「語る顔とひきだす技能」はちどり(2018) 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
語る顔とひきだす技能
1994年の韓国。少女の成長の話ですがその年の聖水大橋の崩壊が映画の到達点になっています。封建的な家族の一員として14歳のウニは抑圧のなかに生きています。家族は米餅を製造販売して暮らしています。裕福とはいえず、学校では疎外され、友情も恋愛も脆く、概して哀しみがウニの日常を覆っています。
あるとき中国語塾で、相識満天下/知心能幾人を習いました。『この世で知っているひとは、おおぜいいるはずです。だけど、ほんとに理解しあっているひとは、そのなかに何人いますか?』という意味です。そのときから中国語のヨンジ先生だけがウニのメンター/理解者となります。
これは映画のテーマにもなりえています。思春期にゆれ動く、傷つきやすい内面にありながら、日々さまざまな哀傷がウニに降りかかってきます。かのじょは絶えず孤独を乗り越えなければなりません。
その、いわば韓国版エイスグレイドの側面にくわえ、時代は韓国経済の過渡期にありました。バブルに沸いていた日本とは対照的に社会が殺伐としています。安普請による聖水大橋や三豊デパートの崩壊は、象徴的なできごとだったわけです。監督自身、インタビューに応えて、急いで成長させた軋轢があの時代にあらわれた──と述懐していました。
監督のボラキムは38歳(2020)(映画は2018年製)の女性です。脚本も書いています。実体験にもとづいており、脚色はあれど、ほとんど自分史といえるものです。デビュー作品ですが、海外の賞を多く獲っています。
演出は動かないカメラです。手持ちせず、長回しもしませんが、長く回します。シーンがほかの映画より半拍長い──という感じです。ですがそこに退屈はありません。表情と心象がすごく語ります。もっとも貢献しているのはウニ役の女優パクジフです。演技の気配がまったくありません。
このようなスタイルの演出家は大勢いると思いますがボラキム監督はそれらより強力なものを核心に感じます。聖水大橋の崩壊とリンクしている、14歳のアイデンティティの危機と確立を、そのときから書きはじめ、ひつような技術や資本をえて、22年後に映画として完成させた──そんな長い道のりが感じられる映画だからです。
ウニ役のパクジフを探すだけで三年かかったと監督は言っています。興行のための謳いではなく、橋の崩壊から構想をはじめ事実20年超の歳月をかけてつくった映画でした。
したがって実質デビュー作でありながら、つたなさはまったくありません。わかりやすさのために乱暴なたとえをするなら、是枝裕和と河瀬直美を足して二で割った──という感じです。技術もカメラも、すでに本物です。
本物でありながら、日本のコンテンツがよくやるように、女性であることも初監督であることも、壮語あるいはポイント化していません。そんなことを弁解する必要がないほど本物だからです。そしてインタビュー等を見ると、およそ日本なら「きれいすぎる」を冠してポイント化させるであろう一個のきれいなひとです。──Nadine Labakiを見たときに感じたような、なんともいえない、その凄み。
言いたいことが伝わるか解りませんが、この映画は日本での女性の創作活動のような「エロス資産」をもちいていません。サンダンスにシードなしで出品しても観客賞や大賞をとれるでしょう。
ネットフリックスのように、日本映画/ドラマの拙劣さが、公開処刑になってしまう世界型デマンドが世に浸透していることもありますが、韓国映画の「パラサイトだけじゃない感」というか、次から次へ感というか、無理感のぜんぜんない底力には瞠目させられます。
本作でも韓国映画が日本映画とは比較にならない高みにいることを再々痛感しました。
日本映画に望むことはありませんが、このようにサラリとデビュー作で傑出してしまう映画がある以上、とりあえず「第一回監督作品」っていう意味不明の誇示、あれ、みっともないから、やめてもらいたいです。