「out of my mind」佐々木、イン、マイマイン 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
out of my mind
誰かが記憶や死者を辿るとき、その対象は少なからず一方的・恣意的に消費される被虐者である。面と向き合った相手の心さえ見通せない我々に、記憶や死者のそれが見えるはずもないが、記憶や死者をなかったことにはできないから、我々は自分の思考を頼りにそれらを思い浮かべる。俺にはお前がわかるんだ、と自己暗示をかけ、「内面を持った」記憶や死者を好き勝手に召喚する。
別にそうすること自体は悪くない。それが「思い出す」という行為の本質なのだから。ただ、思い描いた他者像が自己世界の拡張に過ぎないということを意識的であれ無意識的であれ忘却し、主客の位相を混線させるような作品には疑問がある。
本作ははじめこそ石井を語り手(あるいは思い手?)とした一人称の体裁をとっていたものの、物語が進むにつれてカメラは徐々に石井を離れ、思い出される客体であるはずの佐々木にも焦点を当てていく。私にはこれがものすごく暴力的なことに思えた。
石井の個人的世界の中では「佐々木は可哀想な奴だった」という憐憫にも似た認識が醸成されていたが、先述の通りこれはどこまでも恣意的な他者認識だ。佐々木が本当に何を思っているのかは佐々木にしかわからないし、わかるべきではない。にもかかわらずカメラは石井のいないところに留まり続け、そこで苦悩し涙をこらえる可哀想な佐々木を捉える。このように佐々木「だけ」を映すことによって、石井の主観(=想像)は客観(=事実)へと巧妙にすり替えられていく。絶対にわかるはずのない、わかるべきでない佐々木の本心が暴かれていく。石井の回想によって一方的・恣意的に呼び出された佐々木は、次いでカメラの客観化作用によって「事実」へと固定される。佐々木は二重の暴力に翻弄されているといえるだろう。特に佐々木が山梨のカラオケボックスで苗村をナンパするシーンなんかは佐々木を「事実」にする以上の意義がまったく見当たらなかった。
果たしてこれほど執拗に、「佐々木 "in my mind"」というタイトルさえもかなぐり捨ててまで佐々木を「事実」にする必要が本当にあったのか?私としては、佐々木の葬式前夜に昔通っていたバッティングセンターを訪れた石井たちが、ホームラン数ランキングの掲示板に「佐々木」の名前を見つけるあのシーンだけで万事は事足りていたんじゃないかと思う。
テネシー・ウィリアムズ『ロング・グッドバイ』の脚本とオーヴァーラップしながら一気呵成に畳みかけるラストシーンは、勢い任せとはいえかなりの出来だったように思う。霊柩車から全裸の佐々木が飛び出し佐々木コールが湧くラストカットも全然嫌いじゃない。むしろ好きだ。ただ、先述のような狡猾さないし思慮の浅さを鑑みると、これら一連のシークエンスも単にそれっぽいことをやっただけのように思えてしまうから残念だ。
石井とユキのやり取りに関しても疑問が残る。私には二人が「人生には数々の別れがある」という本作と『ロング・グッドバイ』に通底するテーゼに例証を加えるためだけに別れさせられたように感じてしまった。なぜ二人には回復への道筋が残されていなかったのか?そこが描かれていなければいけないと思う。無論そんなものを描いている暇はなく、それならば初めからユキに焦点を当てるべきではない。苗村同様に単なる背景オブジェクトとして布置しておくくらいがベストだったんじゃないか。