佐々木、イン、マイマイン 劇場公開日:2020年11月27日
解説 初監督作品「ヴァニタス」がPFFアワード2016観客賞を受賞し、人気バンド「King Gnu」や平井堅のMVなどを手がける内山拓也監督の青春映画。俳優になるために上京したものの鳴かず飛ばずで、同棲中のユキとの生活もうまくいかない日々を送って悠二は、高校の同級生の多田と再会をする。悠二は多田との再会で、在学当時にヒーロー的存在だった佐々木との日々を思い起こす。悠二はある舞台出演のため稽古に参加するが、稽古が進むにつれ、舞台の内容が過去と現在にリンクし、悠二の日常が加速していく。そんな矢先、悠二の電話に佐々木から数年ぶりの電話がかかってくる。主人公・悠二役を「his」の藤原季節が演じるほか、細川岳、萩原みのり、遊屋慎太郎、森優作、小西桜子、河合優実、「King Gnu」の井口理、鈴木卓爾、村上虹郎らが脇を固める。
2020年製作/119分/G/日本 配給:パルコ
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現代のパートも過去のパートも、決定的な瞬間や事件はほとんど描かれない。どこかからどこかへと向かう途中の時間をすくい上げて、その時間にある豊かさやかけがえのなさ、宙ぶらりんのリアルさなんかをみごとにシーンに昇華させている。終盤はちょっとまとめに入ってしまった気はしたし(ラストはまとめないぞというまとめだとも言える)、映画内で描かれる演劇がダサめなのが気になったりもしたのだが、それにしても、素晴らしい演技と撮影によって緻密に生み出された現実の揺らぎみたいなものが随所で立ち上ってくるので、終始スクリーンから目が離せなかった。贅沢な体験でした。 あと鈴木卓爾。佐々木の父親をあのビジュアルとあの声のトーンで演じたセンスと佇まいに心から震えた。いい演技だらけの映画だけど、とりあえず2020年の助演賞は鈴木卓爾一択でいいんじゃないかと思ったりしました。
誰かが記憶や死者を辿るとき、その対象は少なからず一方的・恣意的に消費される被虐者である。面と向き合った相手の心さえ見通せない我々に、記憶や死者のそれが見えるはずもないが、記憶や死者をなかったことにはできないから、我々は自分の思考を頼りにそれらを思い浮かべる。俺にはお前がわかるんだ、と自己暗示をかけ、「内面を持った」記憶や死者を好き勝手に召喚する。 別にそうすること自体は悪くない。それが「思い出す」という行為の本質なのだから。ただ、思い描いた他者像が自己世界の拡張に過ぎないということを意識的であれ無意識的であれ忘却し、主客の位相を混線させるような作品には疑問がある。 本作ははじめこそ石井を語り手(あるいは思い手?)とした一人称の体裁をとっていたものの、物語が進むにつれてカメラは徐々に石井を離れ、思い出される客体であるはずの佐々木にも焦点を当てていく。私にはこれがものすごく暴力的なことに思えた。 石井の個人的世界の中では「佐々木は可哀想な奴だった」という憐憫にも似た認識が醸成されていたが、先述の通りこれはどこまでも恣意的な他者認識だ。佐々木が本当に何を思っているのかは佐々木にしかわからないし、わかるべきではない。にもかかわらずカメラは石井のいないところに留まり続け、そこで苦悩し涙をこらえる可哀想な佐々木を捉える。このように佐々木「だけ」を映すことによって、石井の主観(=想像)は客観(=事実)へと巧妙にすり替えられていく。絶対にわかるはずのない、わかるべきでない佐々木の本心が暴かれていく。石井の回想によって一方的・恣意的に呼び出された佐々木は、次いでカメラの客観化作用によって「事実」へと固定される。佐々木は二重の暴力に翻弄されているといえるだろう。特に佐々木が山梨のカラオケボックスで苗村をナンパするシーンなんかは佐々木を「事実」にする以上の意義がまったく見当たらなかった。 果たしてこれほど執拗に、「佐々木 "in my mind"」というタイトルさえもかなぐり捨ててまで佐々木を「事実」にする必要が本当にあったのか?私としては、佐々木の葬式前夜に昔通っていたバッティングセンターを訪れた石井たちが、ホームラン数ランキングの掲示板に「佐々木」の名前を見つけるあのシーンだけで万事は事足りていたんじゃないかと思う。 テネシー・ウィリアムズ『ロング・グッドバイ』の脚本とオーヴァーラップしながら一気呵成に畳みかけるラストシーンは、勢い任せとはいえかなりの出来だったように思う。霊柩車から全裸の佐々木が飛び出し佐々木コールが湧くラストカットも全然嫌いじゃない。むしろ好きだ。ただ、先述のような狡猾さないし思慮の浅さを鑑みると、これら一連のシークエンスも単にそれっぽいことをやっただけのように思えてしまうから残念だ。 石井とユキのやり取りに関しても疑問が残る。私には二人が「人生には数々の別れがある」という本作と『ロング・グッドバイ』に通底するテーゼに例証を加えるためだけに別れさせられたように感じてしまった。なぜ二人には回復への道筋が残されていなかったのか?そこが描かれていなければいけないと思う。無論そんなものを描いている暇はなく、それならば初めからユキに焦点を当てるべきではない。苗村同様に単なる背景オブジェクトとして布置しておくくらいがベストだったんじゃないか。
2023年4月6日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD
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なあなあで大人になってしまったんだろうなあという主人公の今と、決して華やかではないが仲のいい4人組で過ごした青春時代の回想が交差しながら、作品は終点へと向かっていく。大人の主人公も、回想の中の佐々木も触れたら爆発してしまいそうな、どこか危うい雰囲気を漂わせていた(佐々木は大人になってもだが)。 佐々木が死んで、元カノとのお別れを決意し、まるで爆発したかのようにロンググッドバイのセリフを叫びながら走り出す主人公。そして最後に爆発したかのごとく飛び出す佐々木。それに拍車をかけるようになされる佐々木コール、車のクラクション。最後のシーンが現実なのかフィクションなのか定かではないが、いずれにせよ彼らの心の中にはいつだってどこかに佐々木が、今にも服を脱ぎだしそうな、そんな躍動感のある「いきた」状態で存在していることの表れなのではないかと感じた。 明るく元気でお調子者で、でもどこか心の内に秘めた思いを抱えている佐々木。私が中高生の時にいたお調子者は、本当にただのバカだったのか、それとも…、などと当時を想起しながら、男子特有の青春に淡い憧れを抱いた作品であった。いつか私も自分自身へのさよならへとたどり着けるよう、えらいスピードで進んでいく世界についていけるよう、頑張って生きようと思う。 それにしても主人公がめちゃめちゃ喫煙者。画面越しにタバコのにおいが服に染みついた気がする。
2023年2月3日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:VOD
①『ロング・グッドバイ』をミュージカル化すると聞こえたから、てっきりレイモンド・チャンドラーの『Long Good-bye』だと思い、“あれをミュージカル化?ってどうすんだろ?”と思っていたら全く違う芝居だった。 だが、「人生は“さよなら”の連続で、最後の“さよなら”は自分へのグッバイ」という視点は面白い。 ②悠二の現在、悠二・佐々木・多田・木村の四人組の高校時代の回想、多田・木村の現在、佐々木の現在まで、これらをモザイクの様に組み合わせ、最後のシーンで四人組の高校時代のしこりに落とし前を付ける構成がなかなか宜しい。