「庭に腰を据える家の記憶」椿の庭 ordinalさんの映画レビュー(感想・評価)
庭に腰を据える家の記憶
家屋の圧倒的“シズル感”!?
とでも言えようか、観る者の五感を刺激するこの言葉が食べ物意外から思い起こされるのは、商業写真一つとっても物語風景を覗くように捉える写真家・上田義彦氏の手腕にまんまと酔わされたせいだろうか。
コロナ禍に流行の勢いを増した“丁寧な暮らし”などという言葉が陳腐に思えるくらい、引き戸の閉じ方一つで登場人物のキャラクターや心持ちを表す所作や、食事、家屋や家具など暮らしの空気が丸ごと、視覚以外の感覚からも身に沁みた感がした―
モチーフの一つ一つが、そこにゆったりと腰を据えている。
そしてそれらをじっくり見つめる上田氏の、カメラを通したありのままの視線を追える贅沢な2時間である。
おばあちゃんと娘と孫と亡くなった姉、四人の女性を中心にまわる本作にはきっと、奥方・桐島かれん氏をはじめ、娘さんや彼の生家で見てきた親戚など、上田氏自身を取り巻く大家族の女性たちが少なからず反映されているのだろう。
庭を分け入るスーツ男の遺物感たるや、大事な家が売られるという文脈においては嫌悪すら感じさせる。またそれは相応のキャスティングによっても増長されている。彼らに罪はないので余計複雑である。
しかしながら、「水平線だ」「もったいないね」と気の抜けた会話をする作業員でさえ、この庭においては絵になってしまうから不思議だ。数多の有機的な植物に囲まれる無機質な機械と、着物やワンピースにそぐわない事務的な作業服に充てられた“ソクテイ(測定)”という不適切な響きが逆に可笑しくなってくる。(BGMにヴィオラのビブラートなんかある時には尚更)
そして進んでいくばかりの手続きを前にして、人々は悲しいほど無気力である。
この話は一見、家の売却が主軸でありながらも主要なモチーフは”庭“であることを忘れてはならない。
金魚や蜂など命を落としたものはおばあちゃんの手によって椿の花にくるまれ、庭に弔われる。そこにはある種グロテスクさえ感じさせるほどの地に足ついた生命の循環と確かな時間の流れが存在する。
家族に手入れされ眺められてきた庭は、家族の変化や家の歴史をずっとそば見守ってきた主体としての庭でもあり、そうした「椿の庭」に漂う真実の時間、“記憶”こそが、本作の主題なのだろう。
しっかし、上田氏は今日も明日も、あの庭に帰っていくのだなぁ。
おっと、はしゃがない、はしゃがない。
神奈川県立近代美術館 葉山で開催中の企画展「上田義彦 いつも世界は遠く、」関連イベント上映会にて鑑賞。