「大自己満感想文かきました」泣きたい私は猫をかぶる ゆさんの映画レビュー(感想・評価)
大自己満感想文かきました
泣きたい私は猫をかぶるをみて、誰かを愛する人は勇敢であると、私は感じました。なぜなら、人は愛する人にありのままの自分を愛されたいけれども、ありのままの自分を愛する人に否定されたくないからです。このように、本作では人の臆病さが良く描かれていたと思います。
例えば、ムゲが猫(たろう)として日之出に近づいていたことが挙げられると思います。ムゲは猫として仮面をかぶっている時が1番嫌われずに、愛情を注いでもらえることを理解していたからです。というのも、日之出がムゲとたろうを重ね合わせるように何度も思いを馳せているのを見ているのにも関わらず、ムゲはたろうなら簡単に好きと言ってもらえるのに、と呟いてるからです。
確かに、ムゲは日之出に躊躇なく日之出サンライズアッタクを決め込んだり、公衆の面前で堂々と愛情表現をしたり、と臆せずに人を愛しているように見えますが、たろうという形をムゲ自身のスペアのようにして愛を享受しようとしていました。それは、日之出に嫌いと言われた直後にたろうとして仮面を被り会いに行っているからです。他にも、お父さんや薫さん、お母さんに対してのらりくらりと躱していところにも、ムゲの臆病さが描かれていたと思います。
この臆病さを克服する手段として猫の仮面が描かれていたと、私は感じました。言い換えれば、仮面をすることは愛する人に愛してもらえるようになろうとする手段だということです。愛する人に愛してもらえる形で、本当の自分を隠して、本音を押し殺して。しかし、その仮面は本当の自分を愛してくれる人にはすぐに見破られてしまいます。なぜなら、ありのままの人間性を愛しているからです。本作では、きなこがムギに成り代わっていた時、ムギの親友の頼子や日之出には不審がられていたところでそれが描かれていたと思います。
こうした愛されるために仮面を被る行為は、私たちにも存在すると思います。好きな人の前でカッコつけたり、モテるアピールしてみたりと。それが愛されるかどうかは置いておいて、私たちは本当の自分の上から仮面を被ってでも、愛されたいのだと思います。でも、満たされるような愛情をもらうためにはその仮面は脱がなければならないと思いました。ムギが本当に猫になってしまってから、人の声が聞こえなくなるというのは、私たちが仮面をつけた時実際に視覚や聴覚が不自由になるのと似ているなと、思いました。だから、本当の自分を愛してくれる人を見つけられるように仮面を取る勇気が必要なのかもしれないと、この作品を見て感じました。愛するってめんどくさくてかっこいいですね。
映画あんま見たことなくて何となく見やすそうだったからみてみたけど、心が張り倒されました。この作品にめちゃくちゃ感銘受けて夜中に見てすぐ感想書いたけど何書いてるか分からなくなってきて途中からポエムみたいになってました。恥ずかしくなってきたので仮面被らせてください。