを捨てて帰郷する者もあり、
はたまた歳を取った両親への思いは厚くて、医療と経済的なケアは忘れない(でも普段は後ろ髪引かれながら都会暮らしをしている)隣家の息子もいる・・
寂れた港町は、それこそ“限界集落”の様相。にっちもさっちもいかない。
スクリーンの親子のそんな姿は、身につまされるし。身にも覚えがある。
ところが
人が動くと事件とは起こるものだ。娘が帰ってくる。
父親を嫌い、死の思い出を遠ざけて20年。実家を離れて背を向けていた娘を、これまた20年も思い続けていた人がいた。待ち続け、恋い焦がれていた変わり者がいてくれたのだ。
若い漁師が花束を捧げて、母親ほどにも歳の離れた彼女にひざまづき、まるで「天井桟敷の人々」のジャン・ルイ=バローのような彼。
映画の終盤には、思いがけず 幼い三人の子どもも転がり込んで、家族に加わる。
老人ばかりの寒村に、再会者と闖入者がやって来て、村の家族に新たなる生命が注入されるのですね。“カンフル剤”のようですね。
むむむ。新しい刺激は新しい生き甲斐を生み出しますねー。
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(要注意だし、解決しなければならない課題も多々あるということを前置きしつつ)
特養老人ホームで働いていた僕は、幼稚園・小学校と老人ホームは同じ敷地にあっても良いのになぁと思うのですよ。
一緒にご飯を食べ、一緒に花壇を作り、一緒に生きてお話をして、一緒にお見送りをする。
一緒にいなくちゃいけない事ってあると思います。それは人としての、欠いてはいけないものを見つけ、生きることの輝きをお互いに発見できるために。
・子供は老人を生かす使命があり、
・同時に老人にも幼子を生かす重大な使命があるんですよ。
こんな話があるのです、
ベトナム戦で、
戦火を逃れてジャングルの中を幾日も逃げていた村人と兵士。もうくたくたに疲れ果てて一歩も歩けなくなった老人が「自分はもうダメだ、ここで死ぬ、ここに置いていけ」と地べたに座ってしまった。
その老人の様子をじっと見ていた兵士は「あなたはこの赤ん坊を抱きなさい」と兵士が抱いていた孤児を無理やりにその腕の中に押し付けて振り向かずに先へ歩き出した。
で、老人はどうなったと思いますか?
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エンディング。
高架のローマン橋の下を家族みんなが歩きます。立ち上がって急斜面の坂道を登っていく。
老いも若きも、死者も生者も、お互いが天上に向かって、優しく木霊と呼び交わすあのラストに涙しました。
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人間って、「輪廻転生」するんだと、思いましたよ。
海で死んだ娘の残した衣服が、とうとう必要とされて生き返ります。開かずの間だった子供部屋のベッドは今や三人の子供たちが並んで眠ります、孤独だった母親アンジェルに笑顔が蘇ります。
兄は警官をまき、スパゲティーを作り、弟は家族の有り難みに気付かされて、難民の子を風呂に入れ、教え子には自由を与え、著作の意欲に燃えて顔を紅潮させる。
固く握っていた手が、ゆっくりほどけていくように、老いと終末の恐怖から自分を守るために、がっちりと防御し組んでいた大人たちの手が、ほどけて緩んでいく。
私にもあなたにも、与えられた役割がある。
自分の終わりの日まで、自分の生まれた意味と、与えられた使命を抱くために、この両腕(りょうかいな)は在る。
予定外であればこその押し付けられた恵みがあるのだ。
そう教えてもらいました。
・倒れた父親の介護という面倒と、
・見つけてしまった難民の子の世話という面倒が、山と海に挟まれて人生の活路を失っていた家族に、突破口を与えたんですね。
監督の眼差しは
小さな村の小さな家族に焦点を当てて、そこに人間の存在意義の原点を見ようとする手法。
地味だけれど監督の演繹法的メッセージ性をふつふつと感じさせます。
遠赤外線の暖かみで、じんわり心が満たされる作品でしたね。
ポール・ゲティギャン監督。
今は都会に暮らしていても彼こそマルセイユの出。高架を通過しながら眼下の同胞に注ぐ想いが優しい。
声高に現代社会の問題や矛盾を語るのではなく、穏やかに心に満ちていく「郷愁」と「詩」と、「海の美しさ」があって、
満ち潮のごとく、息を吹き返していく、家族の新しい誕生の物語がある。
困難に行き詰まっていても、お父さんは振り返ってくれる。
たとえ振り返ってくれなくても大丈夫。私たちは言えるんだと思いますよ、お父さん、お母さん、夫に妻に そしてきょうだいに。そして子どもたち、難民の子にも
「あなたこそ私の使命、私の家族」、
「あなたこそ私の生きる理由」。
「ショコラン:ありがとう(アラビア語)」と
شوكولاتة
映画の次男坊は「間奏曲はパリで」の牛飼いのおじさんですね。イザベル・ユペールの夫役。いい俳優揃いです。
僕自身が初老に至って、自分の親の終わりを見据える時期。どのチャプターも身にしみて迫りました。
塩尻・東座の支配人さん、いつもいい映画を引っ張ってきて下さってありがとう。
(昨日の上映は切符売りが支配人、映写係が妹さんの姉妹組で。そして受付はお母さまでした)。🎵