トゥループ・ゼロ 夜空に恋したガールスカウトのレビュー・感想・評価
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がんばれベアーズは何一つ努力せずに、何一つ進歩すること無く。勝ち残...
がんばれベアーズは何一つ努力せずに、何一つ進歩すること無く。勝ち残った。この映画はやりたいことを見つけ、それに向かって努力する事が加わって、挙げ句、そんな甘くないよ。と締めくくっている。
キャストのキャラクターが全て良いと思う。
図書館の司書が、『ケチャップでシミつけないでね』と言っているが、シミつけたら『次亜塩素酸ナトリウム(漂白剤)』でシミを取れば良い。
子供の可愛さをいやしのネタにいているが、あどけなく、あやふやで、それでも、力いっぱいやろうとする。この映画傑作じやないかなぁ。2回見た。
私たちはここに居るよ!
宇宙が大好きな小学生の少女クリスマス(変な名前)、どうも亡くなった母さんはお星さまになって宇宙から見守っていると信じているから宇宙に惹かれるらしい。彼女の信じる宇宙人は母と暮らすET的な存在らしいがそろそろ科学的な事実も知る年頃、どう折り合いをつけるのか気になったがそちらはスピルバーグやディズニーにお任せで本作のテーマではないらしい。
ふと耳にした宇宙にメッセージを届けるNASAの企画に興味津々、ただ、それにはガールスカウトのパフォーマンス大会で認められることが必要。一念発起して参加グループを立ち上げることにするが一苦労というお話。
タイトルのトゥループ・ゼロは彼女のグループの組織番号。劇中ではガールスカウトでは無くバーディスカウト?と言っていたから男子が入っても良いらしい。
やきもきさせるドラマツルギーとしての敵役のトゥループ・ファイブは鼻持ちならないスノッブ女子、一方ゼロは落ちこぼれ軍団の様相だからいつも衝突。ファイブを纏める女校長も教育者にあるまじきエリート主義者で排他的、コンテストはファイブが勝つがNASAの博士の機転で頑張ったゼロの子たちの声も宇宙に届けられるという結末。差別やコンプレックスに負けないでみんなで声を上げようというテーマでしたか、「私たちはここに居るよ!」。
紅い長靴
無名レビュアーですがレビューでもコメントでも言ってはいけない──と思っている言葉があります。 「かわいい」てやつ。 まいにち何百回と見る言葉ですが、こじんてきに、それ発したら負けだと思っています。じぶんでじぶんに課している無価値でバカげた枷なだけです。たんなる自己満にすぎません。 わたしは他の人とは違うことを書きたいです。「じぶんだけはトクベツとか思っている奴」と思われてもけっこうですが、私見として、人と違うことを書かないなら、ネットに文を置く意味は(まったく)ありません。 とはいえネットの目的には同調者を探す──がある。のは知っています。 それにしても日本人はあまりにも「かわいい」を言い過ぎです。耳タコするぐらい言い、発するから海外にKawaiiがひろまったわけ──です。 もっぱら日本がほこるKawaii文化──と好意的に解釈されていますが、こんだけなんとかのひとつおぼえ──みたいに毎日毎日言ってりゃ、海外に届くのはあたりまえです。ことあるごとに言うのを嘲笑されているだけかもしれませんよ。 ──そんなじぶんでもそれ無しでかたるのはむずかしい映画はあります。 TroopZeroは2019年のアマゾンオリジナル映画。主演は13歳(2019)のマッケナグレイス。冒頭、宇宙と交信するため銀紙を貼っつけた鍋をかぶってでてきます。赤い長靴でひょこひょこ走ります。プラチナブロンドの三つ編み。フリックルフェイス。名前がクリスマス。きんちょうすると漏らします。──あの言葉を使わずになんと形容したものか──と思いました。 日本では数多くのコンテンツにおいて、かわいいはクオリティを代弁してくれます。ありがたいことに外国人はそのことにあまり着目していません。日本語のかわいいは、そこに続く言葉──かわいいからいい、かわいいからだいじょうぶ、かわいいからゆるす──などを内包しているはずです。 したがって日本では「かわいい」だけで商品化やパブリシティが可能です。 本作はマッケナグレイスの見た目に依存していませんでした。かのじょは母を亡くしていて、宇宙への憧憬はその喪失感と表裏になっています。 設定は1977年。 当時のSETI(地球外知的生命体探査)として人工衛星に地球人のメッセージを録音したレコードを備え付けるプロジェクトがありました。 ガールスカウトのコンペティションに勝利すると、そのレコードに発言を録音する栄誉が与えられる──という話。 「クリスマス」はポンコツな同志をあつめてBullyな優等生と争います。素直で人が良くて博愛で、愛らしい顔立ち。癒される映画でした。 外国映画と日本映画には、力量の差に加えて「かわいい」(=見た目)に依存するか、しないかのちがいがある──と思います。 たとえばジョジョラビットが圧倒的に感じられるのは、見た目がかわいいだけでなく、作品としての完成度が高いから──だと思います。 萌えの文化圏をもたない外国はかわいいを値打ちのある材料として使いません。だけど、かわいいのは前提/当然にもなっています。 いっぱんに日本の文化にたいする海外の反応は、良好なものしか報道されていませんが、そうでないものもあるはずです。個人的に日本映画をつまらないと感じることがありますが、これだけ頻繁につまらないと感じるのなら、それはわたしだけ、日本人だけの見解ではないはずです。 日本のゲームと海外のゲームでは見た目に大きな違いがあります。2022年のこんにちでは外国のゲームが日本語にローカライズされることは日常です。もちろん逆もしかり。で、たびたび和製と外国製のゲームのもっとも顕著なちがい「ゲームキャラクターの外観」が掲示板等で俎上に乗ります。 個人的にはそう感じたことはありませんが日本人の多くは外国ゲームのキャラクターが(日本のそれに比べて)不細工だと感じているようです。 まとめサイトで見つけたその疑問にたいしての、とある外国人の回答が痛烈で、象徴的でした。 かわいいや萌えにたいするひとつの非日本の知見だとも思います。 日本語訳されて転載されていたのを引用します。 『西洋のゲーム開発者は、芸術品の作成に努めています。何か意味のあるもの。人々の心と心に残る何か。それは彼らにとっての自己表現の行為です。あなたが彼らの意見に賛成するか反対するかは関係ありません他の人と同じように、彼らは一人で意見を持つことに対して少しの敬意を払うに値します。 アジアのゲーム開発者はエンターテインメント製品を作っています。最も低い本能を目指した、ばかげた楽しみのばかげた部分。つまり、セ○クスと暴力、カジノに触発されたドーパミン具を燃料とする報酬への期待、マウスとウサギに適しています。同じたわごとが何度も逆流し、同じデザイン、同じプロット、同じ決まり文句。アジアのgamedevsは、魂のためのファーストフード(またはむしろその欠如)で働いている単なる無人ドローンです。そして、アジアのプレイヤーは、彼らと同じ愚かな魂のないドローンであり、何度も何度もそれを飲み込んで喜んでいます。アジア人にとって、キャラクターは画面上でよだれを垂らして自○行為をするための単なるピクセルであるため、すべてのキャラクターは、それ自体が(仮想)人物ではなく、単なるファンサービスのウォーキングコレクションである必要があります。 共感の重大な欠如。ガチャをプレイしてください、ジャ○プ。』 (2020年10月8日、匿名の投稿より(ロシア人))
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