「不快指数においては、邦画史上No.1かも」MOTHER マザー グレシャムの法則さんの映画レビュー(感想・評価)
不快指数においては、邦画史上No.1かも
人間社会では、どんなことにおいても、常識派(たぶん多くの場合、多数派)からみたら、あり得ないような人が、一定数は存在します。
アメリカ映画によく出てくるような〝サイコパスの猟奇的な凶悪犯〟などは極端だとしても、会議になるとすぐ居眠りしてしまう(私のような)人、遅刻の常習犯、あからさまに上司に媚びる人、コロナ禍の状況になってもトイレ後に手を洗わない人(男子トイレでは結構目撃例が多発…自分の◯◯◯は別に汚くないと思ってるらしい)など、まあ、それなりにいます。
もちろん、常識派、多数派が必ずしも正しいわけではありません。なので多くの人が、ことを荒立てず、相応の不平不満をお互いに抱えながらも、アシタカのようになんとか〝ともに生きていく道〟を探りつつ(或いは諦めて)折り合いをつけながら日々を過ごしています。
この映画に出てくるような、〝さしたる考えもなく目先の享楽のために、お金は欲しい、でも働くことは嫌い〟という人、そして短気で暴力的な人(大声で叫ぶことも暴力です)も現実的には、一定数存在します。
ただ、このような人たちを放っておくことは、社会の不安定さにつけ込む裏社会の拡大(闇金融やドラッグなど)や犯罪の増加に繋がるリスクが高まるし、DVや児童虐待が発生することにも繋がるため、生活保護や児童相談所などの社会システムがあるのだと思っています。
社会システムの側に権限があり過ぎると、自由と私権が損なわれるリスクもあるので、とても難しい問題ですが、周平君の将来を考える視点でこの映画を観ると、もっと早い段階で、秋子の親権を制限するルールがあってもいいのではないかと私は思ったのですが、どうなんだろう。
子どもが社会の安定化、すなわち平和な世の中に寄与する構成員として、自立できるようにするのが、教育の本来の役割のひとつであることを考えれば、その機会を奪う親の言動は平和な社会を作ることにおいては犯罪なのではないか、という理屈も成り立つ。
私の場合、一定数のあり得ない人がいる、という前提に立っているので、〝どんな形であっても親子の愛だから〟という考え方自体を受け入れることはとてもできませんでした。
愛という概念や文脈で理解したくないと思ってるからです。